揺れぬ蜉蝣

キズキ七星

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mooncalf

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 初めて入る教室は見慣れない顔だらけで、僕は眩暈でフラフラしそうになった。大学までのバスが遅延していたせいで、教室に着いたのは講義開始時刻の三分前だった。既に後方の席は埋まっていて、前列二列の端の方が空いていた。僕は仕方なくその席に座る。
 入学してから二ヶ月が経っても友人一人さえも作れない僕は何をしていいか分からず、そろそろと教科書を開いてみる。予習をしている優等生です、と言いたげな顔で他人がパーソナルスペースに侵入してくることを無意識に拒んだ。
 教室は不自然な程に静かで、僕は余計にそわそわし始めた。
 教論が居るわけでもないのに静寂としただだっ広い室内には、四、五十人は学生が座っている。誰も彼もが友人を作っていないのだろうか。いやそんなわけは無いのだろうが、そう思ってしまう程に静かだった。
 講義時刻をとうに過ぎた頃、教論がのそのそと教室に入ってきた。教論は自分が遅刻して来たことに触れることはなく、淡々と講義を進めていった。学生達もなんの不満も感じていない様子で、聞いているのか聞いていないのかよく分からない顔で板書を取ったり教論の顔をぼんやりと見つめたりしている。
 講義の内容がよく分からないまま時間は過ぎていき、ついに僕は文庫本に手を伸ばした。そのまま誰に咎められる事もなく、僕は悠々と活字に触れ続け講義は終わった。

 今日は豪雨だ。大学から駅までのバスは、普段よりも明らかに多い乗客で混み合っていた。
 豪雨でなければ、いや天気が悪くなければ座ることの出来る、入り口の扉に最も近い二人席の窓側に座るポニーテールの女性を横目で見ながら、僕は吊り革に身を委ねていた。
 いつもは座って読む文庫本を今日は立って読む。梅雨特有の湿気がやけに苛立ちを感じさせる。轟々とネオンの光を放つラブホテルの前で赤信号に捕まり、乗客は宗教団体のような揃いっぷりで一斉に揺れた。
 如何わしい光が、僕が手に持つ文庫本の上に車窓に付いた雫の影を落としていた。赤や黄色、緑といった様々な色の光で幻想的な世界が紙切れの上に広がっている。
 僕は思わずスマホを手に取りカメラのシャッターを切ったが、デジタルが限られた四角に表せる色味は現実のものとは程遠くかけ離れたものであった。
 なんだか僕みたいだなと思う。僕が生きている世界は実は素晴らしいものなのかもしれないが、僕の目に映る世界はそんなものではない。
 「僕が生きている世界は実は素晴らしいものなのかもしれない」と思うのは、友達でもなんでもない大学の人のSNSが理由だ。大勢の笑顔が写っていたり、「エモい」と呼ばれるような写真だったり、恋人とキスをしていたり、夏の真っ青な海でビキニを着たりしている。僕はそんなものとは無縁だ。しかし、どれもこれも僕が生きている世界と同じ世界にあるものだ。だから「僕が生きている世界は実は素晴らしいものなのかもしれない」ということだ。

 僕は機械的に二〇一号室の鍵を開け中に入る。
 湿度によるあまりの不愉快さに舌打ちしながらエアコンのリモコンを手に取って除湿のボタンを押す。ガガガという音と共に羽を下ろして、次第に部屋は乾いていった。
 快適な空間となった部屋に寝転び、僕はテレビの電源を付けた。赤いランプが緑に切り替わると、画面には知らないアニメが映し出された。幼い頃は母親の作る夕食の匂いに腹を空かせながらも夢中になってアニメを見ていたものだが、最近はまるで見なくなってしまった。キャラクターの名前もストーリーの内容も、ましてや題名さえ知らないそのアニメをぼんやりと眺めているとぐぅと腹が鳴る音が聞こえた。
 夕食を取っていないことを思い出すと、僕は冷蔵庫を開けてみる。しかし中には麦茶とヨーグルトしか入っていなかった。僕は溜め息を吐いて冷蔵庫の扉をわざと大きな音を出して閉めた。
 時刻は八時を過ぎていた。スーパーに買い出しに行くのも面倒だし、かといって食べないというのも選択肢には無い気がした。
 いくら入っているか分からない財布をパンツのヒップポケットに押し込み、地味なスリッパを履いてコンビニへ向かった。
 ジメジメした空気が僕の肌にベールのようなものを纏わせ、嫌な汗をかいてくる。自動ドアを抜けると適度に冷やされた空間が僕を迎えてくれた。そのままの足取りで惣菜コーナーに行き十分くらい立ち止まって考えた後、無表情のままにサンドイッチと安い珈琲をレジに持っていった。
 店員は慣れた手つきでバーコードを読み取ると「三百二十五円です」と高い声で言った。
 会計を済ませて逃げるようにコンビニを出る。ビニール袋に入っている売れ残ったサンドイッチに視線を落として、小さく溜め息を吐いた。
 とぼとぼと家に向かっていると、見知らぬ公園が目についた。こんな公園あったかなと呟きながらもその公園に踏み入れていく。
 そこは大して特徴の無い公園だった。小さな遊具と滑り台に青いブランコ。昔は水が張られたのであろうプールのようなものや、誰がどう使うのか見当もつかない小さな丘。「ゴミは持ち帰ってください」という張り紙の横に、ゴミを捨てる用にポリ袋が設置してあった。
 矛盾している横並びに僕はあまり疑問を抱かず、近くのベンチに腰掛けた。袋から珈琲を取り出すと側面に付いているストローを挿した。サンドイッチを頬張って珈琲を流し込む。よく分からない味のサンドイッチは美味しくも不味くもなく、ただ感想に困るものだった。
 サンドイッチを食べ終えて珈琲をあと一口で飲み終える頃、一組のカップルが園内に居ることに気がついた。制服を着ているから高校生だろう。二人は漫画みたくブランコを揺らして楽しげに話していた。
 僕はその光景がなんだか懐かしく思えた。何故懐かしいのかは分からないが、恋人とブランコという組み合わせが僕の頭を握りしめるように痛めた。
 僕はなんとか思い出そうと試みる。しかし、カップルが公園から出て行ってからも思い出すことは出来なかった。
 除湿を付けっぱなしにしておいたおかげで、部屋の中は快適なままだった。
 公園のベンチに座っていただけなのに、夏のペットボトルの結露のように肌に纏わりついた汗から一刻も早く逃げ出したくて、僕は風呂場に駆け込んだ。かなり急いでいたせいか、シャワーヘッドから水が噴き出た瞬間、僕は腕時計を外していないことに気がついた。防水でない腕時計が壊れることを防ぐにはもう遅かった。二十二時三十三分で時は止まっていた。
 濡れた髪と体を拭きながら、僕は止まった腕時計の針を見つめていた。
 二十二時三十三分。この時間をいつだったか見たことがある。

 高校三年生の冬。
 かつてセンター試験と呼ばれた一月末の受験を控えた頃。塾が閉まる二十二時まで勉強に励み、帰り支度をしていた時に僕のスマホが鳴った。
【今から会えない?】
 それは恋人の須原舞華すはらまいかからであった。
 僕は急いで返事をしてエレベーターで五階から一階まで降りる。駅に来てほしいとの事だったので都合が良かった。塾は駅のすぐ隣だった。
 駅のバスターミナルの真ん中には小さなスペースがあって、ベンチがいくつかと、あとは植物が植えられていた。
 小さなスペースには、二階の中央出口から外へ出て一つ目の階段を降りると行ける。僕はその中央出口へ反対側から向かって歩き、二つ目の階段を降りた。
 彼女は待っていた。普段と変わらぬ表情で文庫本に視線を落としている。彼女は僕の存在に気がつくと、無気力な笑顔を浮かべた。
「急に呼び出してごめんね」
 深呼吸をしようとすると、冬の冷たい空気が鼻を刺激した。
「大丈夫。遅くなってごめん」
「塾だったんでしょ?」
「まあね。舞華は?」
「今日は友達と遊んでたの」
 舞華は学力が高かったので、推薦により大学は既に決まっていた。僕は最悪まだ二ヶ月ほど勉強が続くのだが、須原舞華はその事実に配慮を置けるような女性ではなかった。
 そろそろ交際を始めてから二年と半年が経とうとしている。僕たちは高校一年生の猛暑に付き合い始めた。違う高校に通う僕らが何故付き合ったのかと言うと、僕の一目惚れが理由になる。
 高校に入学してから初めての夏。蝉の鳴き声が忙しなく響く暑い日。僕は部活に行くために学校へ向かっていた。
 駅のホームでイヤホンを付けて音楽を聴いていた。その時聞いていたのは確か「クリープハイプ」の「ラブホテル」だった。
 いつも乗る七時三十三分の電車が、速度を落としながら滑り込むようにやって来て、三両目が僕の目の前に止まった。プシューと音を鳴らしながら扉が開くと、最前列に制服姿の女子高校生が立っていた。セミロングの髪型にカッターシャツが異様に似合っていた。すらっとした白い足が、踊るように靡く紺色のスカートといい具合のコントラストで美しく見えた。
 完全に一目惚れだった。丸眼鏡をかけていて一見地味そうに見えるけれど、グラスの奥に光る少し目尻の上がった大きな目に、僕は吸い込まれそうになった。
 僕は電車に乗り込み、彼女の背中を目で追いかける。車掌がボソボソと濁った声で話し始めた。その声を裏に僕は彼女を見つめ続けた。プシューと音がして扉が閉まりそうになった時、僕は思わず電車から降りてしまった。この電車を逃したらもう部活には間に合わない。顧問に鬼のような形相で怒鳴られるだろう。しかし僕は降りてしまったのだ。
 額や頬、身体中に滴る汗なんか気にも留めず、僕は夢中で階段を駆け降りる。そのまま改札を駆け抜けるが、名前も知らない彼女の姿は見当たらず、映画のワンシーンのように辺りを見渡した。今日は何故か普段より人が多かったためか、彼女を見つけるのに時間がかかった。
 中央出口を抜けた先に、彼女の背中が小さく見えた。ショルダーハーネスをぐっと握り締めて、彼女目掛けて全速力で走った。彼女は中央出口を出て一つ目の階段を降りて行ったので、僕も続いて踏み外さないように降りて行く。
 すると、彼女は階段を降りたすぐの所にあるベンチに座っていた。僕があまりにも息を切らして、汗だくという言葉では言い表しきれない程の汗を流していたので、彼女は驚いた顔をしていた。
 彼女はハンカチを貸してくれた。緑や黄色で縫われた可愛らしいハンカチ。僕は躊躇なくそれを受け取って、額や首元の汗を拭った。
 部活のために持ってきたバカでかい水筒をリュックから取り出して一気に半分くらい飲んだ。
「すみません」
 僕は息を荒げながら謝る。
「なにがですか?」
 彼女はキョトンとした顔で首を傾げた。
「あ、いや、ハンカチ」
「あぁ、それは全然大丈夫です」
 彼女の話し方は、穏やかでゆっくりで落ち着いていた。女の子らしい少し高めの声だった。
「あの、どこかでお会いしました?」
「いや、全然会ったことないです」
 僕はできるだけ息を整えながら、初対面であることを言い切った。
 会ったことがあるとホラを吹けば、話題作りにでもなったかもしれないのに、変なところで真面目というか堅い性格が出てしまった。
 僕らは黙り込んでしまった。僕は何を話せばいいのか探り続けていたし、彼女は誰か分からない男が何も話さないことに戸惑いを隠せないようだった。
 ついに、彼女の方から口を開いた。
「お名前は?」
「あ、すみません」
 耳許でブゥーンという嫌な音が聞こえ、僕は咄嗟に叫んでしまった。その声に彼女も驚いたようでビクッと肩を上げた。蜂か蠅か分からない音の正体はどこかへ消えてしまって、固まった二人が残された。
 僕らはなんだか可笑しくなってしまって、大きな声で笑った。お互いの名前も歳も、何一つ知らない僕らは二人だけの世界を作り上げて、こんなに蒸し暑い夏だというのに桜が舞っている気がした。
「あの、今頃なんですけど」
 僕は思い出したように、そう言った。
「はい」
「急に現れて何事かと思いましたよね」
「それはとても」
 僕らは静かに笑う。彼女は笑う時に、口許を手で隠す癖があるようだ。
「警戒しないで聞いてほしいんですけど」
「はい」
 僕は一度深呼吸をした。四秒吸って六秒吐いた。
「一目惚れ、しました」
 彼女は一瞬驚いた顔をしたみたいだが、すぐに表情は穏やかになり、クスクスと笑い出した。
「何か可笑しかったですか?」
「いえ、違います」
 彼女はまだ小さく笑い続けている。
「な、なんですか」
「いや、そんなこと言われたの初めてだったので」
 ナンパと言えばそうなってしまう僕らの出会いは、僕にとっては純粋な恋だった。
 汗が垂れる彼女の首元を見て「蒸し暑い夏も捨てたもんじゃないな」と思った夏は、僕らの恋心も温めてくれた。
「これからどこか行くんですか?」
 僕は尋ねた。
「学校ですよ」
 僕は彼女のその言葉で、部活の事を思い出した。腕時計を確認したが、もう練習は始まっている時間だった。
「君は?」
「あ、いや。部活だったんですけど、貴方に声を掛けたくてサボってしまいました」
 彼女は驚いた顔をしたあと、すぐに大袈裟に笑った。その妖艶な笑顔は、僕とは真っ逆さまだと思った。
 彼女も学校に行くのを辞め、昼過ぎまでそのベンチで笑い合った。
 正午を過ぎると駅で軽く昼食を済まして、駅からさほど遠くない場所にある映画館へ向かった。二人とも特に見たい映画があったわけではなかったが、適当に選んで劇場内に入った。そして、最初から最後まで手を繋いでいた。
 僕はその日のうちに告白をして、彼女はすんなり受け入れてくれた。出会った日に付き合えるとは思ってもいなかったので、一年が経った頃に理由を聞いてみると、「気が合うと思った」との事だった。見た目は堅そうでも中身はあっさりしている彼女に飽きが来ることもなく、僕らは順調に歩み続けていると思っていた。

 初めて出会った場所で、僕らは静かに冬空を見上げている。
 彼女が何を話したくて呼んだのか、僕には分かっていた。でも僕はそれを認めたくなくて面白くもない話題で引き延ばそうとしてみたが、そのネタも底をついてしまい沈黙が流れていた。
 僕は何を話そうか探り続けていた。彼女は覚悟を決めたような吹っ切れたような、迷いのない顔をしていた。
 長い静寂の末、彼女が先に口を開いた。
「別れよう」
 僕はその四文字を聞かなかったことをしたかった。しかしそんなこと出来るはずもなく、ただ俯いていることしか出来ずにいた。
「何か言ってよ」
「ごめん」
 俯いたまま腕時計に目をやると、時刻は二十二時三十三分だった。時計の針が止まっているように見えた。そんな現象に名前が付いていた気がしたけれど、別れを言い渡された僕は思考が停止していて、思い出すことは出来なかった。
 昼は人混みで賑わっている駅もこの時間になれば人気は無く、静まり返っていて僕を困惑させた。やけに静かに感じられ、僕は気が狂いそうになっていた。
 振られた理由は明確だ。所謂「すれ違い」というやつだった。受験が近いこともあって勉強に打ち込みたかった僕らは、疎遠状態になってしまっていた。
 それでも週に一度は、夕方の公園で他愛もない話をしたり、マクドナルドでハンバーガーを食べさせ合いしたり、週末の夜は寝る前に「十分だけ」という約束で電話をしたりしていた。
 何がいけなかったのだろう。いくら過去を思い返してみても、楽しかった記憶しか出てこない。喧嘩したとしても、次の日には仲直りするよう心掛けていたし、他の女子と遊ぶことなんてしたことがない。それは彼女も同じだった。
 だから「すれ違い」だということを僕は受け入れざるを得なかった。そして、僕は彼女も「すれ違い」が別れの理由だと考えているに違いないと思い込んでいた。でも違った。その理由は考えただけでも吐き気がするから思い出したくもない。
「じゃあ、またね」
 僕は帰ろうとして重い腰を上げた。僕の体重を支えていたベンチが、ギシッと小さな音を立てて軋んだ。
 彼女は返事をしなかった。僕が何か話すのには遅すぎたのか、「じゃあ、またね」という言葉に引っかかりを感じていたのかは分からない。でも、彼女の視界から僕が消えるまで「またね」とは言ってくれなかった。
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