揺れぬ蜉蝣

キズキ七星

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mooncalf

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 帰りのバスを逃して、背を丸めて家路を歩いた。
 失恋ソングを聴く気にもなれず、涙を流せるわけでもなく、微かに光る街灯をいくつも通り過ぎていった。肌を凍てつく程の空気が、悲壮感を僕の心の周りに擦り付けているようだった。
 昨日の豪雨が嘘かのように、今日は朝から晴れ渡っている。不愉快な湿度も元々無かったみたいに酷く乾いている。大きく伸びでもしたら、肌がピキッと音を立てて小さなヒビが割れてしまいそうだった。
 今日は講義もバイトも何ひとつ予定が無い。窓を開けて網戸も開けてしまうと、隔てが無くなって喜び踊るように、乾いた夏風が部屋中に一気に滑り込んできた。
 僕は思わず「おっ」と漏らす。高校生の頃から履き古したスリッパを突っ掛けてベランダに出る。手摺りに肘を付いて少し乗り出すと、眼鏡のリムの中で寝癖がふわふわと揺れた。前髪が随分と伸びてしまった。
 少し強めの風に吹かれていた時、突然スマホのアラームが起動して僕の心臓から何から何までの内臓が一瞬だけ浮いた。僕は渾々と早く鳴り続ける鼓動音を気にしながら、手早くアラームを止める。これは、僕にとってよくあることだった。
 寝癖だと言わなければ、パーマか何かだと思われそうな頭を整えることなく、僕は着替えだけ済まして外に出た。
 各階に二部屋しかない二階建ての小さなこのアパートは、いつ見ても綺麗とは言い難い。裏に畑がある所為で夏には虫が挨拶しにくるし、大家さんは無愛想でなんだか怖いし、夜は蛙の鳴き声がうるさい。各部屋に人は住んでいるらしいが、滅多に会うことはなかった。
 隣に住んでいるのは確か女性だったはずだ。先月一度だけ玄関前で鞄をごそごそしているところを見かけたのだが、年齢は同じくらいに見えた。肩に触れるか触れないかくらいの髪の長さで、細身の体で、白い肌だったことを覚えている。「どことなく可愛い」というジャンルに分類されそうな、どこか可愛らしい女の子だった。

 アパートから数分歩いたところに、喫茶店と併設されている古本屋があった。四月に大学に入学してから一週間が経った頃に、近所を当てもなく散歩していたら見つけた店だった。
 中に入ると、なんとも言えない匂いがする。決して良い匂いではないけれど、不愉快にもならない。「古本屋の匂い」と言えば分かるだろうか。
 僕はここにふらっと来るのが好きだ。特定の本を探しに来るわけではなく、来てみて気になる本が見つかればすぐに購入して、隣の喫茶店で珈琲を啜りながら読む。小説の主人公の休日ってこんな感じかと思いながら、読み終わった本をテーブルに置いて、冷めてしまった珈琲を喫って、窓の外を軽快に通り過ぎて行く車を見て余韻に浸る。
 その時の僕は、主人公だった。
 しかし、今日は面白そうな本を見つけることができなかった。正直なところ、面白そうだと思った本は一冊あったのだが、あまりにも使い古されていて、とてもじゃないけれど購入する気にはなれなかった。
 店を出て大通り沿いを歩いていると、大きな池のある公園があった。人の名前だと思われる呼び名がついたその池は、確かに普通の公園にはあり得ない大きさであったが、特別興味は持てなかった。
 何も考えず公園内に入ると、休日の昼間だというのに子供一人として人はいなかった。少し広すぎる公園に僕一人がぽつんと立っていた。
 池に沿って歩いていくと、池に向かって細い通路が突き出ていて、その先には屋根付きのテーブルとベンチがあった。大きな池の端に浮かぶその休憩所には、なんだか行く気が起こらなかった。家族連れや恋人たちが座る場所のような気がしてしまって、この気持ちを説明しようにも誰にも伝わらないと思うのだけれど、僕には行けなかった。その代わり、池が見渡せる小さな青いベンチに腰掛けた。丁度そこは木の陰になっていて、程よく涼しい微風に撫でられた。
 風に当たっていると、やはり本を買いたくなってきてしまった。僕はさっき寄った古本屋に戻り、しかしやはり気になる本は古すぎて買えないので、同じ本がないかとダメ元で尋ねてみた。
 すると、店主が売り物ではない私物の同じ本を持ってきてくれた。「もう読まないからやるよ」と言ってタダで譲り受けてしまった。予想外の展開に僕は目をパチクリとさせたが、『彼女の心とその周辺』と書かれたその本を手に、早足で公園に戻った。
 太陽の光では文字が読めないほどに暗くなっていることに気がついた時、少し離れたベンチに女性が一人座っていた。どこかで見たことのある横顔だった。
 彼女は、耳にイヤホンをはめて静かに音楽を聴いていた。
 薄暗くて本を読み進めることは難しかったので帰ろうと歩き始め、彼女の前を通りかかった時、「あ!」という声が聞こえた。その声は、隣に住んでいる女子大生のものだった。彼女はイヤホンを片耳だけ外してから言った。
「片岡義勇さんの」
「へ?」
「あ、その本の著者」
「あー。さっきそこの古本屋で貰ったんです」
「貰った? 買ったんじゃなくて?」
 彼女は眉間に少しだけ皺を寄せた。僕は古本屋で起こったことを大雑把に話した。
「へえ、良かったね」
 彼女は、興味がないような表情だった。僕はそのまま帰ろうかとも思ったが、あとからモヤモヤしてしまいそうだったので尋ねることにした。
「隣に住んでる方ですよね?」
 彼女は落としていた視線を、勢いよく僕に向けた。
「え、同じアパート?」
「一度会ったことはあるんですけど」
 彼女は僕のことを覚えていないようだった。そりゃそうだ。僕には何も特徴がない。最近、美容室に行ってないおかげで髪が伸びたくらいで、特別長髪というわけでもないし、イケメンでもない。
「じゃあ一緒に帰ろ」
 名前も知らない彼女は、スマホとイヤホンをハーフパンツのポケットに押し込んでそう言った。僕は黙って彼女の背中を追いかけた。
 大きな池は空が暗いせいか底が見えなくて、海でもないのに海洋恐怖症の僕は鳥肌が立った。なんだか奇妙な予感がした。彼女の背中は、見慣れた優しい背中によく似ている。

 家路を歩いていると、さっき本を貰った古本屋の横を通った。[吉乃書店]と書かれた小さな看板がちょこんと立っていて、黄色い光がぐるぐると輝く帽子を被っている。どこからやってきたのか、一枚の木の葉が風に乗って視界を横切った。
 吉乃書店と併設された喫茶店の外壁には、[喫茶よしの]と店名が掘られている。書店は[吉乃]で喫茶は[よしの]なのは何故なのだろう。
 そういえば、店主の名前は吉乃さんではないはずだ。名字は確か、川瀬だったはずなので、もしかしたら下の名前が吉乃さんなのかもしれない。今度また来た時にマスターに尋ねてみようと思った時、前を歩いていたはずの隣人の声が遠くから聞こえてきた。
「どうしたんですか?」
 僕は喫茶店の向かいの路地で仁王立ちしていた。隣人はそこそこ離れた場所で振り返っているので、随分長い間一人で立っていたのだろう。
「ん、行きたいんですか?」
「あ、いえ、さっき寄ったところで」
「喫茶店?」
「いえ、そっちじゃなくて隣の本屋さん」
「ヨシノ?」
「どっちもヨシノですね」
 隣人は、ほんとだあと目を少しだけ開いた。フフッと笑った。
「あ、この本、貰ったところがここです」
 片岡義勇さんの本を胸の前に置いた。
「行ってみたいなあ」
 僕は腕時計に視線を落とす。十八時半に差し掛かる頃だった。
「本屋さんはもう閉まってる時間ですね」
「えー、残念」
「でも、隣の喫茶店はやってますよ。あそこ、喫茶店にしては珍しくて、日付変わる頃までやってるんですよ」
「え、行ってみたいです。本持ってるし」
 彼女はショルダーバッグをごそごそして、文庫本を取り出した。中村航の『僕の好きな人がよく眠れますように』だった。
 店内に入ると、いらっしゃいませとマスターが静かな声で迎えてくれた。程よい音量でジャズが流れている。店内に客はいなくて、僕と隣人とマスター三人の秘密基地みたいだと思った。
 彼女は物珍しそうに店内を見渡している。大通りが見える大きめの窓を縁取るように植物が飾られていた。
「これ本物ですか?」
 僕はマスターの顔ではなく、植物をまじまじと見つめながら尋ねた。
 マスターは鼻で笑った。でも、不愉快にはならなかった。
「まさか。作りもんです」
「ですよね」
「いつからやってるんですか?」
 僕の相槌に続けて、隣人は尋ね重ねる。
「もう四十年ほどになります。お嬢さんは初めてですか?」
「はい。君、来たことあるんですか?」
 次は僕に尋ねた。びくっとして瞼を動かした。
「何回かあります。先日も珈琲頂きました」
 マスターは、小さい声でおおと言った。
「それはそれは。ありがとうございます」
 グラスを抜く手を止めて軽くお辞儀をした。僕も倣った。この人はいつ見てもグラスを拭いている気がする。他の客がいるところは見たことがないので、洗い物もないように思える。いや、僕がいない時に来る人もいるだろうけれど。
 でも、そんなことを聞くのは失礼になるかもしれないと思った。
「いつもグラス拭かれてると思うんですけど、何でですか?」
「どういった質問で?」
 そりゃそうだ。質問の意味が分からない。
「えっと、僕が来る時にマスターいつもグラス拭いてるんです。何でかなって」
 ただ言葉を言い換えただけの、さっきと同じ質問をした。
「お客は来ないんですけどね」
 マスターはそう言ってから、一度深呼吸をした。
「いつ誰が来てもいいように、グラスは磨いて、珈琲豆はしっかり保存して、店内は綺麗にって思ってるんです」
 マスターのプロ意識のようなものは、すごく立派なものだった。この人は、きちんとした人生を歩んできたのだろう。
 なんだか珈琲の気分ではないような気がして、今回はココアにした。彼女はアイスティーを頼んでいた。
「何か食べますか?」
 彼女は少し悩んだようだったけれど、そのあとしれっと言った。
「家で食べるから大丈夫です」
「分かりました」
 彼女がここで夕食を食べてしまおうって言うなら、僕も済ませてしまおうと考えていたけれど、そう言われたら僕も節約しなくちゃと思ってしまったので、家に帰ってから食べることにした。材料あったかな。あったとしても作るのはこれ以上ないほどに面倒臭い。
 今日初めて会話を交わした僕らは話す話題なんてあるはずもなく、各々の飲み物を減らしていくだけの時間が過ぎていった。
 最初は何か話さなければと話題を探してみたりもしたけれど、彼女も一向に話し始める気配がないので辞めた。かと言って、すぐに本を読み始めるというのもなんだか気が引けてしまった。彼女が本を読み始めないという行動にも、僕と同じ理由があるのだろう。せめてものカウンター席に座ってしまえばマスターが話を振ってくれたのかもしれないが、僕らはテーブル席に腰を下ろしてしまったものだから、マスターは無表情で黙々と作業を進めていた。
 気まずい、とはまた違った静かな時間だ。マスターがグラスを拭くと微かにグラスと布が擦れる音が聞こえるくらいで、あとは店内に流れるジャズィな音楽と掛け時計の秒針が進む音だけだった。
 窓越しに大通りを見ると絶え間なく車が走行しているけれど、その音は聞こえない。
 腹がぐぅと鳴いた。腹が空いてしまった。しかし、彼女は家で食べると言ったので、僕一人だけがここで夕食を済ますというのも違うなと思った。彼女に空腹音が聞こえてしまったのではないかと羞恥心を覚えたけれど、彼女は気にしていない様子だったのでほっとした。
 僕はまた窓の外に視線を移す。この店に入る前、僕が仁王立ちしていたすぐ後ろ辺りに、黒い何かが動いているのが見えた。えっ、と思ってその動く何かをじっと見つめる。やたらに小さい。木陰に隠れていてよく見えない。すると、その黒い何かがひゅっと動いて木陰から顔を覗かせた。猫だ。小さな黒猫。
 日向に出てきても影のような小さな猫ちゃんは、僕の方をじっと見ている。何を見ているんだろうと猫の目線の先を見てみたが、結局何を見ていたのかは分からなかった。
 再び黒猫に向き直ると、今度は目が合った。実際は見つめ合っているのか定かではないけれど、じっと見つめられている気がした。よく見ると、青い首輪を着けていて、顎のすぐ下には小さな鈴のようなものが付いているのが見える。飼い猫なのだろうか。この辺りで黒猫を見かけるのは初めてのことだった。
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