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5.Foulness
しおりを挟む高校生の時、補講中に無音になったことがあった。それは自分だけが無音であることには気付いていた。隣の席に座っている女子生徒のスカートから出ている脚を眺めていたら音が小さくなっていった。先生は何か喋っている様に見えるし隣の女子生徒は僕に向けて何か喋っていることも分かる。だけど何故無音なのか理解出来なかった。ムズムズした。躰の奥の方から何かが溢れ出そうで気持ち悪くて吐気を感じるが何も出ない。何も出ないことがまた返って気持ち悪くて仕方がない。吐気は治まらないまま時間が過ぎていく。時間だけが過ぎていく。吐気と共に時間に置いて行かれている気分だ。そんなのは堪らなく嫌で必死に掴まる。時間は僕に遠慮する感じも無く刻刻と進んでいく。この吐気は食べ過ぎた時や酒を飲み過ぎた時の吐気とは異なるものであった。久しぶりだった、この吐気を感じたのは久しかった。意識が僕の躰から離れようとしている。無意識になろうとしている。心地良い、もう僕の躰は心地良さを感じるようになっている―――――――――ハッっと目を醒ます。吐気と無音は跡形もなく消え去っている。ああ美術の授業だったか、この授業は退屈なんだよ。だけどやけに静かだ。時計を見るとあと十分で授業が終わるようだ。廊下を誰かが走っている音がしていたがそれはすぐに消えた。不自然なくらいすぐに消えた。隣の女子生徒は作品創りに夢中なのだろうか、時計の音だけが聞こえる。とても集中しているようで、一言も話さない。先生も椅子に座って俯いている。女子生徒はキャンバスに顔を押し付けスカートが乱れ、カッターシャツがはだけて下着がずれている。彼女と先生の純白なカッターシャツには赤い絵具がべっとりと付いていた。赤の絵具は僕にも付着していたが、僕の作品には赤い絵具は使用されていなかった。
初めて無音を聞いたのは高校一年生の頃だった。中学からの親友と毎日一緒にいた。そいつは悪い奴では無かったのだがまあ他人の話にいちいち突っ込んで否定的な奴だったからそんなところは嫌いだった。そいつは頻繁に僕の家に遊びに来る。僕の部屋で漫画を読んだりテレビを見たり寝たり、なんでここでするのだろう、時には何をする訳でもなくただベッドに寝転がってダラダラするだけの日もあった。女子なのに警戒心が無さすぎると思う。スカートで寝られた時はどうしようと思ったが放っておいた。自分で寝たくせに起きると何もしてないよね、と訊いてくる。してねーよ馬鹿か、と答える。そいつが起きた時には外は既に暉の麗らかさを喪って静寂と化していた。送ってよなんて言うもんだから仕方なく家の近くまで送ることにする。
裏路地を歩いている途中で雨が降り始めたが傘なんて持っていない。
「最悪だなー、天気予報見ればよかった。」
「そうかな、私は雨好きだけど。」
「いや好きとかの問題かよ。」
彼女の方に眼をやると制服のカッターシャツが雨に濡れて下着が透けていた。無音だ。無音が聞こえてくる。さっきまで騒々しかった雨の音や、雨でできた水溜まりの上を車が走る音や彼女の歩く音や彼女の声や彼女の髪が揺れて摺れる音が聴こえなくなった。無音だけが拡がる。視界が徐々に黒く暗くなっていくのが分かる。無音という音に集中すべきかのように聴覚以外の神経が鈍くなる。無感覚だ、無感覚だよ。恐怖は無かったが何故か興奮が込み上げてくる。その興奮の後ろには吐気が付いてきていた。胃の中には食べた物が胃液に溶かされて残っている筈なのに何も出ない。もう雨が降っているのか分からなくなって、降っていたことにも疑問を懐く。その時間は永遠に感じられた。もうこのまま無音だけの世界に堕ちるのだと、永遠に続くように感じられた。冷たい雨が降っていた筈なのに生温い感触が右手から胸にかけて被った。
何一つ穢れのない黒の世界が少しだけ橙色を溶かしていく。眼を開くとカーテンの隙間から暉が入ってきて、棚の上に座っている熊のぬいぐるみを照らす。死んでいない、死んでいないんだ。ホッとした。どうやって家に帰ってきたのかは全く憶えておらず、制服を着たままだ。寝起きで朦朧とする視界でカッターシャツに付いている赤い斑点を見つけた。昨日、美術の授業あったかなと考える。あったさ、あったと思う、曖昧だが確かあった気がする。風呂に入った後、新しい制服に着替え朝食を済ます。テレビをつけるとニュースがやっていて殺人事件について報せていた。家の近くだと分かった。昨日、親友である彼女を送る際に通った路地裏らしい。まあ物騒な世の中なもんだな、ズボンに落ちたパンの屑を払いながら思う。殺されたのは、高校一年生の渡邉……さんです。外で車のクラクションが鳴ったので名前を聴き取れなかった。ニュースを背景音楽にぼんやりしていると学校に行かなければならないことを忘れそうだった。面倒臭いと思いながら学校へ向かう。
自転車を漕いでいると極寒のために手が千切れそうになる。手袋を忘れたので手の感覚は次第に失せていく。ああ無痛だ、ピアス開ける時とか冷やすもんな、無痛にするよな。教室に入ると約三十人の生徒の話し声と混ざり合った体温で満ちていた。昨日の雨で具合が悪いので喧々とした話し声が鬱陶しい。クラスメイトの体温で成るこの温い気温が吐気を促す。そんな気持ち悪さを堪えていると、何か足りない気がした。この教室には何か足りない気がしてそれが何かを探す。担任教師が教室に入って来た。席につけー、と大声を出す。教室に散らばっていた生徒達が席につき始める。少しの間沈黙があった後、残念な報せがある、と小さな声で言う。僕は足りない何かを探す。
「静かに聴いてくれ。そして覚悟して聴いてくれ。朝のニュースで知っている人もいるかもしれないが、クラスメイトの渡邉千聖が―――――。」
教室内が座喚く。ああ足りない何かが分かった。彼女だ、彼女だよ。数秒だけ無音が聞こえた。
―穢―
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