朝木春彦の同棲 ―クソ彦からの脱却―【同棲したら彼氏が三か月でクソ化した件】カリスマ殺し屋のプライベート

花絵ユウキ

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◆第一任務 朝木春彦の創造

第3彦 『特別なオトウト』 (薫)

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 ――あの弟は、もう私の手を必要としないのだろうか。

 十七歳になる手前で、ふと、そんなことを思う瞬間が多くなっていた。

 春先。夕方の風は、まだ少し冷たい。
 午前中に降りしきっていた雨は止んで、今は穏やかな西日が空の隅に望める。
 中庭の石畳には水たまりが薄く張っていて、生乾きのアスファルトのにおいが立ち上がる。

 屋上から取り込んできたばかりの、妹たちの半渇きの洗濯もの。午後から干してみたけれど、やっぱり乾くわけもなく。
 リネン部屋の乾燥機まで運ぶため、カゴを抱えながら女子棟の階段を下りると、いつものように、男子棟の玄関前が見えてきた。

 そこに、人が集まっていた。


「オイ! 今、足踏みやがったな、消されてーのか!」

「お前こそガン飛ばしてんじゃねーぞ、この野郎が!」


 また、殴り合いをしている……。
 男子棟の人たちは、どうしてこうも飽きずに、毎日喧嘩ができるのか……ちょっと不思議ではある。

 そんな中に、春がいた。

 彼は十四歳になって、ずいぶん背が伸びた。
 伸びたのは背だけじゃない。相変わらず散髪は嫌いなのか、髪もますます伸びて、もう背中の下まで届いている。
 そして、肩の線が前よりまっすぐになって、声も低くなった。
 泣き虫だった頃の面影なんて、もうどこにもない。

 春は男子棟の最年長のお兄さんたちに混じり、玄関の脇に寄りかかるように立っていて、殴り合いの輪には入っていない。
 ただ目の前にある光景を、観察するようにじっと眺めているだけだ。

 殴り合いの中、夜間訓練で使う木刀と模擬銃の受け渡しが始まっていた。
 道具を配る年長に、弟たちが群がる。順番は瞬く間に崩れ、踏まれた靴底がきしむ音が石畳に薄くひっかかった。

 そこで、春がたった一言だけ放った。


「後列、右へ回れ。右から配る」


 春が指で半円を描くと、怒鳴り声の向きがずれていく。
 声が強い弟たちが先に欲しいものを手にし、満足して退けば、そこにできる空白は自然に埋まる。弱い者の順番がくる。
 ただ目の前の混乱を収めるだけで、春は前には出なかった。

 私は足元に洗濯のカゴを置いて、なんとなく、春に近づいてみることにした。そんな私に気がついたのか、彼がこちらを少しだけ見る。
 だけど目が合うと、すぐに逸らされてしまった。

 成長したのは、見た目だけではないみたい。
 弱かったあの頃とは、やはり違う。春は、手も、足も、震えていない。


「春、すごいじゃーん」

「別になにも」


 少し尖った言い方だった。
 久しぶりに話しかけてみたのだけど、声をかけない方が良かったのかもしれない。

 最近、変にツンケンされるようになってしまったのだ。
 私がなにか言ってしまったのかもしれないけど、身に覚えがない。
 ただ私にだけではなくて、春は成長するにつれて、どんどん冷たくなって、そして独りになっていった。
 小さい頃は仲間外れにされていたけど、今は、自分からカゾクと関わらないようにしている風に見える。

 ……まさか、私まで距離をとられちゃうとは思わなかったけど。
 
 少しだけ肩の力が抜けていくようだった。


「……おや? もう私が守らなくていいのかな、春殿」


 言ってから、胸の奥が痛んだ。
 もうあの春はいなくなったと思うと、嬉しさ以上に、どこか寂しいのだ。
 

「う……うるさい」


 少しだけ首筋をかくような仕草をして、顔を背けながらの一言だった。
 まるで私のことなんて相手にしていないみたいに。

 まったく。数年前まであんなに『薫さん、薫さん』って言って可愛かったのに。……恩知らずなんだから。しょうがない弟。

 私は春に軽く手を振って、置いてきた洗濯カゴを取りに戻った。

 背中に刺さる男子の視線は、昔より冷たい。

 それは私が『呼び出し』をされるようになったからだと思う……。
 痛い視線は、もう誰のものかは考えないことにしている。


*   *   *


 リネン部屋で乾燥機を回し、女子棟の玄関に戻ると、そこで年長のお姉さんに呼び止められた。


「今夜の呼び出し、薫ちゃんだって」


 短い言葉。いつもは優しいのだけど、今は顔も合わせてくれなかった。
 お姉さんに手首を掴まれ、裏口まで引っ張られるように歩いて行った。
 抵抗はしない。ここで抵抗したところで、痛い場所が増えるだけだと、朝木院で暮らす女子棟の全員が知っている。


 朝木院の女子棟の中にある『呼び出し』という制度――。

 それは女子棟の誰もが避けたい、夜の務め。
 殺し屋として育てられる男子の後ろで、女子に課せられる重さも明確だった。

 私たち女子棟の子供が唯一朝木院の外へ出られる条件。
 それは、その夜の呼び出しに選出された場合。


 お姉さんが裏口の扉を開くと、空気が変わった。
 朝木院の外に出るのは、今日で十回目……くらいかな。
 扉の向こう側。視界の隅に、朝木院長が立っているのが見えた。

 駐車スペースの端に、黒い軽バンが停まっている。アイドリングの振動で、ボンネットが小さく揺れる。排気の匂いが濃い。スライドドアが開いたままで、車内は暗かった。
 助手席の男の人がこちらを見もしないで、顎だけを後部座席の方へ動かした。

 それを合図のように、お姉さんが私の背を突き飛ばした。
 私の耳元に、震える声で「ごめんね」って小さく一言残して。

 足元の砂利が、靴底にざりっと食いこんだ。背中を押された衝撃で、つんのめるように、私は一歩前に出る。
 後部座席から男の人が降りてきて、何も言わずに私の腕を掴んだ。冷たい。皮膚の上から、いやな汗のにおいが移っていく。

 そのとき、後ろから視線が飛んできた気がして、ふと顔だけ振り向いた。


 ――春が、立っていた。


 中庭の角。
 小さなとき、春がいつもしゃがみこんで泣いていた、西日の届かないあの場所に。
 
 そろそろ夜間訓練に向かう時間のはずなのに。まさか、行かなかったのか。
 表情はよく見えない。
 春の長い髪が、ただ風に少し揺れている。手は下ろしたまま、拳にはなっていない。

 そのとき春が、一歩踏み出しかけた。


 ――来てはいけない。


 私は、春をじっと見つめながら、首を横に振る。たった一度。

 彼はそれ以上動かなかった。
 動けない、のではない。きっと、動かないことを選んでくれたのだ。


 ――よしよし、いい子だぞ、春。


 そう褒めてあげたいけれど、声を届けることはできない。代わりに、ちょっとだけ、笑った。

 そのまま私は車の中に押し込まれた。
 スライドドアが、空気を切る音を立てて閉まる。
 内側から、金具が掛かるすれた音がした。車内は狭い。シートは古く、布が湿っている。薬品のような甘さと香料の刺激が混ざったにおいが、吐き気を誘った。
 窓には黒いカーテンが掛けられていて外がよく見えない。

 エンジンが強く唸って、私を乗せた軽バンがゆっくりと前に出た。
 振動が、膝から胸へ上がってくる。

 カーテンの僅かな隙間から、中庭の角が細く見えた。
 そこに、まだ春が立っていた。ただ下を向いたまま。石畳の上で、春の影が細く伸びている。
 風はない。花も、葉も、何も揺れていない。

 敷地の門を抜けると、舗装の継ぎ目で車が小さく跳ねた。
 バックミラー越しに、テールランプが染め上げた赤が、壁面のひびに沿って流れているのが映った。目を閉じると、その赤だけが瞼の裏に残っている。

 これまで春を護ってきたつもりだったのに、今日は逆だったのかもしれない。
 動かないことを選ぶのも、朝木院においての護り方の一つだと、春はもう知っている。

 それでも。

 やっぱり、助けてほしかった――。

 そう思ってしまう自分もいる。
 その矛盾は、外に出ていくことはなく、ただ私の心の奥に静かに沈んでいった。

 車が角を曲がり、壁面の赤が途切れる。
 この暗い鉄の箱の中に、エンジンの音だけを響かせて。


 私は、今日、知らない男の人の腕で眠る。
 そのとき胸の奥がまた、ちくちくと疼いて止まなかった。
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