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比津耶女(ヒツヤメ)

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 その夜。
 
 床に就いた宗介は、なかなか寝付くことができなかった。
 
 右肩の痣が熱を持ち始め、時折その痣から右腕にかけて電気ショックのような痛みが襲ってきたからだ。


「宗介君、眠れないの?」
 

 寝ては覚めてを繰り返していると、不安そうな光の声が聞こえてきた。


「……眠ってるよ」
「起きてるじゃん……。うなされていたけど大丈夫?」
「お前に心配されるなんて、俺も焼きが回ったな」
 

 そこで光の声は一旦途絶えた。
 
 同じ部屋で寝ているが、宗介と光の布団の間はかなり開いている。電気も消されているため、彼女が今どんな顔をしているのかは全く分からなかった。
 
 長い沈黙。
 
 もう寝たのか、と思いきや――。


「ねえ、宗介君は……私のことが嫌い?」
 

 消え入りそうな弱々しい声が耳に届いた。
 
 思いがけない質問に、宗介は「はあ?」と訊き返す。


「ごめんね、変なこと聞いて。でも、宗介君はなんていうか……いつも私に冷たいし、ずっと苛々しているように見えるから……。私が迷惑ばかりかけているせいなんだろうけど……」
 

 光の声は僅かに震えていた。彼女がどんな顔で言葉を紡いでいるのかを想像すると、少しだけ胸が苦しくなった。


「別にお前のことが嫌いってわけじゃねえよ。ただ……御堂家が嫌いってだけだ」
「御堂家が? なんで私の家が嫌いなの?」
「それは……」
 
 宗介は言葉を詰まらせる。答えを持ち合わせていなかったわけではない。その答えが自分自身の弱さでもあることを自覚していたからだ。
 
 だが、そこで宗介は考える。光は震えた声でちゃんと自分の気持ちを言葉にした。自分だけここで黙ってしまうのは卑怯じゃないか、と。


「……誰かを『悪者』にしておかないと自分を保てないからだよ。要するに、俺もまだまだガキってことだ」
「悪者……それってもしかして――――宗介君のお母さんと関係があるの?」
 

 光は少し間を置き、躊躇いがちに尋ねてきた。


「……ああ」
 

 宗介は肯定する。


「紫(ゆかり)さん、だったよね? 私もお父さんから話を聞いたことがあるだけなんだけど……」
 

 黒宮紫――宗介の母親は、宗介を産んで程なくしてこの世を去った。だから、宗介自身に母親の記憶は何一つない。宗介が自分の母親について知っていることは、全て父親や他の除霊師から伝え聞いたことだ。
 
 宗介の母親は、稀有な才能に恵まれた除霊師だったらしい。
 
 そして、母を語るうえで、絶対に避けては通れない一匹の悪霊がいる。
 
 比津耶女(ヒツヤメ)――多くの大霊災を引き起こし、過去に最も多くの人命を奪ったとされる大悪霊だ。
 
 だが、そんなヒツヤメも生前は霊的資質を備えた見目麗しい女性だったそうだ。美しく聡明で多くの人から慕われていた彼女。けれど、それ故に彼女を妬み、凋落を願う者も少なくなかった。
 
 ある日、ヒツヤメはとある貴族から子息の除霊を依頼される。快く依頼を引き受けた彼女だが、これを知った彼女のことを良く思っていない人間たちは、ひそかに悪事を企てた。
 
 除霊で使うお神酒に毒を混ぜ貴族の息子を殺害し、その罪をヒツヤメに押し付けたのだ。
 
 怒り狂った貴族はヒツヤメを監禁。必死で無実を訴えるヒツヤメだが当然のごとく聞き入れられず、彼女は殺される前に酷い拷問を受けることになる。
 
 身体には死なない程度に釘が打ち込まれ、食事は畜生の糞尿。最後は、女性器に真っ赤に焼けた鉄の杭を挿入され、はらわたをかき混ぜられながら絶命したそうだ。
 
 しかし、ヒツヤメへの凌辱はこれで終わりではなかった。
 
 ヒツヤメの死後、彼女の身体は七つに切り刻まれ、彼女の魂が決して成仏できないよう呪いをかけられた。こうしてヒツヤメは悪霊となり、七つの部位は強力な呪物として後世に残されることとなった。
 
 その呪物を贄とした呪術は、時に歴史の流れを変えてしまうほどの影響力を持っていたと言われている。そのため、時の権力者は除霊師たちに命じ、七つの部位をそれぞれ別の場所に封印した。こうして、一旦はヒツヤメの呪いが終わったかに見えた。
 
 だが、人間とは誰しもが平和を望んでいるわけではない。いつの世にも、変革、混沌、破滅を望む者は存在する。そういう輩にとって、ヒツヤメの呪いはまさに垂涎の代物に他ならない。そんな者たちの手によって、ヒツヤメの呪いは度々不完全ではあるが蘇り、当時の人々に大きな災厄をもたらしたとされている。
 
 そして、宗介が産まれた十七年前――一人の男が七つの部位を全て集めヒツヤメの呪いを完全に復活させた。そこで除霊師の長たる御堂家が下した決断は、身重だった宗介の母親を人柱として立てることだった。
 
 結果だけを言えば、宗介の母親はヒツヤメの再封印に成功した。だが、彼女はその除霊で力を使い果たし、そんな状態で宗介を出産したため、宗介を産んですぐに帰らぬ人となったと聞いていた。
 
 これが宗介の知っている母親に関する全て。無論、これら全てが他人からの伝聞であるため、どこまでが真実なのかは分からない。
 
 けれど、『母親が死んでしまった』ことだけは、宗介にとって変えたくても変えられない事実だった。
 
 だから、宗介は今でも思うのだ。
 
 御堂家だって母が身重の身体であることは知っていたはず。それなのに、何故母を除霊に向かわせたのか。本来なら、除霊師のトップに立つ御堂が率先して動かなければならなかったのではないか、と。
 
 無論、母でなくてはならない理由があったであろうことは、宗介も頭では理解している。
 
 それでも「仕方がなかった」で済ませられるほど、幼い宗介の心はまだ強くなかった。同級生が嬉しそうに母親と手を繋いでいる姿を見る度に、宗介は心にぽっかりと穴が空いたような寂しさを感じずにはいられなかったから。情けない話だが、そんな寂しさを紛らわせ、心のバランスを保つには、誰かを憎むしか術がなかったのだ。


「だから、別にお前自身のことが嫌いってわけじゃねえよ。御堂家への憎しみは、俺がもうちょっと大人になるまでは消えないだろうけどさ。ぶっちゃけ、今の御堂のやり方に反感を持っていることも事実だしな」
「そう、だったんだ……。ごめんね、辛い話をさせて……」
 
 正直、辛い話になったのは光も同じだろう。自分の家のやり方を、宗介みたいな年下の子供に否定されて面白いはずがない。
 
 分かっていたことだが、二人の間に気まずい空気が流れる。しかし――。


「あのね、宗介君」
 

 再び聞こえた光の声には、どこか芯が通った強さが感じられた。


「私、頑張るから。すぐには無理だと思うけど、私が当主になったら今の御堂家の体制を変えられるように努力する。宗介君のお母さんみたいな犠牲が二度と出ないようにちゃんと頑張るから」
 

 光は決意表明するように、そう宣言した。
 
 それを聞いて、不覚にも宗介の頬が少しだけ緩む。


「期待せずに待ってるよ」
 

 言いようのないもどかしさを噛み殺して、宗介は素っ気なく答える。
 
 その後は、少しだけ気分良く眠りにつくことができた。
 
 気分だけは……。


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