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一年生
絵を描くということ
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優一が陽太と過ごせる時間はどんどん減っていった。クラスでも陽太は野球部の連中と一緒にいて、優一は内容もないような会話を女子に聞かされる日々を送っている。帰り道はもう毎日のように樹林が一緒にいて、陽太と思うように話せない。優一はストレスを抱えていたが、それを陽太に伝えることはしなかった。だって、陽太が俺といることよりも樹林を選んだらどうしよう。陽太に煩わしく思われたらと思うと、そんな我儘を口にする気にはなれない。優一は一人こっそりと悩みを抱え続けていた。
優一の悩みの種は日に日に増え続ける。他人がいても陽太と帰れていた時はまだよかった。ここ最近の陽太はやれ「バッティングセンターに寄っていく」だの「OBに指導してもらう!」だの楽しそうで、優一は一人で帰る日々を過ごしていた。
一体どうすればいいのだろう。どうすれば、陽太と昔のように過ごせるのか。悩む優一にとって唯一癒しの時間と言えるのは部活の時間だけだった。部活の間は思う存分陽太の姿を見られる。だからと毎日優一は窓辺に陣取ってグラウンドを眺めていたのだが。
「ずっと外見て。何しに来てるわけ」
近宮が優一を見る目は元々厳しいものだった。確かに絵を描くことに一生懸命な近宮からすれば部室に来て何もせずぼんやり外を見ている優一の姿は理解できないものなのかもしれない。しかし、何もあてこするようなことまで言わなくても。優一は窓から視線を外さず、内心でため息を吐いた。その様子が癇に障ったのか近宮が乱暴に筆を机に叩きつけた音が美術室に響く。大人しくしているのだから、迷惑をかけているわけではないと思うのだけれど。優一がちらりと近宮の方に視線をやると、近宮の様子に慌てたのか田中が慌てて近宮の方に駆け寄っていた。
「まあまあ! モチーフの観察は大事じゃん?」
「外ばっかり見てるのが何の役に立つんですか」
「そりゃ描きたいものが外にあるからでしょ~」
「大体、なんであんな人を入部させたんですか。何見てるのか知らないけど、毎日部室には来るし」
「……人体の動きの観察、とか」
どうやら今日の野球部一年生は室内で筋トレでも行うらしい。陽太たちがグラウンドから姿を消すのを見送り、優一はぽつりと言葉を溢す。それらしい言葉を選んでみたが、果たして近宮のお気にはめしただろうか。ゆっくりと近宮に視線を移すと、近宮は優一を鋭く睨みつけていたが少し動揺しているようにも見えた。まさかあれだけあからさまに嫌味を言っておいて反論されるとは思っていなかったのか。優一が呆れかえっていると、近宮は「でも」と言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「大人しくしてるし、近宮さんには迷惑かけないようにするから大目に見てよ」
「……視界の端であんたの姿がちらついて迷惑。ニヤニヤしてて、気持ち悪い」
「え、俺そんなににやついてた?」
「嫌らしい顔してた。何見てあんな顔してんのよ」
近宮はずかずかと優一の方に近づくと、窓に向かって身を乗り出した。しかしなぜかそこで固まってしまう。一体どうしたのだろうか。窓の下には野球部くらいしかいないはずだけれど。困惑する優一の方を、近宮は音でもしそうなほどゆっくりと振り向いた。近宮の瞳には先ほどまであった怒りはすでになく、驚きというか困惑の色が滲んでいた。
「なに。どうかした?」
「い、いや……あなた、その」
近宮は言葉を濁すとすっかり黙り込んでしまった。俺は一体どうすればいいのか。なんと声を掛ければいいのか。戸惑う優一に助け舟を出すように、田中が明るい表情で優一と近宮の肩をぽんと叩いた。
「まあ、せっかくクロッキー帳準備したし、何か描いてみてもいいかもね!」
「え、えーっと……」
「好きなものを描くのって、本人にしかできないからさ~」
「好きなもの?」
好きなものと言われても、優一の頭には陽太の姿しか思い浮かばない。しかしいきなり描けと言われても、正確に描写できる気なんて全然しなかった。また近宮に嫌味の一つでも飛ばされかねないと思いながらも正直な気持ちを優一は言葉にした。
「うーん……でも俺、絵なんて全然描けませんよ」
「そのための美術部だし、そのための先輩です! 顧問もいるし! まあ特に気負わずに何か描いてみなよ~。あ、一緒にデッサンでもする?」
「で、デッサンですか? でもお目汚しになるんじゃ」
「……そんなこと考える必要はないわよ。あなたがどんな絵を描こうが、どうせ私たちには関係ないし」
「近宮ちゃんも好きに描けばいいって言ってるよ~」
全くそんな風には聞こえなかったのだが、田中の言葉に反論しない以上本当に近宮はそのつもりで言っているのかもしれない。困惑する優一の背を田中がぐいぐいと机まで押していく。一体小さな体のどこにこんなに力があるんだか。優一は内心で感心しながら席に座り、クロッキー帳を開いた。どうせ今日はもう陽太の姿は見られそうにないし、暇つぶしに絵を描いてみるのも悪くないかもしれない。なんにせよ、陽太と一緒に帰れるチャンスがある限り下校時間までは学校にいなければならないのだし。
「デッサンって何をするんですか?」
「石膏像だよ~。じゃーん、こちらです!」
田中が両手で指し示した厳めしい像は美術室に何個もあるもののうちの一つだった。なるほど、こうして使うから何種類もあるのか。
「これ、こういうのに使うんですね」
「そう。先生の習作。ありがたく使わせてもらおう!」
一度会っただけの顧問の姿を優一は思い浮かべた。あの線の細い小柄な女性がこんな大きな、硬質なものを生み出すのか。作品と作家が全く結びつかず、面白い。くすくすと笑みを溢した優一を見て、田中は楽しげに笑って見せた。
「で、どうやって描けばいいですか?」
「まかせて! まずモチーフをよく観察します! 上沢君は観察得意だもんね~」
「……やっぱ何もせず外見てるのってまずいですか?」
「ううん。そんなことないよ。よく観るってのは大事だからね~。よく観察するともっと好きになって、もっと知りたくなって、描きたい~ってなるよ!」
「そんなもんですか?」
「……もし描きたいって思った時に技術があるにこしたことはない、と思う。そんな日が来るかは知らないけど」
二人の言葉は優一にはよく分からなかった。優一は何かに一生懸命になったり、何かに熱意を燃やしたりということをしたことがない。だからこそ自分に持っていないものを持っている陽太に憧れて、焦がれてやまないのだが。自分も何かを描きたいと思う時が来るのだろうか。そんなことを思いながら、優一は石膏像を見つめる。やっぱりよく分からない。
「好きだから、田中先輩も近宮さんも描いてるんですか?」
「別に石膏像が好きなわけじゃないわよ。好きなものを一番素敵に描き出すためにずっと練習してる」
「私は石膏像も好きだけどね~。美術史も好きだからかもしれないけど」
田中と近宮は話しながらスケッチブックに線を描き始めた。優一も慌てて二人に習ってアタリとやらを取ってみる。しかしどうにも二人と同じようには上手くいかない。やはり積み重ねてきた年月が、熱意が、絵を描くのが好きという気持ちが自分とは違うからなのだろう。当たり前のことだが、それが優一にはどうにも眩しく思える。こんなの、陽太にしか今まで感じたことがなかった。
陽太以外にも目標や夢に向かって努力している人なんて世の中にはいくらでもあるはずなのに、どうして俺は陽太のことしか見えていなかったのだろう。俺はどうしてあそこまで陽太に惹かれているのだろう。自分の気持ちが自分でもよく分からない。ただ、もし自分がいつか描きたいものができるとしたら、それはきっと陽太以外にない。それだけは確かに思えた。
優一の悩みの種は日に日に増え続ける。他人がいても陽太と帰れていた時はまだよかった。ここ最近の陽太はやれ「バッティングセンターに寄っていく」だの「OBに指導してもらう!」だの楽しそうで、優一は一人で帰る日々を過ごしていた。
一体どうすればいいのだろう。どうすれば、陽太と昔のように過ごせるのか。悩む優一にとって唯一癒しの時間と言えるのは部活の時間だけだった。部活の間は思う存分陽太の姿を見られる。だからと毎日優一は窓辺に陣取ってグラウンドを眺めていたのだが。
「ずっと外見て。何しに来てるわけ」
近宮が優一を見る目は元々厳しいものだった。確かに絵を描くことに一生懸命な近宮からすれば部室に来て何もせずぼんやり外を見ている優一の姿は理解できないものなのかもしれない。しかし、何もあてこするようなことまで言わなくても。優一は窓から視線を外さず、内心でため息を吐いた。その様子が癇に障ったのか近宮が乱暴に筆を机に叩きつけた音が美術室に響く。大人しくしているのだから、迷惑をかけているわけではないと思うのだけれど。優一がちらりと近宮の方に視線をやると、近宮の様子に慌てたのか田中が慌てて近宮の方に駆け寄っていた。
「まあまあ! モチーフの観察は大事じゃん?」
「外ばっかり見てるのが何の役に立つんですか」
「そりゃ描きたいものが外にあるからでしょ~」
「大体、なんであんな人を入部させたんですか。何見てるのか知らないけど、毎日部室には来るし」
「……人体の動きの観察、とか」
どうやら今日の野球部一年生は室内で筋トレでも行うらしい。陽太たちがグラウンドから姿を消すのを見送り、優一はぽつりと言葉を溢す。それらしい言葉を選んでみたが、果たして近宮のお気にはめしただろうか。ゆっくりと近宮に視線を移すと、近宮は優一を鋭く睨みつけていたが少し動揺しているようにも見えた。まさかあれだけあからさまに嫌味を言っておいて反論されるとは思っていなかったのか。優一が呆れかえっていると、近宮は「でも」と言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「大人しくしてるし、近宮さんには迷惑かけないようにするから大目に見てよ」
「……視界の端であんたの姿がちらついて迷惑。ニヤニヤしてて、気持ち悪い」
「え、俺そんなににやついてた?」
「嫌らしい顔してた。何見てあんな顔してんのよ」
近宮はずかずかと優一の方に近づくと、窓に向かって身を乗り出した。しかしなぜかそこで固まってしまう。一体どうしたのだろうか。窓の下には野球部くらいしかいないはずだけれど。困惑する優一の方を、近宮は音でもしそうなほどゆっくりと振り向いた。近宮の瞳には先ほどまであった怒りはすでになく、驚きというか困惑の色が滲んでいた。
「なに。どうかした?」
「い、いや……あなた、その」
近宮は言葉を濁すとすっかり黙り込んでしまった。俺は一体どうすればいいのか。なんと声を掛ければいいのか。戸惑う優一に助け舟を出すように、田中が明るい表情で優一と近宮の肩をぽんと叩いた。
「まあ、せっかくクロッキー帳準備したし、何か描いてみてもいいかもね!」
「え、えーっと……」
「好きなものを描くのって、本人にしかできないからさ~」
「好きなもの?」
好きなものと言われても、優一の頭には陽太の姿しか思い浮かばない。しかしいきなり描けと言われても、正確に描写できる気なんて全然しなかった。また近宮に嫌味の一つでも飛ばされかねないと思いながらも正直な気持ちを優一は言葉にした。
「うーん……でも俺、絵なんて全然描けませんよ」
「そのための美術部だし、そのための先輩です! 顧問もいるし! まあ特に気負わずに何か描いてみなよ~。あ、一緒にデッサンでもする?」
「で、デッサンですか? でもお目汚しになるんじゃ」
「……そんなこと考える必要はないわよ。あなたがどんな絵を描こうが、どうせ私たちには関係ないし」
「近宮ちゃんも好きに描けばいいって言ってるよ~」
全くそんな風には聞こえなかったのだが、田中の言葉に反論しない以上本当に近宮はそのつもりで言っているのかもしれない。困惑する優一の背を田中がぐいぐいと机まで押していく。一体小さな体のどこにこんなに力があるんだか。優一は内心で感心しながら席に座り、クロッキー帳を開いた。どうせ今日はもう陽太の姿は見られそうにないし、暇つぶしに絵を描いてみるのも悪くないかもしれない。なんにせよ、陽太と一緒に帰れるチャンスがある限り下校時間までは学校にいなければならないのだし。
「デッサンって何をするんですか?」
「石膏像だよ~。じゃーん、こちらです!」
田中が両手で指し示した厳めしい像は美術室に何個もあるもののうちの一つだった。なるほど、こうして使うから何種類もあるのか。
「これ、こういうのに使うんですね」
「そう。先生の習作。ありがたく使わせてもらおう!」
一度会っただけの顧問の姿を優一は思い浮かべた。あの線の細い小柄な女性がこんな大きな、硬質なものを生み出すのか。作品と作家が全く結びつかず、面白い。くすくすと笑みを溢した優一を見て、田中は楽しげに笑って見せた。
「で、どうやって描けばいいですか?」
「まかせて! まずモチーフをよく観察します! 上沢君は観察得意だもんね~」
「……やっぱ何もせず外見てるのってまずいですか?」
「ううん。そんなことないよ。よく観るってのは大事だからね~。よく観察するともっと好きになって、もっと知りたくなって、描きたい~ってなるよ!」
「そんなもんですか?」
「……もし描きたいって思った時に技術があるにこしたことはない、と思う。そんな日が来るかは知らないけど」
二人の言葉は優一にはよく分からなかった。優一は何かに一生懸命になったり、何かに熱意を燃やしたりということをしたことがない。だからこそ自分に持っていないものを持っている陽太に憧れて、焦がれてやまないのだが。自分も何かを描きたいと思う時が来るのだろうか。そんなことを思いながら、優一は石膏像を見つめる。やっぱりよく分からない。
「好きだから、田中先輩も近宮さんも描いてるんですか?」
「別に石膏像が好きなわけじゃないわよ。好きなものを一番素敵に描き出すためにずっと練習してる」
「私は石膏像も好きだけどね~。美術史も好きだからかもしれないけど」
田中と近宮は話しながらスケッチブックに線を描き始めた。優一も慌てて二人に習ってアタリとやらを取ってみる。しかしどうにも二人と同じようには上手くいかない。やはり積み重ねてきた年月が、熱意が、絵を描くのが好きという気持ちが自分とは違うからなのだろう。当たり前のことだが、それが優一にはどうにも眩しく思える。こんなの、陽太にしか今まで感じたことがなかった。
陽太以外にも目標や夢に向かって努力している人なんて世の中にはいくらでもあるはずなのに、どうして俺は陽太のことしか見えていなかったのだろう。俺はどうしてあそこまで陽太に惹かれているのだろう。自分の気持ちが自分でもよく分からない。ただ、もし自分がいつか描きたいものができるとしたら、それはきっと陽太以外にない。それだけは確かに思えた。
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