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三年生
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陽太の言っていた通り、本当に陽太はレギュラーに選ばれなかった。それでも無情に夏の地区予選は始まり、準決勝で三年生の夢は終わった。
陽太は高校最後の夏を応援団とともに終えた。その姿を優一は少しだけ見に行った。今まで一度も陽太の試合を見に行ったことがなかった優一が敢えて試合に出ない姿でもいいからと見に行ったのは、陽太の全てを知らなければ陽太のことを描けないと思ったからだった。
スタンドで応援団と一緒に大きな声を出していた陽太は一度だけちらりと優一の方を見た。だが試合終了まで陽太が優一に声を掛けてくることはなかった。ようやく優一が陽太と話すことができたのは試合が終わった後、ミーティングまでのほんのわずかな時間だった。
「今まで一度も来たことがなかったのに」
恨みがましいような揶揄うような声で陽太は優一に声を掛けた。優一は何と言ったものかと思ったが、率直に答えることにした。
「最後だからと思って」
「俺が出るわけでもないのに」
「でもまだ陽太の人生が終わったわけじゃないし」
「……そうだよな。まだセレクションがある。大学でも野球やるんだから、落ち込んでる暇なんてねえんだよなぁ」
セレクションというのがどうやら大学野球の入部テストのことらしいというのはなんとなく今までの会話から察している。まだやることがある。そう言って陽太は優一をしっかり見据えた。ああ、俺が好きな、陽太の目だ。少し前向きになった陽太に安堵して、優一は優しく陽太に声を掛ける。
「応援してる」
これまでも、これからもずっと。そう思いを込めて、優一は陽太の背をパンと叩いた。
そしてそれが三日前のこと。
優一は毎日のように美術室に来ては真っ白な画用紙とにらめっこをしていた。一体どんな構図が陽太を一番よく表現できるだろうか。自分の実力でちゃんと陽太のかっこよさを、生き様を描けるのだろうか。悩みは全く尽きない。悩みながらも優一は日々のデッサン練習は欠かさない。少しでもいい状態で本番を迎えないと。陽太もきっと毎日こんな気持ちだったのだろう。いや、今もか。
唯一の救いは陽太も大学のセレクションとか言うのに向けて毎日練習を頑張っているということだ。つまり毎日陽太の姿をいつも通り窓から見られる。それだけがここ最近の優一の娯楽だった。
暑いのは好きではない。じりじりと焼かれるような熱も汗でべたつく髪も服も、鬱陶しいとしかいいようがない。ただ、太陽の下で元気に駆け回っている幼馴染の姿が見られるという一点。それだけは夏に感謝してやってもいい。あんなに日に当たる場所が似合う男が他にいるだろうか。いや、いるはずがない。
太陽は陽太の肌だけでなく髪も焼いてしまったらしく、つやつやだった黒髪は少し傷んで茶色がかってしまっている。手触りがよかった髪がキシキシと傷んでしまったのはもったいないが、色素の薄くなった髪に反射する日の光がキラキラしていて宝石みたいだ。ああ、陽太はどうなったって輝いているんだな。
美しいな。優一は窓から見える景色を漠然とそう思った。陽太は俺を明けの空の色に例えたけれど、俺にとって陽太は太陽そのものなのだ。……そうだ、この景色。この景色を描こう。この景色を何とか残したい。
野球の花形はやっぱりバッティングなのかなと思っていたが、俺が陽太のやってきたことで一番好きなのは、一番すごいと思っているのはああしてずっと地道に努力を続けられるところなのだから。
優一は時間も忘れてクロッキー帳を開き、目に映る光景をスケッチする。必死に描き起こしたそれは今まで優一が描いてきたどんなデッサンとも違った。なんと表現したらいいのか、優一には言葉にできない。ぼんやりと優一がクロッキー帳を眺めていると、突然背後に人の気配を感じた。
「生きてるって感じの絵だね」
「うわっ! ……先生、驚かさないでくださいよ」
「びっくりはこっちのセリフだよ。何時だと思ってんの」
「え? ……やべっ!」
顧問である吉井の言葉に優一は窓の外に目をやる。外はいつのまにかすっかり暗くなっている。優一がゆっくりと時計に目をやると、時計の針は二十時を回ったところだった。
「すみません! すぐ帰ります!」
「……、陽太の言っていた通り、本当に陽太はレギュラーに選ばれなかった。それでも無情に夏の地区予選は始まり、準決勝で三年生の夢は終わった。
陽太は高校最後の夏を応援団とともに終えた。その姿を優一は少しだけ見に行った。今まで一度も陽太の試合を見に行ったことがなかった優一が敢えて試合に出ない姿でもいいからと見に行ったのは、陽太の全てを知らなければ陽太のことを描けないと思ったからだった。
スタンドで応援団と一緒に大きな声を出していた陽太は一度だけちらりと優一の方を見た。だが試合終了まで陽太が優一に声を掛けてくることはなかった。ようやく優一が陽太と話すことができたのは試合が終わった後、ミーティングまでのほんのわずかな時間だった。
「今まで一度も来たことがなかったのに」
恨みがましいような揶揄うような声で陽太は優一に声を掛けた。優一は何と言ったものかと思ったが、率直に答えることにした。
「最後だからと思って」
「俺が出るわけでもないのに」
「でもまだ陽太の人生が終わったわけじゃないし」
「……そうだよな。まだセレクションがある。大学でも野球やるんだから、落ち込んでる暇なんてねえんだよなぁ」
セレクションというのがどうやら大学野球の入部テストのことらしいというのはなんとなく今までの会話から察している。まだやることがある。そう言って陽太は優一をしっかり見据えた。ああ、俺が好きな、陽太の目だ。少し前向きになった陽太に安堵して、優一は優しく陽太に声を掛ける。
「応援してる」
これまでも、これからもずっと。そう思いを込めて、優一は陽太の背をパンと叩いた。
そしてそれが三日前のこと。
優一は毎日のように美術室に来ては真っ白な画用紙とにらめっこをしていた。一体どんな構図が陽太を一番よく表現できるだろうか。自分の実力でちゃんと陽太のかっこよさを、生き様を描けるのだろうか。悩みは全く尽きない。悩みながらも優一は日々のデッサン練習は欠かさない。少しでもいい状態で本番を迎えないと。陽太もきっと毎日こんな気持ちだったのだろう。いや、今もか。
唯一の救いは陽太も大学のセレクションとか言うのに向けて毎日練習を頑張っているということだ。つまり毎日陽太の姿をいつも通り窓から見られる。それだけがここ最近の優一の娯楽だった。
暑いのは好きではない。じりじりと焼かれるような熱も汗でべたつく髪も服も、鬱陶しいとしかいいようがない。ただ、太陽の下で元気に駆け回っている幼馴染の姿が見られるという一点。それだけは夏に感謝してやってもいい。あんなに日に当たる場所が似合う男が他にいるだろうか。いや、いるはずがない。
太陽は陽太の肌だけでなく髪も焼いてしまったらしく、つやつやだった黒髪は少し傷んで茶色がかってしまっている。手触りがよかった髪がキシキシと傷んでしまったのはもったいないが、色素の薄くなった髪に反射する日の光がキラキラしていて宝石みたいだ。ああ、陽太はどうなったって輝いているんだな。
美しいな。優一は窓から見える景色を漠然とそう思った。陽太は俺を明けの空の色に例えたけれど、俺にとって陽太は太陽そのものなのだ。……そうだ、この景色。この景色を描こう。この景色を何とか残したい。
野球の花形はやっぱりバッティングなのかなと思っていたが、俺が陽太のやってきたことで一番好きなのは、一番すごいと思っているのはああしてずっと地道に努力を続けられるところなのだから。
優一は時間も忘れてクロッキー帳を開き、目に映る光景をスケッチする。必死に描き起こしたそれは今まで優一が描いてきたどんなデッサンとも違った。なんと表現したらいいのか、優一には言葉にできない。ぼんやりと優一がクロッキー帳を眺めていると、突然背後に人の気配を感じた。
「……生きてるって感じの絵だね」
「うわっ! ……先生、驚かさないでくださいよ」
「びっくりはこっちのセリフだよ。何時だと思ってんの」
「え? ……やべっ!」
顧問である吉井の言葉に優一は窓の外に目をやる。外はいつのまにかすっかり暗くなっている。優一がゆっくりと時計に目をやると、時計の針は二十時を回ったところだった。
「すみません! すぐ帰ります!」
「……まあ、家の人にだけ連絡しといて。私の手伝いしてもらってたってことにすればいいから」
「え、でも」
「いいよ。制作に没頭して時間忘れるとか、私もよくあるし」
そういえばこの顧問はほぼ美術準備室に住んでいるとかなんとか前に部長時代の田中から聞いたことがある。だからこの人、こんな時間にここにいるのか。優一はちらりと入ったことのない美術準備室の方を見る。優一の視線に釣られるようにして吉井もちらりと準備室の方を向いた。
「あー……見てみる?」
「え、いいんですか」
「なんでそんな驚いてんの」
「い、いや……なんかその、聖域なのかなって」
「聖域て。……まあ間違ってはないかなあ。作品、あんま触られたくないし。でも君なら大丈夫でしょ」
そう言うと吉井は優一の方を見ずにまっすぐ美術準備室の方へ歩いていき、扉を開いて優一を手招いた。優一はおっかなびっくりという様子で準備室に近づき、そっと中を覗く。中は乱雑にものが転がっていたが、作品だけは整然と棚に並べられていた。
「作品、きれいに並んでますね」
「部屋が汚いって言外に言ってる? ……まあ、大事なものはちゃんと並べとかないとねえ」
捨てられるかもしれないし、という吉井の独り言はあまりにも優一にも覚えがあるものだった。しかし誰が吉井のものである美術準備室に立ち入って掃除などするのだろう。親に掃除をされる子供の部屋でもあるまいし。優一は心の中でそう思っていたはずだったのだが、どうやら口からも零れていたらしい。吉井はどこか遠い目をしながらぽつりとつぶやいた。
「学年主任に一回ね……はは……」
「な、なるほど……」
どうやら吉井にとっては思い出したくない記憶らしい。優一は話を変えようと棚に並んだ吉井の作品を眺める。確か吉井の専門は彫刻だったはずだ。普段優一がデッサンで使っているようなギリシャ調とかそういう感じの石膏像もあるが、優一の目に留まったのは一つの作品群だった。
「それ、気になる?」
「え、あー……なんか、全部、似てるな、とか」
言ってから失礼だっただろうかと優一は口を噤む。同じようにしか見えないとか、芸術を分からない人間がよく言うセリフだ。美術部の人間としてふさわしくなかったかもしれない。口元を引き結んだ優一を見て、吉井はケラケラと楽しそうに笑った。
「そりゃ似てるさ。だって同じ人をモデルにしてるもん」
「モデル、ですか?」
「魅力的な人間のことはどうしたってモデルにしたいものさ。それこそモネが自分の妻を描いたように。ダヴィンチのモナリザが今でも絶賛されるように」
「……先生って、この人のこと」
「それは内緒」
吉井は誤魔化すように、優一に向けてへたくそなウインクをした。こんなもので誤魔化されるはずがないのに、と優一は思う。だって大好きな人間のことを描きたいと思うのは、俺だって同じなのだから。
陽太は高校最後の夏を応援団とともに終えた。その姿を優一は少しだけ見に行った。今まで一度も陽太の試合を見に行ったことがなかった優一が敢えて試合に出ない姿でもいいからと見に行ったのは、陽太の全てを知らなければ陽太のことを描けないと思ったからだった。
スタンドで応援団と一緒に大きな声を出していた陽太は一度だけちらりと優一の方を見た。だが試合終了まで陽太が優一に声を掛けてくることはなかった。ようやく優一が陽太と話すことができたのは試合が終わった後、ミーティングまでのほんのわずかな時間だった。
「今まで一度も来たことがなかったのに」
恨みがましいような揶揄うような声で陽太は優一に声を掛けた。優一は何と言ったものかと思ったが、率直に答えることにした。
「最後だからと思って」
「俺が出るわけでもないのに」
「でもまだ陽太の人生が終わったわけじゃないし」
「……そうだよな。まだセレクションがある。大学でも野球やるんだから、落ち込んでる暇なんてねえんだよなぁ」
セレクションというのがどうやら大学野球の入部テストのことらしいというのはなんとなく今までの会話から察している。まだやることがある。そう言って陽太は優一をしっかり見据えた。ああ、俺が好きな、陽太の目だ。少し前向きになった陽太に安堵して、優一は優しく陽太に声を掛ける。
「応援してる」
これまでも、これからもずっと。そう思いを込めて、優一は陽太の背をパンと叩いた。
そしてそれが三日前のこと。
優一は毎日のように美術室に来ては真っ白な画用紙とにらめっこをしていた。一体どんな構図が陽太を一番よく表現できるだろうか。自分の実力でちゃんと陽太のかっこよさを、生き様を描けるのだろうか。悩みは全く尽きない。悩みながらも優一は日々のデッサン練習は欠かさない。少しでもいい状態で本番を迎えないと。陽太もきっと毎日こんな気持ちだったのだろう。いや、今もか。
唯一の救いは陽太も大学のセレクションとか言うのに向けて毎日練習を頑張っているということだ。つまり毎日陽太の姿をいつも通り窓から見られる。それだけがここ最近の優一の娯楽だった。
暑いのは好きではない。じりじりと焼かれるような熱も汗でべたつく髪も服も、鬱陶しいとしかいいようがない。ただ、太陽の下で元気に駆け回っている幼馴染の姿が見られるという一点。それだけは夏に感謝してやってもいい。あんなに日に当たる場所が似合う男が他にいるだろうか。いや、いるはずがない。
太陽は陽太の肌だけでなく髪も焼いてしまったらしく、つやつやだった黒髪は少し傷んで茶色がかってしまっている。手触りがよかった髪がキシキシと傷んでしまったのはもったいないが、色素の薄くなった髪に反射する日の光がキラキラしていて宝石みたいだ。ああ、陽太はどうなったって輝いているんだな。
美しいな。優一は窓から見える景色を漠然とそう思った。陽太は俺を明けの空の色に例えたけれど、俺にとって陽太は太陽そのものなのだ。……そうだ、この景色。この景色を描こう。この景色を何とか残したい。
野球の花形はやっぱりバッティングなのかなと思っていたが、俺が陽太のやってきたことで一番好きなのは、一番すごいと思っているのはああしてずっと地道に努力を続けられるところなのだから。
優一は時間も忘れてクロッキー帳を開き、目に映る光景をスケッチする。必死に描き起こしたそれは今まで優一が描いてきたどんなデッサンとも違った。なんと表現したらいいのか、優一には言葉にできない。ぼんやりと優一がクロッキー帳を眺めていると、突然背後に人の気配を感じた。
「生きてるって感じの絵だね」
「うわっ! ……先生、驚かさないでくださいよ」
「びっくりはこっちのセリフだよ。何時だと思ってんの」
「え? ……やべっ!」
顧問である吉井の言葉に優一は窓の外に目をやる。外はいつのまにかすっかり暗くなっている。優一がゆっくりと時計に目をやると、時計の針は二十時を回ったところだった。
「すみません! すぐ帰ります!」
「……、陽太の言っていた通り、本当に陽太はレギュラーに選ばれなかった。それでも無情に夏の地区予選は始まり、準決勝で三年生の夢は終わった。
陽太は高校最後の夏を応援団とともに終えた。その姿を優一は少しだけ見に行った。今まで一度も陽太の試合を見に行ったことがなかった優一が敢えて試合に出ない姿でもいいからと見に行ったのは、陽太の全てを知らなければ陽太のことを描けないと思ったからだった。
スタンドで応援団と一緒に大きな声を出していた陽太は一度だけちらりと優一の方を見た。だが試合終了まで陽太が優一に声を掛けてくることはなかった。ようやく優一が陽太と話すことができたのは試合が終わった後、ミーティングまでのほんのわずかな時間だった。
「今まで一度も来たことがなかったのに」
恨みがましいような揶揄うような声で陽太は優一に声を掛けた。優一は何と言ったものかと思ったが、率直に答えることにした。
「最後だからと思って」
「俺が出るわけでもないのに」
「でもまだ陽太の人生が終わったわけじゃないし」
「……そうだよな。まだセレクションがある。大学でも野球やるんだから、落ち込んでる暇なんてねえんだよなぁ」
セレクションというのがどうやら大学野球の入部テストのことらしいというのはなんとなく今までの会話から察している。まだやることがある。そう言って陽太は優一をしっかり見据えた。ああ、俺が好きな、陽太の目だ。少し前向きになった陽太に安堵して、優一は優しく陽太に声を掛ける。
「応援してる」
これまでも、これからもずっと。そう思いを込めて、優一は陽太の背をパンと叩いた。
そしてそれが三日前のこと。
優一は毎日のように美術室に来ては真っ白な画用紙とにらめっこをしていた。一体どんな構図が陽太を一番よく表現できるだろうか。自分の実力でちゃんと陽太のかっこよさを、生き様を描けるのだろうか。悩みは全く尽きない。悩みながらも優一は日々のデッサン練習は欠かさない。少しでもいい状態で本番を迎えないと。陽太もきっと毎日こんな気持ちだったのだろう。いや、今もか。
唯一の救いは陽太も大学のセレクションとか言うのに向けて毎日練習を頑張っているということだ。つまり毎日陽太の姿をいつも通り窓から見られる。それだけがここ最近の優一の娯楽だった。
暑いのは好きではない。じりじりと焼かれるような熱も汗でべたつく髪も服も、鬱陶しいとしかいいようがない。ただ、太陽の下で元気に駆け回っている幼馴染の姿が見られるという一点。それだけは夏に感謝してやってもいい。あんなに日に当たる場所が似合う男が他にいるだろうか。いや、いるはずがない。
太陽は陽太の肌だけでなく髪も焼いてしまったらしく、つやつやだった黒髪は少し傷んで茶色がかってしまっている。手触りがよかった髪がキシキシと傷んでしまったのはもったいないが、色素の薄くなった髪に反射する日の光がキラキラしていて宝石みたいだ。ああ、陽太はどうなったって輝いているんだな。
美しいな。優一は窓から見える景色を漠然とそう思った。陽太は俺を明けの空の色に例えたけれど、俺にとって陽太は太陽そのものなのだ。……そうだ、この景色。この景色を描こう。この景色を何とか残したい。
野球の花形はやっぱりバッティングなのかなと思っていたが、俺が陽太のやってきたことで一番好きなのは、一番すごいと思っているのはああしてずっと地道に努力を続けられるところなのだから。
優一は時間も忘れてクロッキー帳を開き、目に映る光景をスケッチする。必死に描き起こしたそれは今まで優一が描いてきたどんなデッサンとも違った。なんと表現したらいいのか、優一には言葉にできない。ぼんやりと優一がクロッキー帳を眺めていると、突然背後に人の気配を感じた。
「……生きてるって感じの絵だね」
「うわっ! ……先生、驚かさないでくださいよ」
「びっくりはこっちのセリフだよ。何時だと思ってんの」
「え? ……やべっ!」
顧問である吉井の言葉に優一は窓の外に目をやる。外はいつのまにかすっかり暗くなっている。優一がゆっくりと時計に目をやると、時計の針は二十時を回ったところだった。
「すみません! すぐ帰ります!」
「……まあ、家の人にだけ連絡しといて。私の手伝いしてもらってたってことにすればいいから」
「え、でも」
「いいよ。制作に没頭して時間忘れるとか、私もよくあるし」
そういえばこの顧問はほぼ美術準備室に住んでいるとかなんとか前に部長時代の田中から聞いたことがある。だからこの人、こんな時間にここにいるのか。優一はちらりと入ったことのない美術準備室の方を見る。優一の視線に釣られるようにして吉井もちらりと準備室の方を向いた。
「あー……見てみる?」
「え、いいんですか」
「なんでそんな驚いてんの」
「い、いや……なんかその、聖域なのかなって」
「聖域て。……まあ間違ってはないかなあ。作品、あんま触られたくないし。でも君なら大丈夫でしょ」
そう言うと吉井は優一の方を見ずにまっすぐ美術準備室の方へ歩いていき、扉を開いて優一を手招いた。優一はおっかなびっくりという様子で準備室に近づき、そっと中を覗く。中は乱雑にものが転がっていたが、作品だけは整然と棚に並べられていた。
「作品、きれいに並んでますね」
「部屋が汚いって言外に言ってる? ……まあ、大事なものはちゃんと並べとかないとねえ」
捨てられるかもしれないし、という吉井の独り言はあまりにも優一にも覚えがあるものだった。しかし誰が吉井のものである美術準備室に立ち入って掃除などするのだろう。親に掃除をされる子供の部屋でもあるまいし。優一は心の中でそう思っていたはずだったのだが、どうやら口からも零れていたらしい。吉井はどこか遠い目をしながらぽつりとつぶやいた。
「学年主任に一回ね……はは……」
「な、なるほど……」
どうやら吉井にとっては思い出したくない記憶らしい。優一は話を変えようと棚に並んだ吉井の作品を眺める。確か吉井の専門は彫刻だったはずだ。普段優一がデッサンで使っているようなギリシャ調とかそういう感じの石膏像もあるが、優一の目に留まったのは一つの作品群だった。
「それ、気になる?」
「え、あー……なんか、全部、似てるな、とか」
言ってから失礼だっただろうかと優一は口を噤む。同じようにしか見えないとか、芸術を分からない人間がよく言うセリフだ。美術部の人間としてふさわしくなかったかもしれない。口元を引き結んだ優一を見て、吉井はケラケラと楽しそうに笑った。
「そりゃ似てるさ。だって同じ人をモデルにしてるもん」
「モデル、ですか?」
「魅力的な人間のことはどうしたってモデルにしたいものさ。それこそモネが自分の妻を描いたように。ダヴィンチのモナリザが今でも絶賛されるように」
「……先生って、この人のこと」
「それは内緒」
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