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14 旅
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「俺ね、隣の市に住んでいるんですけれど」
「おや、お隣の」
「はい。会社、整理解雇されちゃいましてね。友人がバイトに誘ってくれたんですけど……電車に乗って、いつもと違う場所へ向かって、それで気付いたんですよ」
港は膝の上に置いたカキペンくんの頭の上で、手を軽く弾ませる。
「営業以外で……あ、俺、営業職だったんですけどね。それで、営業以外でどこかへ行くことって、最近じゃあまりしていなかったなって」
電車で、社用車で、いつもあちこちへ移動していたから、あえて休日に遠出するなんてことはなかったなと、ふと思い出したのだ。
「それでね、バイトのために、ここまで電車に乗ってやって来て。それで、地元の食事処で朝ご飯食べているんですけどね」
「ふふ、それはいい」
「はい。漁港が近くあるからか、魚とか、めちゃめちゃ新鮮で美味しかったです」
「ほほう。どんなものを食べました?」
「今日は海鮮丼とあら汁ですね! 店の名前なんだったっけな……結構、新しめなんですけど、俺と同じくらいのご夫婦がやっていて」
「ああ……。ゆきみや、かな。ひらがなでゆきみや」
老紳士は、少し考えるように顎に手を当てる。
それを聞いて、港の頭に店の看板がぱっと思い出された。
「そう、そうです! さすが、よくご存じですね!」
「柿原のことですからね。そうですか、ゆきみや……美味しかったですか?」
ふと、老紳士の表情が少し変わった。
どこかソワソワしているような、そんな雰囲気だ。
港は「とても!」と頷く。
「こんなに美味い海鮮丼とあら汁の店が、近くにあったんだなって驚きました。店の雰囲気も良かったし。……出歩かなきゃ、分からなかったなって思いました。旅も、そうですか?」
港が聞けば、老紳士も柔らかな笑顔を浮かべて頷く。
「そうですね。私も旅へ出て、色んな発見をしました」
懐かしむように目を細め、老紳士は胸に手を当てる。
「……私は、何も知ろうとしなかった、のかもしれない。だから余生は少しでも、知りたいと思ったのです」
「知らなかったんじゃなくて、頑張っていたから、見落としちゃったんだと思います」
「見落とした?」
老紳士は目を丸くして港を見る。
「はい。走っていると、周りがあまり見えないじゃないですか。それと同じだと思うんですよ」
目の前の仕事に、ただ真っ直ぐに進んでいた。
がむしゃらに、必死に。
入社したてのころはきっと、皆、そうだと港は思う。
(でも、それを大人になるまで続けられる人は少ない)
慣れとか、余裕とか、ちょっとした怠惰な心とか。
色んなものが混ざって、自分たちは適度に手を抜くことを覚える。
その方が楽だし、疲れないから。
思い返せば港だって、一人前と呼ばれるようになったころは、自分のペースで仕事をしていた。ほどほどに肩の力を抜いて、だ。
(でも、この人はそうじゃなかったんだと思う)
目の前に並べられた仕事を、若いころと変わらず、きっと真面目にやっていた。
――すごいことだと思う。
だから彼は、その真面目さと仕事ぶりを評価されて、定年まで何の問題もなく勤め上げることができたのだ。
(俺が会社からいらないって言われたのはもしかしたら……そういう部分も見られていたのかもしれないな)
勤務態度に問題はない。
問題はないけれど、若いころにあった情熱とか、向上心とか、そういうものがない――だからふるいにかけられた、のかもしれない。
港を雇い続けるよりは、新しい人を入れて会社の空気を変えたい、とか。
理由は色々あるかもしれないが、総合的に考えて港は会社から捨てられた。
けれど、この老紳士はそうじゃない。
「俺、真面目って言われていたんです。特別にすごいことはできなくても、真面目に働けば見ていてくれる人もいる。だから俺、あなたのこと、すごいって思うんです」
「……私が?」
「はい。俺も、あなたみたいに……真面目だって言われながら、定年まで働きたかった。だから、それをやり遂げたあなたは、すごいです」
「…………っ」
老紳士の目が見開かれる。
彼は僅かに震える手で、自分の口を押えた。
「……ああ」
その口から呼吸とともに、嗚咽のような声が漏れる。
「そんなことを……今になって言っていただけるとは、思いませんでした」
「どうでしょう。もしかしたら、聞き漏らしていただけかもしれませんよ」
港がちょっとお道化て言えば、老紳士はくすくすと微笑んだ。
「そうですね。……実は、少々耳も遠くなってきましたね」
「なら、耳を澄ませなくては」
「そうですねぇ。ふふ、ふふふ……ははは」
すると、老紳士の笑い声が大きくなる。
彼はしばらく楽しげに笑ったあとで「はぁ……」と息を吐いた。
「……こんなに笑ったのは久しぶりです。ありがとうございます、あー、えっと……」
「願屋です。願屋港」
「願屋さん。ありがとうございます。少し、気持ちが楽になりました」
老紳士は港にお礼を言うと、スッと立ち上がった。
そして身体を向けて、深々と頭を下げる。
「もう少しだけ、歩いてみようと思います」
「いいですね。まだまだ、足腰はしっかりなさっていると思いますから。あ、良ければ、水族館も見て行ってください。まだ閉園まで時間がありますから」
「そうですね。では、そうさせていただきましょうか」
そして老紳士は杖をつきながら、歩き出す。
「願屋さん」
すると、数歩、歩いたところで彼は足を止める。
「何でしょう?」
「旅は、良いですよ。ぜひ、色々な場所を見て回ることをおすすめします」
老紳士はそれだけ言うと、通路の奥へと消えて行った。
「……旅かぁ」
彼の背中を見送りながら港は呟く。
(それも、いいかもしれないな)
そう思いながら、今日もまたすっかり冷めてしまった缶コーヒーを飲み干したのだった。
「おや、お隣の」
「はい。会社、整理解雇されちゃいましてね。友人がバイトに誘ってくれたんですけど……電車に乗って、いつもと違う場所へ向かって、それで気付いたんですよ」
港は膝の上に置いたカキペンくんの頭の上で、手を軽く弾ませる。
「営業以外で……あ、俺、営業職だったんですけどね。それで、営業以外でどこかへ行くことって、最近じゃあまりしていなかったなって」
電車で、社用車で、いつもあちこちへ移動していたから、あえて休日に遠出するなんてことはなかったなと、ふと思い出したのだ。
「それでね、バイトのために、ここまで電車に乗ってやって来て。それで、地元の食事処で朝ご飯食べているんですけどね」
「ふふ、それはいい」
「はい。漁港が近くあるからか、魚とか、めちゃめちゃ新鮮で美味しかったです」
「ほほう。どんなものを食べました?」
「今日は海鮮丼とあら汁ですね! 店の名前なんだったっけな……結構、新しめなんですけど、俺と同じくらいのご夫婦がやっていて」
「ああ……。ゆきみや、かな。ひらがなでゆきみや」
老紳士は、少し考えるように顎に手を当てる。
それを聞いて、港の頭に店の看板がぱっと思い出された。
「そう、そうです! さすが、よくご存じですね!」
「柿原のことですからね。そうですか、ゆきみや……美味しかったですか?」
ふと、老紳士の表情が少し変わった。
どこかソワソワしているような、そんな雰囲気だ。
港は「とても!」と頷く。
「こんなに美味い海鮮丼とあら汁の店が、近くにあったんだなって驚きました。店の雰囲気も良かったし。……出歩かなきゃ、分からなかったなって思いました。旅も、そうですか?」
港が聞けば、老紳士も柔らかな笑顔を浮かべて頷く。
「そうですね。私も旅へ出て、色んな発見をしました」
懐かしむように目を細め、老紳士は胸に手を当てる。
「……私は、何も知ろうとしなかった、のかもしれない。だから余生は少しでも、知りたいと思ったのです」
「知らなかったんじゃなくて、頑張っていたから、見落としちゃったんだと思います」
「見落とした?」
老紳士は目を丸くして港を見る。
「はい。走っていると、周りがあまり見えないじゃないですか。それと同じだと思うんですよ」
目の前の仕事に、ただ真っ直ぐに進んでいた。
がむしゃらに、必死に。
入社したてのころはきっと、皆、そうだと港は思う。
(でも、それを大人になるまで続けられる人は少ない)
慣れとか、余裕とか、ちょっとした怠惰な心とか。
色んなものが混ざって、自分たちは適度に手を抜くことを覚える。
その方が楽だし、疲れないから。
思い返せば港だって、一人前と呼ばれるようになったころは、自分のペースで仕事をしていた。ほどほどに肩の力を抜いて、だ。
(でも、この人はそうじゃなかったんだと思う)
目の前に並べられた仕事を、若いころと変わらず、きっと真面目にやっていた。
――すごいことだと思う。
だから彼は、その真面目さと仕事ぶりを評価されて、定年まで何の問題もなく勤め上げることができたのだ。
(俺が会社からいらないって言われたのはもしかしたら……そういう部分も見られていたのかもしれないな)
勤務態度に問題はない。
問題はないけれど、若いころにあった情熱とか、向上心とか、そういうものがない――だからふるいにかけられた、のかもしれない。
港を雇い続けるよりは、新しい人を入れて会社の空気を変えたい、とか。
理由は色々あるかもしれないが、総合的に考えて港は会社から捨てられた。
けれど、この老紳士はそうじゃない。
「俺、真面目って言われていたんです。特別にすごいことはできなくても、真面目に働けば見ていてくれる人もいる。だから俺、あなたのこと、すごいって思うんです」
「……私が?」
「はい。俺も、あなたみたいに……真面目だって言われながら、定年まで働きたかった。だから、それをやり遂げたあなたは、すごいです」
「…………っ」
老紳士の目が見開かれる。
彼は僅かに震える手で、自分の口を押えた。
「……ああ」
その口から呼吸とともに、嗚咽のような声が漏れる。
「そんなことを……今になって言っていただけるとは、思いませんでした」
「どうでしょう。もしかしたら、聞き漏らしていただけかもしれませんよ」
港がちょっとお道化て言えば、老紳士はくすくすと微笑んだ。
「そうですね。……実は、少々耳も遠くなってきましたね」
「なら、耳を澄ませなくては」
「そうですねぇ。ふふ、ふふふ……ははは」
すると、老紳士の笑い声が大きくなる。
彼はしばらく楽しげに笑ったあとで「はぁ……」と息を吐いた。
「……こんなに笑ったのは久しぶりです。ありがとうございます、あー、えっと……」
「願屋です。願屋港」
「願屋さん。ありがとうございます。少し、気持ちが楽になりました」
老紳士は港にお礼を言うと、スッと立ち上がった。
そして身体を向けて、深々と頭を下げる。
「もう少しだけ、歩いてみようと思います」
「いいですね。まだまだ、足腰はしっかりなさっていると思いますから。あ、良ければ、水族館も見て行ってください。まだ閉園まで時間がありますから」
「そうですね。では、そうさせていただきましょうか」
そして老紳士は杖をつきながら、歩き出す。
「願屋さん」
すると、数歩、歩いたところで彼は足を止める。
「何でしょう?」
「旅は、良いですよ。ぜひ、色々な場所を見て回ることをおすすめします」
老紳士はそれだけ言うと、通路の奥へと消えて行った。
「……旅かぁ」
彼の背中を見送りながら港は呟く。
(それも、いいかもしれないな)
そう思いながら、今日もまたすっかり冷めてしまった缶コーヒーを飲み干したのだった。
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