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しおりを挟むあの後、雪花は慌てて風呂から上がると、立待を彼の部屋へ運んだ。蛇の姿の立待であれば雪花も持ち上げる事が出来たからだ。
「立待様、立待様、しっかりなさってください……!」
「は、い……」
――駄目そうである。
くたりとした蛇の身体をタオルで包み、雪花は足早に立待の部屋へと向かう。
部屋へ入ると布団を敷いて、その上に立待をそっと寝かせた。掛布団に彼の身体がふわりと沈む。
立待は掛布団の表面の冷たさが心地良いのか、すり、と顔を動かしていた。それを見て雪花はホッと息を吐く。ここまで運んでいる間、立待がほとんど動かなかったので心配していたのだ。
「立待様、お水を持ってきますね。少し待っていてください」
立待にそう声を掛け、雪花はいったん部屋を出る。静かな屋敷内に雪花のぱたぱた走る音が響いた。
普段は立待から「走らないように」と言われているが、今は緊急事態である。台所まで来るとコップに水を注ぎ、雪花は急いで立待の部屋へと戻った。
「立待様、失礼します」
再び声を掛けて、そっと襖を開けて中へ入る。
「おう、悪いな」
「氷月様」
すると中には氷月がいて、立待も蛇から人の姿へと戻っていた。
立待の顔は赤い。氷月は彼の顔の近くに座って、団扇でぱたぱたと仰いでいた。人の姿に戻った立待を、恐らく氷月が布団の中へ入れてくれたのだろう。
雪花は氷月の反対側へと移動して座り、立待にそっと声を掛ける。
「立待様、お水をお持ちしました。飲めますか?」
「ええ。ありがとうございます……」
立待は薄っすらと目を開いて、よろよろと身体を起こした。雪花はコップを差し出しながら、もう片方の手を立待の背中に添えて身体を支える。
「…………」
立待は両手でコップを受け取ると、ゆっくりと水を飲み始めた。こく、こく、と立待の喉が動く。そうして時間を掛けて飲み干すと立待は、はぁ、と息を吐いた。
「……だいぶ落ち着きました。ご迷惑をおかけしました」
「いえ、良かったです。……ですが私のせいで申し訳ありませんでした」
「先ほども言ったでしょう? あなたのせいではありませんよ。私が勝手にやった事ですし。そもそものぼせたのは単純に私のミスです。……正直に言うと、もう少し平気だと思ったのです」
最後の方は呟くように立待は言った。それからやや間を開けて、
「……あなたが慣れない仕事で、だいぶ疲れているように見えましたので。私がいてはゆっくりと湯に浸かれないだろうと思って、それで」
言い辛そうな雰囲気で彼はそう続けた。
雪花に気を遣ってくれたがためにこうなったのは分かっていた。けれど今の言葉で雪花は、立待が自分のためにそうしてくれたのだと理解する。
「…………」
ああ、と雪花は思った。この方はなんて優しいのだろうかと。
こんなに優しい気持ちを向けてもらった事なんて、雪花はここへ来るまで一度もなかった。
もしもこれが、普通の人達が無意識に出来ている普通の気遣いだったとしても――誰かに優しくしてもらった記憶のない雪花にとっては、涙が出るくらい嬉しくて幸福な事だった。
目の奥が熱くなる。視界が霞み出す。ぐす、と雪花は鼻を鳴らした。
「ですから、あなたが気に病む必要はありませんよ……って、どうして泣いているのです!?」
じわっと目が潤みだした雪花を見て、立待がぎょっと目を剥いた。それから少し焦った様子で顔を覗き込んで来る。
「あなたが泣くほどの事ではありませんよ。ああ、ほら、目が赤くなって……」
「いえ、あの、あの……違……違うんです……」
しどろもどろになっていたら、立待は寝間着の袖で雪花の目を拭いてくれた。お風呂でのぼせて、体調の悪い人にしてもらう事ではなくて、雪花は慌てて「だ、大丈夫です!」と首を横に振る。
「立待様が、お優しくて。嬉しいなと思ったら、何だか泣けてきてしまって……」
「――――ッ、べ、別に、優しくはないでしょう」
すると立待は一瞬、虚を突かれたような顔に鳴った。
そして直ぐに顔が先ほどとは違う赤色に染まる。声も若干上擦っていた。冷静沈着な立待を見ていたので、今の様子は何だか新鮮である。
雪花がはにかんでいると氷月がクッと噴き出した。
「ハハハ。まーた立待が照れていやがる」
「――氷月様」
カラカラ笑う氷月を立待が軽く睨む。しかし顔はまだ赤い。氷月は面白そうに口の端を上げた。
「いやぁ、雪花がうちに来てから、面白いもんばっかり見られるなぁ」
「そういうのを敢えて言わないのが良い上司だと申し上げました」
「俺の神使は手厳しいねぇ」
立待はクク、と笑った後、
「まぁ、今日の所はもう休め。それと明日の朝もゆっくり寝ていていいぞ。朝食の準備はこっちでやるからさ」
と言った。
「いいえ、それはお断りさせていただきます。私の仕事ですから」
しかし仕事の話になったとたん、立待の表情がスッと変わる。いつもの真面目な彼の顔だ。
それを見て氷月は肩をすくめた。
「お前は本当に頑固と言うか真面目と言うか……」
「何とでもどうぞ。これが私の性分ですので。……ですがお言葉に甘えて、今日はこれで休ませていただきます」
それから立待はそう言うと布団に横になった。すると直ぐに彼の目はうとうとし始める。のぼせた事もあって、だいぶ体力が減っていたらしい。
「お水はもう大丈夫ですか?」
「ええ。もうだいぶ落ち着いてきましたから。……少し眠気も出てきたので、寝ます」
「分かりました。それでは……」
ここにいたら就寝の邪魔になるだろうから、部屋から出よう。そう思った雪花が立ち上がろうとした時、雪花の寝間着の裾を立待の手が掴んだ。ごくごく弱い力だ。
「立待様?」
立待の方へ顔を向けると、彼はどこか甘えるような眼差しで雪花を見上げている。
「もう少し、ここに……。あなたが傍にいてくださるのは、心地良い、から……」
彼はそう言うと、そのまま、すうと目を閉じた。本当に眠かったようだ。今の言葉も、もしかしたら若干、眠いせいで言ったのかもしれない。
一応、雪花はもう一度小声で「立待様」と呼びかけた。しかし彼の目は開かず、すうすうと寝息を立ててしまっている。
(これはどうしたら……)
立待が握ったままの寝間着の裾を見て雪花は心の中で呟いた。一応、身体を離せばするりと抜けるくらい掴んでいる力は弱い。
――けれども。
立待から傍にいて欲しいと頼まれた。自分がここにいて邪魔にならないかは心配だが、振り払って部屋を出るのは何となくしたくないなと雪花は思う。
「氷月様、どうしたら良いでしょうか?」
とりあえず氷月に聞いてみた。すると彼は「ん~」と軽く呟いて腕を組み、
「立待にしては、本当に珍しいなぁ。雪花。悪いが、もう少し付き合ってやってくれるか?」
苦笑気味にそう言った。
「私がここにいても、立待様のお邪魔にはならないでしょうか?」
「本人が望んだ事だから大丈夫だよ。……まぁ、眠くて頭がぼんやりしていたんだろうが。ふ、はは。こりゃ、起きた時が面白い……って、おっと。今のは立待には内緒な、内緒」
氷月は口の前で人差す指を立て、しい、と悪戯っぽく笑う。
「適当なタイミングで、また様子を見に来るから。付き合ってやってくれ」
「はい!」
「うん。頼むな」
そう言うと氷月は立ち上がり、雪花の頭をひと撫でして部屋を出て行った。
残ったのは眠る立待と雪花の二人だ。
「…………」
雪花は立待の隣にひょいと座る。そして彼の顔を眺めながら、
(……私にいて欲しいと望んてくださったんだ)
自分が必要とされた事が嬉しくて、ふふ、と微笑みながら。
雪花はしばらく立待の寝顔を眺めていたのだった。
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