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第108話 すぐには決められないから

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 晴天と呼べる空の下。澄んだ空気の中で、デニスとサビーナは家の前で人影が無いかを探していた。

「……来ねぇな」
「うん……」

 昨日来ていた幼児達は、誰一人として来なかった。恐らく、このまま待っていても誰も訪ねて来はしないだろう。
 サビーナも仕事の時間が差し迫っていて、出掛ける準備を始める。

「サビーナは仕事、何してんだ?」
「村の真ん中の食堂で働いてます。注文取ったり皿洗いしたり、色々」
「そっか。妊婦なのに働いて大丈夫なのか?」
「うん、私はそこまでつわりも酷くない方だと思うし……実は借金があって、それを返していかないといけないから」

 借金というのは、成功報酬の分割払いだ。セヴェリに頼めば支払ってくれるかもしれないが、頼むつもりは元よりない。

「そうか……俺は、どうすっかな。村に住むなんて初めてだから、何していいのか分かんねぇ」
「今日はゆっくり休んで、やりたい事を考えてくれてていいですよ。じゃあごめんだけど、時間ないから行ってきます」
「おう、仕事頑張ってな。無理すんなよ!」
「うん」

 仕事には正直行きたくなかったが、返すものは返さなければいけない。デニスがここでどんな仕事が出来るかも分からないし、辞めるわけにはいかなかった。
 その日のお昼には、やはりと言うべきかジェレイ家族が食堂に現れる。この夫婦はお昼はほぼ毎日利用しているので、当然とも言えたが。

「いらっしゃいませ、ご注文は……」
「私はフルーツパスタとオニオンスープで。子供用に取り皿をお願い」
「俺は日替り定食、メシは特盛で頼む。あー、あと食後にフルーツパフェな」

 二人ともこちらを見ず、淡々と注文している。サビーナもまた、特盛にもフルーツパフェにも突っ込む事無く、注文を書き終えた。
 この冷めた空気が嫌だ。軽口を叩きあえる関係が、消えて無くなってしまった。
 仕方の無い事だと分かっていながらも、ただただ苦しい。これから毎日、こんな思いをして過ごしていかなければならないのだろうか。

  どうにか仕事をこなして家に帰ると、デニスが薪を割っていた。こちらに気付いた彼は、汗を拭きながら手を上げている。

「おぉ、おかえり」
「ただいま。何してるんですか?」
「いや、こういうんなら出来そうだと思ってよ。森に行って切ってきたんだ。勝手に木を切るなって怒られちまったけどな」
「そ、そりゃそうだよ……村の近辺は所有者がいるし、森林組合もあるんだから」
「そうらしいな。全然知らなかったぜ」

 悪気はなかったのだろうとは思うが、あまり村人から反感を買うような事はやめて欲しい。どうやら今回は許して貰えたようだが、次にこんな事があってはもう信頼はして貰えないだろう。

「村や町の近くの森で、あんまり勝手な事はしないでくださいね」
「例えば、どんな事が駄目なんだ?」
「木を切ったり、山菜を取ったりするのは、森の所有者の許可がいるから駄目。やっても良いのは、無主物の取得だけです」
「無主物?」

 首を捻らせるデニスに、サビーナは頷く。

「誰の所有にも属さない物って事。落ちている枝とか、果実とか。それに野生の動物とか、魔物もこれに当てはまるはず」
「へえ、よく知ってんな」

 実はこれらの情報は、旅をしている時にセヴェリに教えてもらった知識だ。旅の途中は割と山菜を頂戴してしまっていたのだが。誰かの所有していた土地でなかった事を祈るしか無い。

「って事は、鹿とか猪は取っても良いって事だな」
「狩人にでもなるつもりですか?」
「おう、多分どうにかなる。ここに来る間にでも、何匹か仕留めて食ってきたし。まぁでも、弓矢は欲しいとこだな」
「買うお金あります?」
「大丈夫だ、それくらいなら十分に持って来てっから」

 そういう訳で、デニスは翌日から狩りをして過ごす事となった。ブロッカの街に弓矢を買いに行き、森で猪や鹿や兎等を狩る。
 しかし、その肉は村では売れなかった。デニスの仕留めた物など、買い取りたく無いという事なのだろう。野菜との物々交換も拒否され、デニスはいつも仕留めた獲物をブロッカの街に売りに行っていた。
 どうやら森で魔物退治もしていたらしく、ハンター協会に行くついでもあったようだ。デニスはほとんど村にはいなかったが、その分、現金を多く稼いでいてくれた。恐らく、動物を狩るより魔物を狩る方が得意なのだろう。長く戦争のなかったアンゼルードでは、騎士の仕事と言えば魔物退治を大きく占めていたのだから。

「ただいま、サビーナ!」

 ある日、サビーナがデニスを家の前で待っていると、デニスが嬉しそうに兎を見せながら馬を降りる。

「おかえりなさい、デニスさん。遅かったですね」
「悪い、魔物を探してちょっと奥まで行ってた。これ土産な」

 既に絶命している兎を受け取る。こうして自分達が食べる分は、売らずに持って帰ってきてくれるのだ。
 デニスはルッツリオンを裏へと連れて行っている。彼がここに来る時に乗ってきた馬は、アンゼルードを出た際に買ったもので、どうやらあまり思い入れはないようだ。
 ルッツリオンも元の主人と会えたからか、とても嬉しそうだった。

「今日は村の定例会議ってやつだったんだろ? どうだった」

 家の中に入ったデニスが、サビーナの作った食事を前にそう聞いてくれた。サビーナは少し睫毛を伏せて、口の端だけで笑って見せる。

「うん……ビオラの花は冬祭りの時の為に、前々から植えてたんだけど……肝心のメインイベントが決まらなくて。色々皆で考えたんだけど、良いアイデアは出なかったよ」
「うーん、冬の祭りかぁ。アンゼルードなら、雪祭りが定番だけどな」
「ここじゃあ雪は降らないから……」

 こんな時、セヴェリならすぐにイベントを思い付くのだろう。彼がいないだけでこんなにも躓いてしまうとは、思ってもみなかった。
 村起こしという目的の為に、村の定例会議には今後も出席するつもりだ。しかし村人の視線も痛いし、何のアイデアも出さずに黙っているだけなら、出席する意味がないように思えてしまう。
 そんなサビーナを見て、デニスは腕を組んで考え始めた。

「うーん、そうだなぁ。寒中水泳大会なんてのはどうだ!?」
「ちょ、死人が出るかもしれないようなイベントは、出来ませんからっ」
「おもしれぇと思うんだけどなぁ」
「泳げない人もいるし、やる人が限られちゃうよ……」

 ターゲットを絞るというのはある意味で正解ではあるが、寒中水泳はやる人が絞られ過ぎてしまうだろう。それに見ていて楽しいものならばともかく、冬の川を泳いでいる姿なんて、見ているだけで身震いしてしまいそうだ。

 セヴェリ様は、どんなイベントを考えてたのかな……

 こんな事を考えた所でどうしようもないのは分かっている。それでもつい、彼に思いを馳せてしまった。
 セヴェリは今、何をしているだろうか。クリスタと二人、キクレー邸で結婚の準備を進めているのだろうか。

「まぁあんまり思い詰めねー方が、良いアイデア出てくっかもよ」

 物思いに耽っているサビーナに、デニスが歯を見せて笑いながらサビーナの頭をポンポンと叩く。優しい気遣いに、サビーナは「うん」と頷いた。
 デニスと暮らし始めてから、いつも彼の明るさに救われている。そしてサビーナを大切にしてくれている事が分かる。
 けれど、サビーナはいつも彼に救われているが、デニスの方はこの村で暮らすのは辛そうだった。アンゼルードでは友人も多かったデニスだ。挨拶さえまともに交わしてもらえないこの村では、生きにくいに違いない。
 それでも彼は持ち前の明るさでどうにかしようと、村人と積極的に関わろうとしているようだった。毎度徒労に終わっているようであったが。

 時が経てば、村人達もデニスを受け入れてくれるかもしれない。
 そう思っていたが、年が明けてからも変わりはしなかった。一、二ヶ月程度では、村人も変わってはくれないようだ。年単位で気長に見る必要があるかもしれない。
 そんなに長い間、デニスに辛い思いをさせなければいけないのかと思うと、申し訳なかった。サビーナが友人を切望していたのと同じように、デニスもまた、友人が欲しいはずだ。しかしサビーナにはどうする事も出来ず、地道に村人との関係を築いていくしかなかった。

 そんな毎日を過ごしていたある日、キクレーからの遣いがクスタビ村にやって来た。例の儚げな青年、マティアスがやって来たのである。
 彼は日の暮れかけた夕刻に現れると、一通の手紙をサビーナに渡してくれた。その豪華で煌びやかな封筒を見て、見当がついていながらもサビーナは問い掛ける。

「これは……?」
「結婚式の招待状だよ。お嬢様とセヴェリさん……いや、セヴェリ様のね。サビーナは義理とはいえセヴェリ様の妹だから、出席するよね?」

 そう言われて、後ろで様子を見ていたデニスを見上げる。しかし自分では決められないと言うように、デニスはサビーナの目を見つめただけだった。
 そんなやり取りを見ていたマティアスが、自然とデニスに目を向ける。

「というか、その人は誰? サビーナの恋人?」
「……うん」
「へぇ、そんな人が居たんだね。君たち兄妹を引き離す必要はなかったのかな」

 そんな事を言いながら、マティアスは玄関先から一歩下がった。帰ろうとする仕草に、サビーナは慌てて話し掛ける。

「ね、ねぇマティアス。お兄ちゃんは、どんな感じ? キクレー邸に住んでるんだよね?」
「お嬢様と仲良く暮らしてる。僕は相変わらず嫌われてるけどね。この招待状をサビーナに渡しに行こうとしたら、無理に出席させる必要はないって言われたよ。サビーナの好きにさせてやって欲しいってさ」
「そ、か……」
「だから当日来るかどうかは好きにすると良いよ。別に、特に連絡も必要ないから。じゃあね」
「うん、わざわざありがとう、マティアス」

 マティアスは今度こそ背を向けて、家から遠ざかって行った。
 サビーナは手の中の封筒を開き、結婚式の日程を確認する。今から三週間後、二月に入ったすぐに結婚式が行われるようだった。

「サビーナ……」
「良かった……これでようやく、セヴェリ様が命を脅かされる事はなくなる」

 ほっと安堵の息を吐くと同時に、胸が軋むように痛む。嬉しさと同時に、まだ切なさも溢れてしまう。
 共に過ごした二年という時は、長かった。デニスの為にも早く忘れなくてはいけないと分かっているが、まだ心は落ち着きそうにない。

「どうすんだ? 無理して行く必要はねぇと思うけど、俺に気を使う必要もねーかんな」
「うん、ありがとう……すぐには決められないから、もう少し考えてみていいかな」
「おう。後悔しねぇように、ちゃんと決めろよ」

 デニスの優しい言葉に、こくんと頷いてみせる。
 後悔……セヴェリの結婚式を見るのと見ないのでは、一体どちらが後悔するだろうか。

 その夜、ベッドに入ったサビーナは、隣でグースカ眠るデニスの顔を見た。
 あれからデニスは、サビーナに手を出すような様子は見せない。最初に拒んでしまった事もあるし、まだセヴェリに気持ちがある事を察してくれているからだろう。
 思えば、デニスは損な役回りだ。恐らく、オーケルフェルトで働いていた者の中で、最も運のない人間ではないだろうか。

 確かセヴェリ様は、デニスさんの事を女難体質だって言ってたっけ……
 私の事も、十分に女難だよね。

 考えれば考えるほど、デニスが可哀想になってきた。
 こんなに純粋で真っ直ぐな人が報われないのは、心が痛む。こういう人こそ幸せになるべきなのに、ちっともその兆しが見えてこない。

 私がデニスさんだけに目を向けられれば、少しはデニスさんも幸せになれるのかな。

 そうする事が、最良で最善だという事が分かっている。いつまでもセヴェリをグダグダと引き摺っていても、どうしようもない事は理解していた。
 しかし心というのは、理屈では分かっていても、どうしようもなく自分勝手に独立している生き物なのだ。
 この自由で頑固な心に言う事を聞かせるには、少々骨が折れる。

 やっぱり、セヴェリ様とクリスタ様の結婚式を見に行こう。
 二人の幸せな姿を目に焼き付ければ、諦められるかも……

 己の心に決着をつけるために、サビーナは結婚式に出席する事を決めた。
 本当は少し、怖かった。セヴェリに会う事が。クリスタと二人で並んでいる姿を見るのが。結婚式を見る事で、深く傷ついてしまいそうな自分が。
 それでも、どんなに苦しくても、乗り越えなければいけない壁なのだ。逃げてばかりでは、きっと何も変わらない。
 不安はあったが、こうする事が今の自分には必要な事だと結論を出し、サビーナは三週間後の結婚式に出席するのだった。
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