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01.妹からの脱却
しおりを挟む私が嫌な目に遭うのは、すべてあの男のせい──!!
怖くて悔しくて、溢れそうになる涙。それを私は振り切るようにして閉めた扉を背にし、陽の当たる町の通りに出た。
だけどまだ安心できない。
『ビッチなんだろ、ヤらせろよ』
そんな風に迫ってくる男たちは、今までに何人いただろう。
『あなた程度で私の相手が務まるとでも思っているの? もっと男を磨いてからにしてもらいたいものだわ』
そうやって余裕があるふりをしつつ、場を去るしかなかった。
私は歩くたびにゆらゆらと揺れる、この大きな胸を睨みつける。
どうしてこんな体に生まれたのかしら。せめてもっと慎ましやかだったなら、噂なんてすぐ消えたかもしれないのに!
苦しみを胸の内側に留めておけず、思わず走り出してしまった瞬間。
「きゃっ」
「おっと、失礼」
誰かにドスンとぶつかってしまった。
ああ、なんてこと。しかも男性だわ。最悪。
でもぶつかってしまったのは私の方。きちんと淑女らしく謝らなくては。
周りにはビッチだと思われている私が淑女らしく……なんて、とんだ皮肉だけれど。
「いえ、ぼうっとしていた私が悪いのです。申し訳ございませんでした」
「ぼうっとしていた割には、すごい勢いでぶつかってきたようだが?」
そう言って、ぶつかった相手はハハッと歯を見せて笑っている。
嫌味を言っているような感じは受けず、楽しそうに笑う彼の姿を見ると、どうしてだかホッとしてしまった。
見たことのない服装だわ。他国の方かしら。
太陽を受けてキラキラ光るライトブラウンの髪とヘーゼルの瞳がとても綺麗。
「大丈夫か?」
少し不思議そうに覗き込まれて、ハッとした私は居住まいを正す。
いけない、思わず見惚れてしまっていたわ。
「お気遣いありがとうございます、問題ありませ……」
「おい、ビッチ令嬢だ」
私の言葉は、通りすがりの男の声にかき消された。
「お兄さん、異国の人かい? その女には気をつけな、この街では有名なビッチだよ。お兄さんキレイな顔してっから、すぐ食われっちまうぞ!」
男は忠告すると、笑いながら去っていった。
今の人は善意で異国の方に注意をしているだけなのだろうけど、そのせいでどんどん噂が広がっているのよ。
私は唇を噛み締めて、「それでは」と異国の方をやり過ごそうと歩み始める。
「お嬢さん、家まで送ろう」
見上げると、彼は笑顔を振る舞っていて、私は落胆する。
ビッチと聞いて、興味を持たれたに違いないわ。送るふりをして、きっとどこかに連れ込まれるのよ。
「結構ですわ」
ほんの少し震えてしまった唇を噛んで、私は怒りと悲しみを耐えた。
「俺は配属されたばかりの騎士だ。町の通りを頭に入れたいだけで、他意はない」
「……騎士? 明らかに服装は……」
「今日は非番だ」
騎士服ではない、かと言ってこのセライストン王国の人が着る平服でもない、少しヒラヒラとした白い服。
そういえば騎士であるダグラス兄様が、フェザリア王国から騎士が一人やってきたと言っていたわ。きっとこの人のことね。
兄様はいい奴だって言っていたけれど……大丈夫かしら。
「家の通りの名は?」
「……サングラテス通りです」
兄様の言葉を信じて疑うのを少しやめ、私は彼に家の通りの名を教えた。
「サングラテス……えーと確か、こっちだったか?」
「ええ、そうです」
「よかった、合ってた」
嬉しそうにヘーゼルの目を細ませて笑う異国の方。騎士は、通りの名を全部覚えなきゃいけないのよね。
彼はサングラテス通りの方に向かって歩き出して、私も彼の後ろに続く。
「自己紹介が遅れたな。俺はイアン・オッテンブライト。フェザリア王国からこの町の騎士隊の指導顧問として、先週赴任してきたばかりだ」
「指導顧問?」
「ああ、相談役のようなものだな。この国の良いところはそのままに、新しい風を吹き入れる役目も担っている」
「それは……よくわかりませんが、大変そう……ですわね?」
「はは、やりがいはある。とにもかくにも、早くこの国に慣れなくてはな」
嘘を言っている様子はないし、きっと本当のことだと思う。
イアン様……なんとなくだけど、彼は信用できる人物な気がするわ。
「差し支えなけば、お嬢さんの名前を伺っても?」
「ご丁寧に紹介いただきましたのに、私ったら名乗ることもせずに申し訳ありません。私は、キカ・クレイヴンと申します」
「クレイヴン? もしかして、騎士隊に兄がいたりしないか?」
「はい、ダグラス・クレイヴンは私の兄ですわ」
「そうか、ダグの妹君か!」
先週に赴任してきたばかりだと言っていたのに、もう兄様のことを愛称で呼んでいるのね。
って、え、なに?!
いきなり振り返って、私を覗き込んでいるのだけど?!
「うーん、兄妹でもまったく似ていないな」
「兄は筋肉だるまですから……」
「はは、そうだな。だが俺はあの男が好きだ! 豪胆で快活、心根は純朴で優しい」
「はい、そうなのです!」
私は思わず身を乗り出してしまった。
だって、兄を理解してくれている人がいるなんて、嬉しいんだもの!!
「兄は体が大きくて、ちょっと怖い顔をしているから誤解されがちですけど、本当に本当に優しい人なのです!!」
「ああ、わかるわかる!」
イアン様はそう言いながら私に手を伸ばして……え、頭をポンポン?!
えっと……私、十八歳の子爵令嬢ですけれども! やたらと嬉しそうですわね、イアン様?!
「俺とダグは同い年でな。この国でできた友人第一号だ」
「そうだったんですか!」
「ちなみにまだ一号しか友人はいないが。ハハハ!」
自虐かしら? でも楽しそうに笑っているから、私もついふっと笑ってしまう。
「兄様と同い年……ということは、二十六歳ですか?」
「ああ。今年で二十七になる」
「そのお年でこの国に来られて、指導顧問の役職だなんて……優秀ですのね」
「運良く出世できただけだよ」
そうは言うけど、他国への特派なんて、国の信用のおけるよっぽど優秀な人じゃないとできないんじゃないかしら。
それも二十六歳で。
「兄様も優秀な方だけれど、野心がないのでイアン様のような出世はできそうにありませんわ」
「はは、ダグはそれがいいんだ、それが!」
「はい!」
ああ、イアン様、わかってらっしゃる!!
いい人だわ!! この方、兄様の言った通り、すっっごくいい人!!
見上げると、彼の横顔は一片の曇りもない笑みで満たされていて、心からの言葉なんだってことがわかる。
ふふ、なんだかとっても嬉しい。こんな気持ちになったのは、いつ以来かしら。
それから私はイアン様とお話をしながら歩みを進めた。
この国に来たばかりだという彼に道やお店を教えてあげると、ひとつひとつとても喜んでくれるので、私も饒舌になってしまう。
「この角を曲がると、サングラテス通りに……」
家の通りに差し掛かって、そう説明した時。
「今日はあの男をお持ち帰りらしいぞ」
また、私の噂をしている人たち。
イアン様にも聞こえているわよね……恥ずかしい。だけど、イアン様は。
「賑わいのある、いい通りだな」
ヘーゼルの瞳が優しく細められた。それだけで私の荒んだ心は、春の暖かい風が舞い降りたように穏やかになる。
「そうなんです。末端子爵家ですので、閑静とは程遠いところに屋敷があるのですけど、この賑わいが私も大好きで……!」
やだ、私、うまくしゃべれてる?
心臓がうるさくてたまらない。
「来られてよかった。おかげで道も覚えられたよ、ありがとう」
「いえ、こちらこそ送ってくださり、ありがとうございました」
「ところで、初めて会ったばかりでこんなことを言うのもなんだが」
「……はい」
ドキンと胸が鳴る。入り混じる期待と不安。
やっぱりイアン様も私を性の対象として見ているの?
「貴族の令嬢なら、ちゃんと護衛はつけた方がいい」
キリッとした眉と瞳で、そう言われてしまった。
な、なんだ、愛の告白でも、性の対象と思われているのでもなかったのね……。
うちは貧乏な末端子爵家だから、使用人の数はごく僅か。
ちなみにさっき襲ってきた男が護衛だったのよ。あいつはクビ。
護衛を募集してもそういう目的の男しか来ないなら、一人の方がよっぽどマシだわ。
けれど私は気遣いに感謝して「そうします」と頭を下げておいた。イアン様はにっこりと微笑むと、他になにを言うでもなく颯爽と去っていく。
あんな男性が、世の中にはいるのね。
イアン様は素敵な方だった。
男性不信になりかけている私が、信じたいと思えるくらいに。
私がビッチ令嬢と呼ばれ始めたのは、三年前の十五歳の時のこと。
私、キカ・クレイヴンに、デインジャー伯爵家の令息……ニッケル様との婚約話が上がったのが始まりだった。
こっちは末端子爵家で、由緒ある伯爵家からの婚約話を、普通ならば受けなければいけないところ。
でも……私はニッケル様が……いえ、ニッケルが大嫌いだった。
立場の低い者へのセクハラで、訴えることもできずに泣き寝入りしている人がいたから。
私も体をベタベタと触られて、それでも手篭めにされてなるものかと逃げ回っていたら、婚約という強硬手段に出られてしまった。
貴族の娘に生まれたからには、多少望まぬ人のところにでも嫁がなくてはいけないこともわかっているけれど。
絶対に、ニッケルだけはイヤ。
私が泣いて訴えると、兄様が両親を説得してくれて、ニッケルとの婚約話を蹴ってくれた。
だけど、それを恨みに思ったニッケルが、周りに言いふらし始めてしまった。
キカはビッチで、誰にでも足を開く尻軽な女だったと。貞操観念のない女など、こっちから願い下げだと。
どの口がいうのかと怒りに震えたわ。
でも上の階級であるデインジャー家の顔に泥を塗った手前、なにも言えなかった。噂なんていつか消えると思っていたし。
それから三年が経っているけど、噂はやむどころか、どんどん一人歩きを始めている。
結婚なんて、夢のまた夢。
またニッケルのような男に求婚されるかと思うと、縁談などこなくてもいいと思っていたけど。
イアン様の顔が一瞬よぎり、ついさっき会ったばかりの人のことを考えるなんてどうかしていると掻き消した。
危ない目に何度も遭った私は、ビッチのフリをしている。
清純だと強調すれば、嘘をつけと襲ってくる。ならば。
経験の豊富なふりをして躱した。不思議なことに、そっちの方がうまく逃げ出すことができたから。
噂が収まるわけもないと自嘲した。
兄様があの手この手で私に騎士の護衛をつけようとしてくれたけど、結局騎士は見回りを強化するくらいで、実害があったときにしか動けなくてダメだった。
兄様の人脈で信用のおける人を雇おうにも、そういう人たちはとにかくお高い。貧乏子爵家には無理な話。
私はどうにもならないことを考えても仕方ないと割り切って、さっき別れた人に思いを馳せた。
「イアン様は、どういうお人なのかしら……」
もっと、彼を知りたい。
良い人だと思っていた人物が、実は他の人と変わらない狼だったというのはよくある話。
だから期待してはいけないけれど。
「またお会いしたいわ……」
そう思っていた日の晩のこと。
「キカ、今帰ったぞ! 友人を連れてきた!」
兄様の帰宅の声が聞こえて、私は階段を降りて玄関に向かう。
そこには──
「あ……イアン様?!」
「やぁ、お邪魔するよ」
ライトブラウンの髪をなびかせ、優しいヘーゼルの瞳をしたイアン様がそこにいた。
「キカと呼んでやってくれ! 俺とお前の仲だ、許す!」
帰りがけにイアン様に会った兄様が、夕食に誘ったらしい。ナイス、兄様!
お陰でイアン様のことを色々と知ることができた。
文武兼備のイアン様は、祖国フェザリア王国のジームレイという自領にある、要塞の指揮官をしていたらしい。
要塞での活躍が買われて、フェザリア王都で守護騎士隊の指導補佐官へ。さらに頭角を現し、全騎士軍を統括する、副総監に着任。そこで政治的なことにも絡むようになったという。
色々と仕事をこなしている内に国王に気に入られ、フェザリア国王自らのご推挙によって、ここセライストン王国に指導顧問としてやってきたんだとか。
……って、経歴もすごいけど、国王陛下自らって凄すぎない?
この国の未来を語るイアン様の顔は生き生きと輝いていて。
父様も母様も兄様も私も、虜になるようにイアン様のお話に聞き入っていた。
***
イアン様が三日と空けずにうちに来てくれるようになって一ヶ月。
祖国フェザリアで侯爵だというイアン様には、私と同い年の妹がいるのだそう。その妹が送ってくれたという美味しい焼き菓子をいただいた。
「私もイアン様の妹様に、なにかを送りたいですわ」
「本当か? ありがとう、妹もきっと喜ぶ。良い子だな、キカは」
頭をなでなでしてくれるイアン様。……完璧に妹扱いよね、これ。
妹じゃ嫌だと思ってしまうのは、もしかして、私……。
イアン様への気持ちを自覚した瞬間、耳が燃えるように熱くなった。
寝ても覚めても、考えるのはイアン様のことばかり。
ある日、私はイアン様の妹のジェナ様に手紙をいただいた。お菓子を送ったお礼状だった。
「ジェナは、おかしなことを書いていなかったか?」
「ふふ、兄という人種は心配性ですわね」
「ハハ、違いない」
手紙を見せてあげると、イアン様はほっと胸を撫で下ろしている。
「こんなにイアン様に心配してもらえるジェナ様は、幸せですわね」
「そうかな。ジェナには鬱陶しがられているが」
「鬱陶しがるほどに思われているなんて、羨ましいです」
「キカも、ダグには相当かわいがられていると思うけどな」
「それはそうですが……」
兄様は用事で少し席を外している。思いを伝えるなら……今だわ。
「私は……イアン様に、思われたいんです……っ」
ばっくんばっくんと心臓が波打つ。
言ってしまったわ。ああ、上手く息が吸えない。
イアン様にどんな反応をされてしまうのかしら……怖い。
「キカ」
「は、はい」
イヤな顔をされてしまったら、私もう生きていけない。
そう思った瞬間、イアン様の顔が優しく綻んだ。ドクンと胸が揺れるのを感じて、私の期待値は高まっていく。
「俺にとって、この国での一番の妹は、間違いなくキカだ。大事に思っているし、いつも気にかけているよ」
…………。
……………………。
…………………………………………。
ちがっっ!!
妹ちがっっ!!!!
わかってはいたけれど……妹としか思われていないってことくらいは……!!
大事と言ってもらえて、とってもうれしいけれど……
ああ、そんなにニコニコされては、そういう意味じゃないとはもう言えない。
「ありがとうございます……い、妹……嬉しいです………」
私の言葉がよっぽど嬉しかったのか、イアン様は幸せそうに私の頭をいつまでも撫でてくれた。
……いつか妹ポジションから脱却してやるんだから。
応援ありがとうございます!
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