娘のように、兄のように

長岡更紗

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ロレンツォ編

第7話 ロレンツォの性教育は

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 コリーンはほぼ一年で、会話に困らなくなるくらいまでに成長していた。しかしアクセントは所々おかしく、文法も曖昧な所があった。それに、文字にするとスペルの間違いも多い。
 ロレンツォは、それを許さなかった。コリーンに完璧を求めた。普通に生きて行く分なら問題ないかもしれない。だがファレンテイン人として生きさせるには、読み書き会話は必須条件だ。
 会話がおかしいと、どこの国出身なのか聞きたくなるのは人の性である。他国出身なのにファレンテインの市民権を持っていたら、やはり何故か問いたくなるだろう。コリーンの為に……自分の為にでもあるが、結婚している事は隠しておかなければならない。
 完璧なファレンテイン人になりきる為、ロレンツォはコリーンに少しの間違いも許さなかった。
 そしてそんな頑張るコリーンに、ロレンツォは辞書を買ってあげた。訳の辞書ではなく、意味の書いた辞書を。いつかの様に『右腕』と言って、言葉のまま捉えてしまっては、ファレンテイン人とは言えない。字を書く時も、文字をこの辞書で調べさせれば、スペルミスも無くなって覚えられるはずだ。

「コリーン。誕生日プレゼントだ」

 そう言って辞書を渡そうすると、コリーンは不思議そうに首を傾げた。

「ロレンツォ、私、今日誕生日違う」
「そうだろうな。俺はお前の誕生日を知らんからな」

 ロレンツォが可笑くて笑うと、コリーンは更に首を傾げている。

「コリーンがトレインチェに来た日を誕生日と、俺が勝手に決めた。役所の方にもそう届出してある。ちなみに、今日でコリーンは十七歳だ」
「……何を言ってるか、分からない。私、まだ十一歳」
「そうか、十一歳だったのか。生理は始まったか?」

 唐突の質問にコリーンは一瞬顔を赤らめて、コクリと頷いた。あらかじめ予備知識を入れておいてあげていたので、初潮の時も自分で対処出来たのだろう。

「そうか、おめでとう。ちょっと座ってくれ。それも含めて、色々言っておかなきゃいけないことがある」

 促されたコリーンは、ロレンツォの前に座る。ロレンツォも辞書をコリーンの目の前に置いて、自身も座った。

「まずは、辞書を受け取ってくれ。これからはますます必要になって来る。いちいち図書館で借りるのは大変だろう。書き込みも出来ないしな。自由に使ってくれ」

 コリーンはおずおずと受け取り、ぺらりと中身をめくっている。とてつもなくごつい辞書に、コリーンは眉を下げていた。

「これ、高いやつだ」
「うん……まぁな」
「いいの?」
「無駄遣いだったと思わさない様にしてくれると、有難いな」
「分かった。頑張る」

 まあ語学はコリーンなら大丈夫だろう。それは心配していない。問題は算術の方だ。どの程度出来るのか試してみたが、四則演算は問題無かった。ちゃんと学校で習ったのだろう。しかし、それだけでは不十分である。学校に行かせてやれない分、ちゃんと勉強して貰わなければならない。

「それと、これからは図書館で毎日算術の勉強をしろ。テキストは小学四年生からやった方がいい。分かったな」

 そう言うと、コリーンは露骨に嫌な顔をした。

「どうした? 何か文句あるか?」
「……必要ない」
「必要ない? 違うだろ? 本当はやりたくないだけなんじゃないのか」

 指摘されて、コリーンは頬を膨らました。そしてロレンツォから視線を逸らす。

「こっちを向け、コリーン」
「……はい」
「俺は、コリーンに勉強して欲しい。今は何の役にも立たないかもしれないが、勉強しておいて損はないはずだ」
「でも、算術で何かをやりたい訳じゃない」
「自分で自分の可能性を潰すような真似はするな。確かに学んでも使わなければ意味が無い。だが学んでおけば、可能性は広がる。チャンスが来た時、いつでも掴めるよう準備だけはしておくんだ。それは決して無駄なんかじゃない」
「……だから、ロレンツォも勉強してる?」

 コリーンの問いにロレンツォは首肯した。

「チャンスはいつ転がってくるか分からないからな。それまで、出来る限りのことはしておくつもりだ」
「……うん。分かった。私も勉強、する。算術」
「私も算術の勉強をする、だ。分かってくれて嬉しいよ。頑張ってくれ」

 それと、とロレンツォは付け足す。

「今まで言ってなかったが、俺とお前は法的に夫婦だ」

 その言葉に、コリーンは再び理解不能といった顔を見せる。

「どういう事?」

 ロレンツォは、夫婦になった経緯を説明した。そして残り九年は離婚しない方がいいという事を付け足す。
 コリーンは神妙な顔をしていて、聞き終わると丁寧に頭を下げた。

「迷惑かけた。ごめん」
「いや、俺の方こそ勝手に決めて悪かった。ただ、こうする以外に俺には方法が無かったんだ。許してくれ」
「許す、許さない、私言えない。ありがとう。でももし、結婚したい相手いたら、別れる、良い。言って」
「……いや、気持ちだけ貰っとくよ。俺はコリーンにファレンテイン市民権を与えると決めたんだ。だから、何も心配することは無い」
「でも」
「いいんだ。俺がそうしたいだけなんだから、気にするな」
「……うん」
「それに、その事に関しては、コリーンも同条件だ。俺と別れて別のファレンテイン人と結婚しても、確かに市民権は得られる。だが十年以内に離婚してしまうリスクを考えると、俺とこのまま二十六歳まで婚姻関係を続けた方がいい。実年齢で言うと二十歳だ。構わないか?」

 今度はコリーンが首肯した。

「分かった。二十歳くらいなら、問題ない」
「まぁ、結婚って意味じゃあな……気を付けて欲しいのは、妊娠だ。性行為も、出来るだけ控えて欲しい」
「……性行為?」
「動物で言う所の、交尾だ。それによって子供が出来る。分かるか?」
「うん、分かる」

 本当に分かっているのだろうか。少々不安である。

「……人間の交尾の仕方、分かるか?」
「分からない」
「赤ちゃんはどうやって出来るか、知ってるか?」
「交尾」
「うーん、まぁそうなんだが……」

 説明しようか迷ったが、やはり伝えておくべきだろう。女性は特に自衛しなければ、妊娠は防げない。

「コリーンは、月のものが始まっただろう。それは、お腹の中に卵を作れるようになったという証なんだ。つまり、コリーンは妊娠できる体になったんだ。そこまでは、分かるか?」
「分かる」
「そこにな、男が持っている子供の種が届けば、妊娠となるわけだ」
「精子?」

 分かりやすい言葉に変換したのに、コリーンはすでにその言葉を知っていて、ロレンツォは少し驚く。

「そうだ。よく知ってるな」
「この間、鮭の産卵の本を読んだ。雌が卵を産む。雄が精子を振り掛ける。人間も同じ?」
「ああ、まあ同じと言えば同じだが、人間は魚の様に、卵を産むわけじゃないからな。お腹の中にある卵に精子を送るには、直接注がなきゃいけなくなる。それが、いわゆる性行為だ」
「注ぐ……どうやって?」

 やはりそこをぼかすと言いたい事は伝わらない。ロレンツォは包み隠さず射精に至るまでの行為をコリーンに教えた。聞かされたコリーンは、赤くなったり青くなったり、目を白黒させている。
 ノルトでは、十一歳なら大抵の子は知っている事だ。ロレンツォもコリーンに教えるのに、特に抵抗は感じなかった。

「子供が出来て、責任を取ってくれる男ならばまだ良い。だが、そういう奴らばかりじゃないからな。正直、コリーンが妊娠しても、今の俺じゃあ子供まで養ってやれん。だからコリーン自身が自立して、一人でも育てて行ける環境が整うまで、そういう行為は……するなとは言わないが、気を付けて控えて欲しいんだ」

 ロレンツォが真剣にそう伝えると、コリーンも真剣な表情で「分かった」と答えてくれた。その後も、ロレンツォは危険日と安全日、避妊の方法……と言っても、中に出すか出さないかという事だけだが、コリーンに伝えた。全て気を付けていても、妊娠する時はするとも伝えた。
 教えるべき事を伝え終わると、今日の勉強の時間はなくなり、もう寝る時間を迎えていた。
 ロレンツォはいつもの様に煙草を燻らす。

 コリーンにこれだけ注意しておいて、俺が誰かを妊娠させていたら、目も当てられないな。
 かと言って、九年間何もなしはごめんだ。
 まぁ、今まで妊娠させたことは一度も無いし、これからも今まで通りやれば平気だろう。
 ともかく、今日の目的は達成したな。
 コリーンにしなきゃと思っていた性教育が終わっただけで、肩の荷が下りた。
 あとは何があってもコリーンの責任だ。自重してくれよ。

 煙草を消すと、ロレンツォは部屋へと戻る。そしてベッドへと転がると、いつもは駆け寄ってくるコリーンがおずおずと様子を見ている。

「どうした、コリーン」

 いや、本当はどうしたかなんて分かっている。男女が同じベッドで寝るという意味を、教えたばかりなのだから。

「あの、ロレンツォ……」
「何もしやしない。コリーンは俺の妹の様な、娘の様な存在なんだからな。ほら、入れ」

 促されて、どこかほっとした様にベッドに入るコリーン。そんなコリーンの頭を撫でてやると、彼女はお願いを口にした。

「ロレンツォ……私、自分の部屋、欲しい」
「……そうか。分かった。隣の物置を空けよう。今度の休みでも構わないか?」

 頷きを見せるコリーン。いつかはそう言うだろうとは思っていたので、特に驚きはない。しかし思ったよりも早い提案に、ベッドを買う金を用意出来るか、それだけが心配の種だ。それでなくとも辞書を買って、金はなきに等しい。

「わがまま、ごめん。無理ならいい」
「いや、気にするな。でも天蓋付きベッドが欲しいとか、言わないでくれよ」
「あは、言わない。ベッド、何でも良い」
「分かった。不自由ばかりさせて悪いな」

 コリーンはロレンツォの腕の中で、ぶんぶんと首を振る。

「ロレンツォ、いつも、私を……尊重? してくれる。嬉しい。好き」
「そうか。そう言ってくれると俺も嬉しい。さあ、明日は早番だ。早く寝るぞ」

 そう言うと、コリーンは微睡みながら笑みを向けてくれる。

「おやすみ、ロレンツォ」
「おやすみ、コリーン」

 ロレンツォもまたコリーンに微笑して目元にキスしてやった後、目を閉じる。
 もうこうやってひとつのベッドに寝られないと思うと、何だか寂寥を感じた。
 ユーファミーアに「もうお兄ちゃんとはお風呂入らない」と言われた時と少し似た感覚だ。

 父親役ってのは、寂しいもんだな。

 そんな事を考えているうちに、ロレンツォは眠りに落ちた。
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