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一章
5、お父さま【1】
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侍女はわたしを部屋につれていき、手当てをしてくれました。
何度も濡れたタオルで背中や腕を冷やし、ようやく侍女は小さく息をつきました。
「不幸中の幸いでございますね。赤くはなっていますが、痕は残らなさそうです」
「あの方が、すぐに対処してくださったからだわ」
今思い出しただけでも、頬が熱くなります。
でも、熱い紅茶のかかったドレスを脱がせてくれたおかげで、たいした火傷にはなりませんでした。
また来ると仰っていました。
その時に、上着をお返しして。ちゃんとお礼を言わなければ。
「素敵な方でしたね。貴公子でいらっしゃいました」
庭での異変に気付き、侍女はビルギットに紅茶を掛けられた経緯を知っていたようです。
でも、逆光になっていたことや騒ぎの所為で、わたしはあの方のお顔をちゃんと見ていないのです。
でも、大丈夫。きっと近いうちに我が家にいらっしゃるわ。
その時、廊下をバタバタと歩く音がしました。お父さまです。
他の誰も、この家ではそんな騒々しい足音を立てません。ビルギットが高いヒールをカツカツと鳴らすことはありますが。
足音は近づいてきます。わたしは着替えを急ぎ、乱れた髪を慌ててまとめ直しました。
「入るぞ、マルガレータ」
ノックと同時に扉が開きます。ええ、返事を待たずにです。
こちらの事情はいつも酌んでくださらないの。
北側に面した廊下から、冷えた空気が流れ込んできます。
お父さまはコート掛けにかけた男性用の上着にちらっと視線を向けました。
そして、わたしの方へとまさに突進してきました。
目の前で閃光が散りました。
衝撃で、わたしの体は床に倒れ伏してしまいます。立っていられなかったのです。
わたし……もしかして、ぶたれたの?
「旦那さま、何をなさるんですか」
侍女の悲鳴が、室内に響き渡ります。耳が痛いほどの声でした。
これまで叩かれたことなどありません。だから、何が起こったのか瞬時には理解できなかったんです。
左頬が熱くて、そしてじんわりと痛みを帯びていきます。
渾身の力で叩かれたのでしょう。口の中に鉄っぽい匂いと、血の味が満ちてきました。頬の痛みはひどくなっていきます。
見上げれば、お父さまはまるで岩のように恐ろしく聳えています。
「見損なったぞ。姉であれば、妹を守るのは当然だろうに」
ああ、すでにビルギットがお父さまに真実を捻じ曲げて伝えたのね。
諦めて瞼を閉じると、侍女が「お可哀想に、マルガレータさま」と床にへたり込んだわたしの体を支えてくれました。
「お前はもっと聡い子だと思っていた。だが、なんだ。ヒースの心変わりを恨んで、ビルギットに襲い掛かっただと。大事な妹だぞ、守ってやろうとは思わんのか。そんなだから婚約者に見限られるんだ。ビルギットは自分の身を守ろうと、お前に紅茶をかけたそうだが。自業自得だな」
お父さまの口からぺらぺらと流れ出てくるのは、事実とは正反対のことばかりでした。
少し開いた扉の陰から、腕を組んで顎を上げたビルギットの姿が見えました。
楽しそうに口許を歪めて。
――お父さまはわたしに全幅の信頼をおいてらっしゃるのよ。姉さんなんて、話すら聞いてもらえないじゃない。ざまぁみろ、ですこと。
そんな声が聞こえた気がしました。
何度も濡れたタオルで背中や腕を冷やし、ようやく侍女は小さく息をつきました。
「不幸中の幸いでございますね。赤くはなっていますが、痕は残らなさそうです」
「あの方が、すぐに対処してくださったからだわ」
今思い出しただけでも、頬が熱くなります。
でも、熱い紅茶のかかったドレスを脱がせてくれたおかげで、たいした火傷にはなりませんでした。
また来ると仰っていました。
その時に、上着をお返しして。ちゃんとお礼を言わなければ。
「素敵な方でしたね。貴公子でいらっしゃいました」
庭での異変に気付き、侍女はビルギットに紅茶を掛けられた経緯を知っていたようです。
でも、逆光になっていたことや騒ぎの所為で、わたしはあの方のお顔をちゃんと見ていないのです。
でも、大丈夫。きっと近いうちに我が家にいらっしゃるわ。
その時、廊下をバタバタと歩く音がしました。お父さまです。
他の誰も、この家ではそんな騒々しい足音を立てません。ビルギットが高いヒールをカツカツと鳴らすことはありますが。
足音は近づいてきます。わたしは着替えを急ぎ、乱れた髪を慌ててまとめ直しました。
「入るぞ、マルガレータ」
ノックと同時に扉が開きます。ええ、返事を待たずにです。
こちらの事情はいつも酌んでくださらないの。
北側に面した廊下から、冷えた空気が流れ込んできます。
お父さまはコート掛けにかけた男性用の上着にちらっと視線を向けました。
そして、わたしの方へとまさに突進してきました。
目の前で閃光が散りました。
衝撃で、わたしの体は床に倒れ伏してしまいます。立っていられなかったのです。
わたし……もしかして、ぶたれたの?
「旦那さま、何をなさるんですか」
侍女の悲鳴が、室内に響き渡ります。耳が痛いほどの声でした。
これまで叩かれたことなどありません。だから、何が起こったのか瞬時には理解できなかったんです。
左頬が熱くて、そしてじんわりと痛みを帯びていきます。
渾身の力で叩かれたのでしょう。口の中に鉄っぽい匂いと、血の味が満ちてきました。頬の痛みはひどくなっていきます。
見上げれば、お父さまはまるで岩のように恐ろしく聳えています。
「見損なったぞ。姉であれば、妹を守るのは当然だろうに」
ああ、すでにビルギットがお父さまに真実を捻じ曲げて伝えたのね。
諦めて瞼を閉じると、侍女が「お可哀想に、マルガレータさま」と床にへたり込んだわたしの体を支えてくれました。
「お前はもっと聡い子だと思っていた。だが、なんだ。ヒースの心変わりを恨んで、ビルギットに襲い掛かっただと。大事な妹だぞ、守ってやろうとは思わんのか。そんなだから婚約者に見限られるんだ。ビルギットは自分の身を守ろうと、お前に紅茶をかけたそうだが。自業自得だな」
お父さまの口からぺらぺらと流れ出てくるのは、事実とは正反対のことばかりでした。
少し開いた扉の陰から、腕を組んで顎を上げたビルギットの姿が見えました。
楽しそうに口許を歪めて。
――お父さまはわたしに全幅の信頼をおいてらっしゃるのよ。姉さんなんて、話すら聞いてもらえないじゃない。ざまぁみろ、ですこと。
そんな声が聞こえた気がしました。
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