上 下
5 / 32
一章

5、お父さま【1】

しおりを挟む
 侍女はわたしを部屋につれていき、手当てをしてくれました。
 何度も濡れたタオルで背中や腕を冷やし、ようやく侍女は小さく息をつきました。

「不幸中の幸いでございますね。赤くはなっていますが、痕は残らなさそうです」
「あの方が、すぐに対処してくださったからだわ」

 今思い出しただけでも、頬が熱くなります。
 でも、熱い紅茶のかかったドレスを脱がせてくれたおかげで、たいした火傷にはなりませんでした。

 また来ると仰っていました。
 その時に、上着をお返しして。ちゃんとお礼を言わなければ。
 
「素敵な方でしたね。貴公子でいらっしゃいました」

 庭での異変に気付き、侍女はビルギットに紅茶を掛けられた経緯を知っていたようです。
 でも、逆光になっていたことや騒ぎの所為で、わたしはあの方のお顔をちゃんと見ていないのです。

 でも、大丈夫。きっと近いうちに我が家にいらっしゃるわ。

 その時、廊下をバタバタと歩く音がしました。お父さまです。
 他の誰も、この家ではそんな騒々しい足音を立てません。ビルギットが高いヒールをカツカツと鳴らすことはありますが。

 足音は近づいてきます。わたしは着替えを急ぎ、乱れた髪を慌ててまとめ直しました。

「入るぞ、マルガレータ」

 ノックと同時に扉が開きます。ええ、返事を待たずにです。
 こちらの事情はいつも酌んでくださらないの。

 北側に面した廊下から、冷えた空気が流れ込んできます。
 お父さまはコート掛けにかけた男性用の上着にちらっと視線を向けました。
 そして、わたしの方へとまさに突進してきました。

 目の前で閃光が散りました。
 衝撃で、わたしの体は床に倒れ伏してしまいます。立っていられなかったのです。

 わたし……もしかして、ぶたれたの?

「旦那さま、何をなさるんですか」

 侍女の悲鳴が、室内に響き渡ります。耳が痛いほどの声でした。
 これまで叩かれたことなどありません。だから、何が起こったのか瞬時には理解できなかったんです。
 左頬が熱くて、そしてじんわりと痛みを帯びていきます。

 渾身の力で叩かれたのでしょう。口の中に鉄っぽい匂いと、血の味が満ちてきました。頬の痛みはひどくなっていきます。
 
 見上げれば、お父さまはまるで岩のように恐ろしく聳えています。

「見損なったぞ。姉であれば、妹を守るのは当然だろうに」

 ああ、すでにビルギットがお父さまに真実を捻じ曲げて伝えたのね。
 諦めて瞼を閉じると、侍女が「お可哀想に、マルガレータさま」と床にへたり込んだわたしの体を支えてくれました。

「お前はもっと聡い子だと思っていた。だが、なんだ。ヒースの心変わりを恨んで、ビルギットに襲い掛かっただと。大事な妹だぞ、守ってやろうとは思わんのか。そんなだから婚約者に見限られるんだ。ビルギットは自分の身を守ろうと、お前に紅茶をかけたそうだが。自業自得だな」

 お父さまの口からぺらぺらと流れ出てくるのは、事実とは正反対のことばかりでした。

 少し開いた扉の陰から、腕を組んで顎を上げたビルギットの姿が見えました。
 楽しそうに口許を歪めて。

――お父さまはわたしに全幅の信頼をおいてらっしゃるのよ。姉さんなんて、話すら聞いてもらえないじゃない。ざまぁみろ、ですこと。

 そんな声が聞こえた気がしました。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

俺を裏切り大切な人を奪った勇者達に復讐するため、俺は魔王の力を取り戻す

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:5,583pt お気に入り:91

【完結】私がいなくなれば、あなたにも わかるでしょう

nao
恋愛 / 完結 24h.ポイント:15,520pt お気に入り:937

異世界迷宮のスナイパー《転生弓士》アルファ版

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:35pt お気に入り:584

処理中です...