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二章
8、匂いと臭い
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「不思議なものだ。マルガレータが暮らすこの小屋は、とても質素で必要最低限の物しかないのに。とてもいい香りがする」
クリスティアンさまは、香りをかぐように少し顔をお上げになりました。
わたしは鼻が慣れてしまっているのですが。
時折、小屋を空けて戻ってきた時。扉を開いたその時に、ふわりと優しい香りが漂うことがあります。
ジャムを煮ている時は、季節の果物の甘酸っぱい香り。そうでない時は、扉や棚の取っ手に掛けたラベンダーのサシェの淡い香り。
窓を開けば、森の清々しい緑の匂いに包まれます。
窓から見える朝露の降りた葉は、きらきらと煌めいて。室内が質素であるからこそ、極上の美しさに思えるのです。
「対して妹、お前は何だ。なぜこの清潔な家に、そんな臭いを持ち込めるのだ。香水で隠せば隠すほど、醜悪さが際立つだけだぞ」
「なによ、レディに失礼よ」
「レディ? 私はマルガレータに無礼を働いたと思ってはいない。それともこの場に、他にレディがいるのか?」
冷ややかな蒼い瞳が、ビルギットを見下ろします。
「それともお前は己をレディだと思えるほどに、恥知らずなのか? 憐れな」
容赦のない言葉に、ビルギットの顔が真っ赤に染まりました。
彼女が生まれてこの方、感じたことのない羞恥なのでしょう。
すべて人任せで、自分では何もしない。なのに人には偉そうにする。その愚かさを、クリスティアンさまは見抜いていらっしゃるのです。
「ビルギット。自分の身の回りのことは、自分ですればいいだけのことよ。そうでしょう? 薪に火を点けて、お湯を沸かして。そのお湯をバスタブに運べばいいのよ」
わたしは、床に伏せた状態のままのビルギットに声をかけました。
彼女の顔はまだ赤らんでいます。そう、恥ずかしさのために耳も真っ赤。
クリスティアンさまの護衛は、傍若無人に飛び込んできた彼女を押さえる手の力を、決して弛めようとはしません。
それが、わたしの妹と分かっていても。
ねぇ、あなたはそれほどに警戒されているのよ。レディはそんな風に扱われたりはしないわ。
「わたしにできるわけないじゃない。お湯を運ぶなんて、そんな力仕事。それに薪に火なんてつけたこともないわ」
「メイドはやっていたわ。あなたと同じ女性よ」
「同じ女性じゃないわ。ただの使用人よ」とビルギットは、ぼそぼそと口ごもります。そしてすがるような眼差しでわたしやクリスティアンさまを見つめるのです。
長い睫毛を震わせながら。
「石鹼が何処にあるのかも分からないもの。お湯の沸かし方だって知らないわ。誰も教えてくれなかったもの。燃えた薪の上に直接バケツを載せればいいの? それにそんな重いものを運んで、指や手首を骨折したらどうするのよ。わたしはそんな怪力じゃないわ」
突然、ビルギットの言葉が弱々しくなりました。
護衛の方が戸惑ったその時「馬鹿を申すな、娘」とクリスティアンさまの厳しい声が聞こえたのです。
「ば、馬鹿って何よ。こんなにも苦しんでいるのに」
「私や姉にティーポットの紅茶をぶちまけることができるのだから。バケツくらい持てるだろう? 今更非力なふりをされても、茶番だぞ」
「ポットは軽いわ……そんな、ひどい」
「重さ以前に、姉や初対面の客に紅茶をかけようとする無神経さ……ああ、済まない、不躾さがあればバケツくらい運べるだろうと指摘しているのだ」
クリスティアンさまは聡明な方なのでしょう。
ビルギットの媚びに一切乗ることがありません。ええ、清々しいほどに。
ですから、ビルギットもクリスティアンさまに色目を使いません。それが意味がないと、きっとさらに痛い目に遭うと察しているに違いありません。
「お父さまにお願いすれば、力仕事はしてくれるでしょう?」
「……してくれないわよ。風呂はまだか、夕食は何時だ? なんて言いに来るんですもの。もう屋敷には、わたししかいないのに」
ビルギットの噛みしめた唇は、力が入りすぎて白く見えるほどでした。
クリスティアンさまは、香りをかぐように少し顔をお上げになりました。
わたしは鼻が慣れてしまっているのですが。
時折、小屋を空けて戻ってきた時。扉を開いたその時に、ふわりと優しい香りが漂うことがあります。
ジャムを煮ている時は、季節の果物の甘酸っぱい香り。そうでない時は、扉や棚の取っ手に掛けたラベンダーのサシェの淡い香り。
窓を開けば、森の清々しい緑の匂いに包まれます。
窓から見える朝露の降りた葉は、きらきらと煌めいて。室内が質素であるからこそ、極上の美しさに思えるのです。
「対して妹、お前は何だ。なぜこの清潔な家に、そんな臭いを持ち込めるのだ。香水で隠せば隠すほど、醜悪さが際立つだけだぞ」
「なによ、レディに失礼よ」
「レディ? 私はマルガレータに無礼を働いたと思ってはいない。それともこの場に、他にレディがいるのか?」
冷ややかな蒼い瞳が、ビルギットを見下ろします。
「それともお前は己をレディだと思えるほどに、恥知らずなのか? 憐れな」
容赦のない言葉に、ビルギットの顔が真っ赤に染まりました。
彼女が生まれてこの方、感じたことのない羞恥なのでしょう。
すべて人任せで、自分では何もしない。なのに人には偉そうにする。その愚かさを、クリスティアンさまは見抜いていらっしゃるのです。
「ビルギット。自分の身の回りのことは、自分ですればいいだけのことよ。そうでしょう? 薪に火を点けて、お湯を沸かして。そのお湯をバスタブに運べばいいのよ」
わたしは、床に伏せた状態のままのビルギットに声をかけました。
彼女の顔はまだ赤らんでいます。そう、恥ずかしさのために耳も真っ赤。
クリスティアンさまの護衛は、傍若無人に飛び込んできた彼女を押さえる手の力を、決して弛めようとはしません。
それが、わたしの妹と分かっていても。
ねぇ、あなたはそれほどに警戒されているのよ。レディはそんな風に扱われたりはしないわ。
「わたしにできるわけないじゃない。お湯を運ぶなんて、そんな力仕事。それに薪に火なんてつけたこともないわ」
「メイドはやっていたわ。あなたと同じ女性よ」
「同じ女性じゃないわ。ただの使用人よ」とビルギットは、ぼそぼそと口ごもります。そしてすがるような眼差しでわたしやクリスティアンさまを見つめるのです。
長い睫毛を震わせながら。
「石鹼が何処にあるのかも分からないもの。お湯の沸かし方だって知らないわ。誰も教えてくれなかったもの。燃えた薪の上に直接バケツを載せればいいの? それにそんな重いものを運んで、指や手首を骨折したらどうするのよ。わたしはそんな怪力じゃないわ」
突然、ビルギットの言葉が弱々しくなりました。
護衛の方が戸惑ったその時「馬鹿を申すな、娘」とクリスティアンさまの厳しい声が聞こえたのです。
「ば、馬鹿って何よ。こんなにも苦しんでいるのに」
「私や姉にティーポットの紅茶をぶちまけることができるのだから。バケツくらい持てるだろう? 今更非力なふりをされても、茶番だぞ」
「ポットは軽いわ……そんな、ひどい」
「重さ以前に、姉や初対面の客に紅茶をかけようとする無神経さ……ああ、済まない、不躾さがあればバケツくらい運べるだろうと指摘しているのだ」
クリスティアンさまは聡明な方なのでしょう。
ビルギットの媚びに一切乗ることがありません。ええ、清々しいほどに。
ですから、ビルギットもクリスティアンさまに色目を使いません。それが意味がないと、きっとさらに痛い目に遭うと察しているに違いありません。
「お父さまにお願いすれば、力仕事はしてくれるでしょう?」
「……してくれないわよ。風呂はまだか、夕食は何時だ? なんて言いに来るんですもの。もう屋敷には、わたししかいないのに」
ビルギットの噛みしめた唇は、力が入りすぎて白く見えるほどでした。
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