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三章
12、ハンカチ【2】※護衛視点
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姫さまと二人で「パーティ」という名のままごとをしていると、マルガレータさまがやっていらして「お仕事がお休みですのに、申し訳ありません」と声をかけてくださった。
「おやすみですのに、もうしわけないの?」
「え?」
くりっとした蒼い瞳で姫さまに顔を覗きこまれて、私は返答に困った。
確かに今日は川に釣りにでも行こうかと思っていた。
だが、逆に言えば釣りに行こうと思うくらい暇でもあった。
マルティナさまは眉を下げて、揃えた膝の上で小さな手をきゅっと握りしめている。
マルガレータさまも、繊細な我が子を傷つけてしまったのではと、やはり寂しげに眉を下げていらっしゃる。
「ごめんなさいね。マルティナ。お母さまは間違えてしまったわね。『お休みの日に、ありがとうございます』よね?」
うんうん、と私は頷いた。
マルティナさまは意外と繊細でいらっしゃる。その分、マルガレータさまも言葉選びに配慮なさることが多い。
親の何気ない言葉が、子どもにとっていかに重いものであるかを知っていらっしゃるからだ。
「そう、そうなの」
姫さまは、ぱあっと明るい笑顔になり「ごしょうたい、ありがとう」と仰った。
どういたしまして。ご招待されたのは私の方ですが。
申し訳ないついでだろうか。マルガレータさまは、四阿にエルダーフラワーの飲み物を二人分、差し入れてくださった。
初夏の時季に爽やかな、エルダーフラワーのコーディアルとレモンジュースを合わせた飲み物だ。
まぁ、ままごとの新酒が優先なんですが……。
「じゃあつぎは、ケーキね」
「では、頂戴いたします」
「オーブンのぐあいがよくて……なくて。やきいろがあまいかしら、でございますの」
どこで覚えたんです? その言葉。
きっと厨房で、コックやキッチンメイド達の話を聞いて覚えたんだろうな。
ん? と私は向かいに座る姫さまのお顔が気になった。
ふっくらとした頬に泥がついているではないか。
泥が乾いてしまっては、お肌を傷めてしまう。
私はガーゼのハンカチをカップの水で濡らして、柔らかな頬を拭いてさしあげた。
「んー、ちがうの。おかおじゃなくて、たべるまえに手をふくのよ」
「はいはい、拭きますよ」
「ふいてないもん」
ぷうっと頬を膨らませるマルティナさま。うむ、綺麗になった。
私は常日頃から携帯しているガーゼのハンカチを、たたんで横に置いた。
泥団子を食べる真似をすると、ようやく姫さまは満足そうに笑顔になった。
人見知りは、時期だから仕方がないし。今後は、同年代の友達と遊ぶ時間も増えることだろう。
だが、誰にも言えない本音を私は内に秘めている。
今はこうして穏やかな時間を過ごし、他愛もないままごとをして、花の美しさや鳥の鳴き声を二人で聞いていられるが。
じきに、私は置いていかれる。
そう、子どもの成長は早いのだ。
だからこそ、庭師に「付き合いがいいですねぇ」と言われても、律儀に姫さまのままごとに付き合うのだ。
いずれ、私は徐々に高くなっていく姫さまの背中ばかりを見ることになる。
クリスティアン殿下の幼い頃のことは、当然だが私は知らない。だから、殿下の背中を見続けるのは当たり前だった。
それが護衛の務めと知っているのに。なぜ、寂しいと思うのだろうな。
「あ、ケーキのおかわりがあるの、ですのよ」
「あ、姫さま。ケーキはもう……」
「だいじょうぶ。たーくさんつくったの」
姫さまは立ち上がると、一目散に走っていった。
エプロンドレスのリボンがひらひらと風になびいて、そしてそのまま姫さまは盛大に転んだ。
どさっという音。少しの沈黙の後、姫さまは立ち上がろうとなさった。
ご自分で立とうとなさるとは、感動いたしました。
だが、すぐに蒼い瞳が潤んで、か細い泣き声が聞こえてくる。姫さまは草の上にしゃがんだまま私を見上げてきた。
「う、ううっ、うぇーん」
うんうん。痛いですよね、びっくりしましたよね。
甘いかもしれないと思いつつも、私は姫さまを抱っこして差し上げる。
よかった。草の上だからお怪我はなさっていない。
ぐすぐすと泣きながら、私の頭に腕をまわす姫さま。
困りましたね。そんなにきつくしがみつかれては、ガーゼのハンカチが取りだせませんよ。
涙を拭いてさしあげられません。
こんな日常が儚くもいとおしくて、私は今日も穏やかに目を細めてしまうのだ。
【完】
「おやすみですのに、もうしわけないの?」
「え?」
くりっとした蒼い瞳で姫さまに顔を覗きこまれて、私は返答に困った。
確かに今日は川に釣りにでも行こうかと思っていた。
だが、逆に言えば釣りに行こうと思うくらい暇でもあった。
マルティナさまは眉を下げて、揃えた膝の上で小さな手をきゅっと握りしめている。
マルガレータさまも、繊細な我が子を傷つけてしまったのではと、やはり寂しげに眉を下げていらっしゃる。
「ごめんなさいね。マルティナ。お母さまは間違えてしまったわね。『お休みの日に、ありがとうございます』よね?」
うんうん、と私は頷いた。
マルティナさまは意外と繊細でいらっしゃる。その分、マルガレータさまも言葉選びに配慮なさることが多い。
親の何気ない言葉が、子どもにとっていかに重いものであるかを知っていらっしゃるからだ。
「そう、そうなの」
姫さまは、ぱあっと明るい笑顔になり「ごしょうたい、ありがとう」と仰った。
どういたしまして。ご招待されたのは私の方ですが。
申し訳ないついでだろうか。マルガレータさまは、四阿にエルダーフラワーの飲み物を二人分、差し入れてくださった。
初夏の時季に爽やかな、エルダーフラワーのコーディアルとレモンジュースを合わせた飲み物だ。
まぁ、ままごとの新酒が優先なんですが……。
「じゃあつぎは、ケーキね」
「では、頂戴いたします」
「オーブンのぐあいがよくて……なくて。やきいろがあまいかしら、でございますの」
どこで覚えたんです? その言葉。
きっと厨房で、コックやキッチンメイド達の話を聞いて覚えたんだろうな。
ん? と私は向かいに座る姫さまのお顔が気になった。
ふっくらとした頬に泥がついているではないか。
泥が乾いてしまっては、お肌を傷めてしまう。
私はガーゼのハンカチをカップの水で濡らして、柔らかな頬を拭いてさしあげた。
「んー、ちがうの。おかおじゃなくて、たべるまえに手をふくのよ」
「はいはい、拭きますよ」
「ふいてないもん」
ぷうっと頬を膨らませるマルティナさま。うむ、綺麗になった。
私は常日頃から携帯しているガーゼのハンカチを、たたんで横に置いた。
泥団子を食べる真似をすると、ようやく姫さまは満足そうに笑顔になった。
人見知りは、時期だから仕方がないし。今後は、同年代の友達と遊ぶ時間も増えることだろう。
だが、誰にも言えない本音を私は内に秘めている。
今はこうして穏やかな時間を過ごし、他愛もないままごとをして、花の美しさや鳥の鳴き声を二人で聞いていられるが。
じきに、私は置いていかれる。
そう、子どもの成長は早いのだ。
だからこそ、庭師に「付き合いがいいですねぇ」と言われても、律儀に姫さまのままごとに付き合うのだ。
いずれ、私は徐々に高くなっていく姫さまの背中ばかりを見ることになる。
クリスティアン殿下の幼い頃のことは、当然だが私は知らない。だから、殿下の背中を見続けるのは当たり前だった。
それが護衛の務めと知っているのに。なぜ、寂しいと思うのだろうな。
「あ、ケーキのおかわりがあるの、ですのよ」
「あ、姫さま。ケーキはもう……」
「だいじょうぶ。たーくさんつくったの」
姫さまは立ち上がると、一目散に走っていった。
エプロンドレスのリボンがひらひらと風になびいて、そしてそのまま姫さまは盛大に転んだ。
どさっという音。少しの沈黙の後、姫さまは立ち上がろうとなさった。
ご自分で立とうとなさるとは、感動いたしました。
だが、すぐに蒼い瞳が潤んで、か細い泣き声が聞こえてくる。姫さまは草の上にしゃがんだまま私を見上げてきた。
「う、ううっ、うぇーん」
うんうん。痛いですよね、びっくりしましたよね。
甘いかもしれないと思いつつも、私は姫さまを抱っこして差し上げる。
よかった。草の上だからお怪我はなさっていない。
ぐすぐすと泣きながら、私の頭に腕をまわす姫さま。
困りましたね。そんなにきつくしがみつかれては、ガーゼのハンカチが取りだせませんよ。
涙を拭いてさしあげられません。
こんな日常が儚くもいとおしくて、私は今日も穏やかに目を細めてしまうのだ。
【完】
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みんなの感想(121件)
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護衛が気遣いも細やかで素敵すぎる…
これは間違いなくお父様を差し置いて、マルティナちゃんに大きくなったら護衛さんと結婚するって言われちゃうのでは?
感想ありがとうございます。
まさにそうなんです、護衛さん好かれちゃう展開です。
護衛視点多いなぁ?
penpenさま、感想ありがとうございます。そうですね、子どもができてからの部分は番外編のようなものですね。
あ~、癒やされた~(^∇^)
素敵な時間をありがとうございました。
マルガレ-タとお母さんは、生まれる“国”が合ってなかったようですね。
クリスティアン殿下は、お約束の「クリス(愛称)と呼んで」をすっ飛ばして「あなたと呼んで」なんですね(笑)
マルガレ-タのことを愛称で呼ぶくらいは照れずにできるようになったんでしょうか?
二人ともピュアで、読んでる方が照れます。
王女は、無自覚な人たらしになりそう(笑)
護衛君、新たな扉を開いてしまうのかな?
王子まで人たらしになったら、使用人たちの「結婚しない率」が問題になるかも(笑)
seraiaさま、感想ありがとうございます。癒しと仰ってくださり、本当に光栄です。殿下は愛称よりも「あなた」の方が、マルガレータにとっての特別な自分を実感するのかもしれません。マルガレータのことを愛称で呼ぶ時も、たぶん照れていると思います。王女とまだ登場していない王子は、のびのび育っているので、姉弟そろって人たらしになるかと。