64 / 171
五章 女炎帝
15、商売ができない
しおりを挟む
翠鈴は悩んでいた。
夕食時なのに、食堂は空いている。
今夜の献立は、生魚片水蒸蛋という、淡水魚の雷魚を乗せた茶碗蒸しだ。それに酸っぱい漬物がついている。
「こういう温かいのが助かるよね」
隣の席に座る由由が、匙でふるるとした玉子をすくう。
「たまには魚もいいね。海が近い町だと、杷京と違って魚料理が多くなるのかな」
翠鈴は、薄く切られた雷魚の身を箸でつまんだ。
蒸してあるので、口の中で身はほろりと崩れる。葱と生姜、それに醤油とごま油の味が、淡白な雷魚によく合っている。
「しみるわー」
「翠鈴ったら、おじさんみたい」
「うっ」
(しまった。由由の前だと、つい油断して十代であることを忘れてしまう)
とはいえ、ふだんからも特に十代らしくふるまっていないのだが。翠鈴はそのことに気づいていない。
「最近、食堂に来る人が少ないよね」
由由は広い食堂を見まわした。たしかに空席が目立っている。朝も席を探すまでもなく、すぐに座れるのだ。
女官や、とくに宮女の数が減っている気がする。
侍女は変わらない。
風邪が流行っているわけでもない。宮女の宿舎で寝込んでいる人が多いわけでもない。
「人員整理でもあったのかな」
「じんいんせいり? なに、それ」
「解雇……えっと、女官や宮女を辞めさせられること。でも、未央宮は人が減らないよね」
翠鈴は腕を組んで考えた。
あまりいい兆候ではないように思えたのだ。
(もしかして光柳さまに、夜の薬売りを止められたのと関係があるのかもしれない)
――大理寺卿の陳天分が、後宮で女炎帝を名乗る薬売りを捕らえると息巻いているらしい。いいか。くれぐれもしばらくは商売をしないように。
先日。光柳は、重ねて念を押した。
――後宮の池の辺りで薬を売っているんだよな。私も夜に見回るようにするが。警備の宦官に見つかれば、君は捕まるぞ。
人の少ない食堂は、妙に冷える気がした。
◇◇◇
夜更け。翠鈴は布団の中で、まだ思案していた。
(わたしは女神なんて騙ってないのに。捕まえるとか、とんだ迷惑だわ)
捕まえる? その言葉が、空席の目立つ食堂の光景に重なった。
最近は、宮女の宿舎も静かだ。
もしかして。翠鈴は跳び起きた。
同室の由由は、もう眠りについている。彼女を起こさないように、翠鈴はそっと部屋を出た。紐で髪を結びながら。
(まさか、片っ端から夜更けに出歩く女官や宮女を捕まえているというの?)
ちょっと待ってよ。待ちなさいよ。まずいわ、それ。
心の声が焦っている。翠鈴は冷静な方だ。日頃は、取り乱すことも少ない。
なのに。動揺が収まらない。
宿舎の階段を駆け下り、廊下を走り、外に出る。
(わたしのせいで、女官や宮女に嫌疑がかけられているのなら。何とかしなければ)
夜空は雲に覆われていた。
雲の隙間から、冴えた星は覗いているが。二十八宿などの星座までは、分からない。
首もとがやけに寒い。翠鈴は、光柳にもらった圍巾を忘れたことに気づいた。
だが、部屋に戻る時間も惜しい。
後宮にある池へと走る。凍てついた風が頬を打つ。白い息が、後方へと流れていく。
肌は冷えきっているのに、体の芯が熱くなる。
池に近づくと、話し声が聞こえてきた。
(やっぱり)
嫌な予感が的中した。
翠鈴は息を整えながら、橋へと向かう。池のほとりに生えている菖蒲の葉を、何枚かちぎる。
「違います。私は女炎帝ではありません」
「誰もが否定する。今夜はお前で五人目だ」
警備の宦官だろう。威圧的は声は高めの男性のものだ。
「毎夜、毎夜。何なんだ、お前らは。薬が欲しいなら医局に行けばいいだろう。言えっ。何を企んでいる」
「いいえ、いいえ。何も知りません」
宦官に問い詰められているのは女官のようだ。否定する声が掠れている。
「ふん。大理寺に引き渡せば、素直に吐くだろう」
女官が短い悲鳴を上げた。新しい大理寺卿の噂を知っているのだろう。
翠鈴はこぶしを握りしめた。手にした菖蒲の葉が折れて、青い匂いがする。
深呼吸をして、橋を渡りはじめる。
風が吹き、水面に微かな波が立つ。
きしり、ぎしり。翠鈴が足を進めるたびに、橋面が軋んで音がした。
「なんだ。お前も……」
宦官の言葉が途切れた。ちょうど雲の切れ間から、月光がまっすぐに降りそそぐ。宦官を睨みつける翠鈴の目は、凍りつくような光を宿していた。
夕食時なのに、食堂は空いている。
今夜の献立は、生魚片水蒸蛋という、淡水魚の雷魚を乗せた茶碗蒸しだ。それに酸っぱい漬物がついている。
「こういう温かいのが助かるよね」
隣の席に座る由由が、匙でふるるとした玉子をすくう。
「たまには魚もいいね。海が近い町だと、杷京と違って魚料理が多くなるのかな」
翠鈴は、薄く切られた雷魚の身を箸でつまんだ。
蒸してあるので、口の中で身はほろりと崩れる。葱と生姜、それに醤油とごま油の味が、淡白な雷魚によく合っている。
「しみるわー」
「翠鈴ったら、おじさんみたい」
「うっ」
(しまった。由由の前だと、つい油断して十代であることを忘れてしまう)
とはいえ、ふだんからも特に十代らしくふるまっていないのだが。翠鈴はそのことに気づいていない。
「最近、食堂に来る人が少ないよね」
由由は広い食堂を見まわした。たしかに空席が目立っている。朝も席を探すまでもなく、すぐに座れるのだ。
女官や、とくに宮女の数が減っている気がする。
侍女は変わらない。
風邪が流行っているわけでもない。宮女の宿舎で寝込んでいる人が多いわけでもない。
「人員整理でもあったのかな」
「じんいんせいり? なに、それ」
「解雇……えっと、女官や宮女を辞めさせられること。でも、未央宮は人が減らないよね」
翠鈴は腕を組んで考えた。
あまりいい兆候ではないように思えたのだ。
(もしかして光柳さまに、夜の薬売りを止められたのと関係があるのかもしれない)
――大理寺卿の陳天分が、後宮で女炎帝を名乗る薬売りを捕らえると息巻いているらしい。いいか。くれぐれもしばらくは商売をしないように。
先日。光柳は、重ねて念を押した。
――後宮の池の辺りで薬を売っているんだよな。私も夜に見回るようにするが。警備の宦官に見つかれば、君は捕まるぞ。
人の少ない食堂は、妙に冷える気がした。
◇◇◇
夜更け。翠鈴は布団の中で、まだ思案していた。
(わたしは女神なんて騙ってないのに。捕まえるとか、とんだ迷惑だわ)
捕まえる? その言葉が、空席の目立つ食堂の光景に重なった。
最近は、宮女の宿舎も静かだ。
もしかして。翠鈴は跳び起きた。
同室の由由は、もう眠りについている。彼女を起こさないように、翠鈴はそっと部屋を出た。紐で髪を結びながら。
(まさか、片っ端から夜更けに出歩く女官や宮女を捕まえているというの?)
ちょっと待ってよ。待ちなさいよ。まずいわ、それ。
心の声が焦っている。翠鈴は冷静な方だ。日頃は、取り乱すことも少ない。
なのに。動揺が収まらない。
宿舎の階段を駆け下り、廊下を走り、外に出る。
(わたしのせいで、女官や宮女に嫌疑がかけられているのなら。何とかしなければ)
夜空は雲に覆われていた。
雲の隙間から、冴えた星は覗いているが。二十八宿などの星座までは、分からない。
首もとがやけに寒い。翠鈴は、光柳にもらった圍巾を忘れたことに気づいた。
だが、部屋に戻る時間も惜しい。
後宮にある池へと走る。凍てついた風が頬を打つ。白い息が、後方へと流れていく。
肌は冷えきっているのに、体の芯が熱くなる。
池に近づくと、話し声が聞こえてきた。
(やっぱり)
嫌な予感が的中した。
翠鈴は息を整えながら、橋へと向かう。池のほとりに生えている菖蒲の葉を、何枚かちぎる。
「違います。私は女炎帝ではありません」
「誰もが否定する。今夜はお前で五人目だ」
警備の宦官だろう。威圧的は声は高めの男性のものだ。
「毎夜、毎夜。何なんだ、お前らは。薬が欲しいなら医局に行けばいいだろう。言えっ。何を企んでいる」
「いいえ、いいえ。何も知りません」
宦官に問い詰められているのは女官のようだ。否定する声が掠れている。
「ふん。大理寺に引き渡せば、素直に吐くだろう」
女官が短い悲鳴を上げた。新しい大理寺卿の噂を知っているのだろう。
翠鈴はこぶしを握りしめた。手にした菖蒲の葉が折れて、青い匂いがする。
深呼吸をして、橋を渡りはじめる。
風が吹き、水面に微かな波が立つ。
きしり、ぎしり。翠鈴が足を進めるたびに、橋面が軋んで音がした。
「なんだ。お前も……」
宦官の言葉が途切れた。ちょうど雲の切れ間から、月光がまっすぐに降りそそぐ。宦官を睨みつける翠鈴の目は、凍りつくような光を宿していた。
76
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結保証】
星森 永羽
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました
ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。
ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。
王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。
そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。
「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
私と子供より、夫は幼馴染とその子供のほうが大切でした。
小野 まい
恋愛
結婚記念日のディナーに夫のオスカーは現れない。
「マリアが熱を出したらしい」
駆けつけた先で、オスカーがマリアと息子カイルと楽しげに食事をする姿を妻のエリザが目撃する。
「また裏切られた……」
いつも幼馴染を優先するオスカーに、エリザの不満は限界に達していた。
「あなたは家族よりも幼馴染のほうが大事なのね」
離婚する気持ちが固まっていく。
ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
アークライト子爵家の四歳の末娘リリアは、家族から存在しないものとして扱われていた。食事は厨房の残飯、衣服は兄姉のお下がりを更に継ぎ接ぎしたもの。冷たい床で眠る日々の中、彼女は高熱を出したことをきっかけに前世の記憶を取り戻す。
前世の彼女は、ブラック企業で過労死した経理担当のOLだった。
ある日、父の書斎に忍び込んだリリアは、ずさんな管理の家計簿を発見する。前世の知識でそれを読み解くと、父による悪質な横領と、家の財産がすでに破綻寸前であることが判明した。
「この家は、もうすぐ潰れます」
家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。
手切れ金代わりの銅貨数枚を握りしめ、自由を手に入れたリリア。これからは誰にも縛られず、前世で夢見た美味しいものをたくさん食べる生活を目指す。
あなたへの愛を捨てた日
柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。
しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。
レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。
「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」
エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。