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五章 女炎帝
14、見逃せない、とは
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「足切りという、古い時代の刑罰を蘇らせようとしたとは……。もしや大理寺の人事が代わりましたか?」
翠鈴の問いに、光柳は「分かるか」と返した。
「これまでの刑罰でしたら、流刑や笞打ちが主流ですよね。盗みでしたら、入れ墨を刺す墨刑でしょうか。足を切ろうとするなど、時代錯誤も甚だしいです」
考えるだけでも恐ろしいが。いかに罪人を苦しませて、死に至らしめるかという点に特化した時代があった。
それは見せしめも兼ねている。
「それに、大理寺は主に犯罪の調査のはずです。処罰を決定するのは刑部ですよね。領分を越えていませんか?」
「翠鈴の言うとおりだ」
光柳は翠鈴よりも刑法に関して詳しい。
遥か昔の王朝で、当たり前のように行われていた肉体を損ねる刑罰について思いだしているようだ。
その証拠に、右手で顔を覆ってうつむいてしまった。
「大理寺卿が代わったのだ。陳天分という者だ」
聞き覚えのある姓だった。
「もしや商家の陳一族の方ですか。甘露宮に陳燕という侍女がおりますが。彼女の血縁でしょうか」
光柳はうなずいた。
「陳天分は、懐古主義だ。そして加虐趣味もある」
「うわ……」
最低だわ、という言葉はかろうじて飲みこんだ。
昔を懐かしむのは陳天分の自由だ。だが、他人の体を欠損させたり、人生や命を奪う刑を蘇らせるのは違う。
「なんでそんな人事を」
「年功序列で陳天分が選ばれた。ただそれだけだ。若い者が上の者を追い越して、大理寺卿にはなれない」
もし、刑部が陳天分を止められなければ。
考えたくもなくて、翠鈴は首を振った。
「今回の人事に関して、陛下に意見していただくことはできないのですか」
翠鈴の言葉は、切羽詰まっていた。
「残念だが。杷京は以前よりも治安がよくなっているんだよ。当然だよな。どんな小さな犯罪でも、今の大理寺は見逃さない。粛清の名のもとに、国を清くしているんだ」
新杷国のためという名目があれば。陛下も無下にはできない。
しかも相手は犯罪者だ。かばう必要もない。
「あまりにも清浄すぎれば、人は生きてはいけない」
光柳の言葉は重い。
先代と今の陛下の意向とはいえ。彼は伝説の女流詩人の麟美であると、騙っているのだから。
◇◇◇
陳燕の左頬が腫れた。右の頬もまだ治っていないのに。
まだ部屋の明かりは消していないが、そろそろ就寝時間だ。
「いたっ」
口の中が切れているせいで、常に血の味がする。
手鏡を見れば、あまりにも情けない顔が映っていた。
陳燕は苛々しながら、手鏡を寝台に投げつけた。
「悔しい。なんでわたくしが叩かれなければならないの」
叔父は、陳燕が琅玕の腕輪を後宮に持ちこんでいたことに激怒した。
――これ以上、私に迷惑をかけるな。私の足を引っ張るつもりか。お前が姪でなければ、謹慎を命じるところだ。
「悪いのはわたくしじゃないわ。盗人でしょう」
そんな風に言い返せれば、よかったのに。
陳燕の翡翠を盗んだ宮女は、足の腱を切断されたという。
――盗人が足の自由を失ったのは、陳燕、お前のせいだ。琅玕が目に入らなければ、あの宮女も盗もうとは思わなかったはずだ。
「わたくしは悪くない。だって貴妃さまの侍女が、みすぼらしい格好なんてできないもの」
目の前が滲んでくる。陳燕は慌てて、手の甲で涙をぬぐった。
甘露宮では、泣くことなんてできない。他の侍女は優しいから。頼んでもいないのに親切にしてくるから。心配をかけられない。
それに最近は、仕事に来ない宮女が増えている。
病欠という話だが。風邪や他の感染症が流行っているわけでもない。
叔父に引っかけられた陳燕の足は、まだ痛むのに。侍女の担当ではない雑用まで手伝う羽目になっている。
しかも人手不足は、甘露宮だけではなさそうだ。他の妃嬪の宮でも、原因不明の病欠が増えているらしい。
蘭淑妃の住まいである未央宮の侍女は、休む宮女はいないと話していたけれど。
「女炎帝さまなら、救ってくださるのかしら」
ぽつりとこぼした言葉に、陳燕は驚いた。
信心深いわけでもない。本当に女神が降臨するなんて、信じているわけでもない。
けれど、夜更けにだけ気まぐれに現れる薬師のことは疑うことができない。
「変なの。首だけじゃなく顔にまで圍巾を巻いた女神なんて、いるわけないのに」
でも、いてほしい。
女神の正体については、考えない方がいい。その方が夢がある。いずれにせよ甘露宮の関係者ではなく、陳家につながりのない人ならば。陳燕は、誰憚ることなく悩みも苦しみも訴えることができる。
「なのに……お会いするわけにはいかない」
叔父が話していた。
宦官から、後宮に女神が現れるという噂を聞いた、と。
――どうせ浅はかな宮女が、女神を騙っているのだろう。下賤で哀れな宮女の信頼を得て、彼女らを統率しようとでも言うのか。見逃せんな。
「見逃せないって、どういう意味? 叔父さまは、何をなさろうとしているの」
背筋を悪寒が走ったのは、寒さのせいではなかった。
翠鈴の問いに、光柳は「分かるか」と返した。
「これまでの刑罰でしたら、流刑や笞打ちが主流ですよね。盗みでしたら、入れ墨を刺す墨刑でしょうか。足を切ろうとするなど、時代錯誤も甚だしいです」
考えるだけでも恐ろしいが。いかに罪人を苦しませて、死に至らしめるかという点に特化した時代があった。
それは見せしめも兼ねている。
「それに、大理寺は主に犯罪の調査のはずです。処罰を決定するのは刑部ですよね。領分を越えていませんか?」
「翠鈴の言うとおりだ」
光柳は翠鈴よりも刑法に関して詳しい。
遥か昔の王朝で、当たり前のように行われていた肉体を損ねる刑罰について思いだしているようだ。
その証拠に、右手で顔を覆ってうつむいてしまった。
「大理寺卿が代わったのだ。陳天分という者だ」
聞き覚えのある姓だった。
「もしや商家の陳一族の方ですか。甘露宮に陳燕という侍女がおりますが。彼女の血縁でしょうか」
光柳はうなずいた。
「陳天分は、懐古主義だ。そして加虐趣味もある」
「うわ……」
最低だわ、という言葉はかろうじて飲みこんだ。
昔を懐かしむのは陳天分の自由だ。だが、他人の体を欠損させたり、人生や命を奪う刑を蘇らせるのは違う。
「なんでそんな人事を」
「年功序列で陳天分が選ばれた。ただそれだけだ。若い者が上の者を追い越して、大理寺卿にはなれない」
もし、刑部が陳天分を止められなければ。
考えたくもなくて、翠鈴は首を振った。
「今回の人事に関して、陛下に意見していただくことはできないのですか」
翠鈴の言葉は、切羽詰まっていた。
「残念だが。杷京は以前よりも治安がよくなっているんだよ。当然だよな。どんな小さな犯罪でも、今の大理寺は見逃さない。粛清の名のもとに、国を清くしているんだ」
新杷国のためという名目があれば。陛下も無下にはできない。
しかも相手は犯罪者だ。かばう必要もない。
「あまりにも清浄すぎれば、人は生きてはいけない」
光柳の言葉は重い。
先代と今の陛下の意向とはいえ。彼は伝説の女流詩人の麟美であると、騙っているのだから。
◇◇◇
陳燕の左頬が腫れた。右の頬もまだ治っていないのに。
まだ部屋の明かりは消していないが、そろそろ就寝時間だ。
「いたっ」
口の中が切れているせいで、常に血の味がする。
手鏡を見れば、あまりにも情けない顔が映っていた。
陳燕は苛々しながら、手鏡を寝台に投げつけた。
「悔しい。なんでわたくしが叩かれなければならないの」
叔父は、陳燕が琅玕の腕輪を後宮に持ちこんでいたことに激怒した。
――これ以上、私に迷惑をかけるな。私の足を引っ張るつもりか。お前が姪でなければ、謹慎を命じるところだ。
「悪いのはわたくしじゃないわ。盗人でしょう」
そんな風に言い返せれば、よかったのに。
陳燕の翡翠を盗んだ宮女は、足の腱を切断されたという。
――盗人が足の自由を失ったのは、陳燕、お前のせいだ。琅玕が目に入らなければ、あの宮女も盗もうとは思わなかったはずだ。
「わたくしは悪くない。だって貴妃さまの侍女が、みすぼらしい格好なんてできないもの」
目の前が滲んでくる。陳燕は慌てて、手の甲で涙をぬぐった。
甘露宮では、泣くことなんてできない。他の侍女は優しいから。頼んでもいないのに親切にしてくるから。心配をかけられない。
それに最近は、仕事に来ない宮女が増えている。
病欠という話だが。風邪や他の感染症が流行っているわけでもない。
叔父に引っかけられた陳燕の足は、まだ痛むのに。侍女の担当ではない雑用まで手伝う羽目になっている。
しかも人手不足は、甘露宮だけではなさそうだ。他の妃嬪の宮でも、原因不明の病欠が増えているらしい。
蘭淑妃の住まいである未央宮の侍女は、休む宮女はいないと話していたけれど。
「女炎帝さまなら、救ってくださるのかしら」
ぽつりとこぼした言葉に、陳燕は驚いた。
信心深いわけでもない。本当に女神が降臨するなんて、信じているわけでもない。
けれど、夜更けにだけ気まぐれに現れる薬師のことは疑うことができない。
「変なの。首だけじゃなく顔にまで圍巾を巻いた女神なんて、いるわけないのに」
でも、いてほしい。
女神の正体については、考えない方がいい。その方が夢がある。いずれにせよ甘露宮の関係者ではなく、陳家につながりのない人ならば。陳燕は、誰憚ることなく悩みも苦しみも訴えることができる。
「なのに……お会いするわけにはいかない」
叔父が話していた。
宦官から、後宮に女神が現れるという噂を聞いた、と。
――どうせ浅はかな宮女が、女神を騙っているのだろう。下賤で哀れな宮女の信頼を得て、彼女らを統率しようとでも言うのか。見逃せんな。
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