4 / 7
4、エミリオ
しおりを挟む
目的の手芸店までは、徒歩でしばらくかかる。
フロレンシアの茶色い髪はしっとりと濡れた。
霧雨が降っているのだ。通りを歩く人は、足早に急いでいる。
「どこかで雨宿りができるところは」
フロレンシアは辺りをきょろきょろと見まわした。
「おい、あの女。貴族だろう?」
「供も連れずにいるぞ。どうしたんだ?」
酒場の軒を通りかかった時。男たちが自分のことを話していることに、フロレンシアは気づいた。
男たちは顔を見あわせ、立ちあがる。
「どうしたんだい? 一人で。迷子って歳じゃないよな」
「雨に濡れて寒いだろ。ちょっと酒でも飲んで温まらないか?」
酒臭い息を吐きながら、二人の男が近づいてきた。
(いけない。わたしが伯爵夫人とばれたら、面倒なことになるわ)
馬車を降りるのではなかった。
フロレンシアは後悔した。
けれど夫の愛人と同席することが、どうしても我慢ならなかった。
(どうすればよかったの?)
足早に酒場の前を通り過ぎるけれど。男がフロレンシアの肩を掴んだ。
「つれないなぁ。なぁ、名前くらい教えてくれよ」
言えない。バレロ伯爵家の者であると知られるわけにはいかない。貴族の女性を誘拐して、身代金を要求する事件は後を絶たないのだから。
フロレンシアは口をつぐんだ。
その態度が気に食わなかったのだろう。男が彼女のあごに手をかけて、無理に口を開かせようとした。
べたべたする指が、フロレンシアの唇を上下に開こうとする。
「やめてください」
「拒否なんて聞いてない。あんたの名前というか、夫の名前が知りてぇんだよ」
通りを歩く人たちは、遠巻きにフロレンシアを一瞥するだけだ。
面倒なことに関わりあいたくない。その態度がありありと見える。
ここはバレロ伯爵家の領地なのに。その妻が危険にさらされているというのに。
屋敷の中も外も、どこも同じだ。
フロレンシアの目に涙が溢れた。
領主の妻に暴力を働いたとあれば、ふつうは重罪だ。けれど、その領主であるディマスは妻にこれっぽちも関心がない。
雨の粒が大きくなる。
だから、足音が近づくのに気づかなかった。誰も。
「いてててっ。誰だ!」
突然、男が大声を上げた。フロレンシアのあごから、手が離れる。
滲んだ視界に、人影が見えた。
黒い髪に褐色の肌。鋭い瞳の騎士は、無礼を働く男の腕をねじり上げていた。
「名乗ってほしいのか? 騎士団の副団長、エミリオ・トルレスだ」
「トル、レス?」
「誰が、我が名を呼ぶことを許した」
エミリオの手が、男の頭を掴んで地面に押しつけた。丈の長いジャケットの裾が翻る。それほどの勢いだ。
服が濡れるのも構わずに、地面に膝をついている。
「すみ……ませ、ん」
「謝る相手を間違えている。こちらの御婦人に謝るべきだ」
地面に倒れた男は、目だけをフロレンシアの方へ向けた。残されたもう一人の男は「ひぃ」と短い悲鳴を上げて、走って逃げてしまった。
「まったく手が汚れてしまった」
エミリオは立ちあがると濡れた手を払った。
「ありがとうございます。あの、これを」
フロレンシアは礼を告げて、ハンカチを差しだした。エミリオは、そんな彼女を見て小さく吹き出した。
「あ、あの。なにかおかしいですか? 顔が汚れているのかしら」
「いや、大丈夫ですよ。フロレンシア」
敬称をつけるのを忘れてしまっていたのだろう。気づいたエミリオが遅れて「さま」とだけ呟いた。
そんな態度が可愛くて。フロレンシアは、思わず笑ってしまった。
「私はいつもあなたにハンカチを借りているな。以前のも、まだ返していないのに」
「わたしは、いつもエミリオさまに助けられています」
「助けないといけない状況ばかりなのも、どうかと思うのだが。まぁ、あなたが平気そうなら、いいかな」
倒されていた男は、よろけながらも逃げていった。
「今さら雨宿りというのも変ですが。少し付き合ってもらえませんか」
エミリオが提案したのは、ティールームだった。
しゃれた淡いミントグリーンの壁紙と、白木の腰壁。丸いテーブルには、白いクロスが掛けられている。
「ティールームに来るのは、独身の頃以来です」
「なら、よかった。申し訳ないが、ディマスはあなたを誘って出かけることもないでしょう」
エミリオが、フロレンシアの向かいの席に座る。
暖炉には火が燃えており、雨に濡れたふたりは温かな席に通された。
たっぷりの湯気の立つミルクティー。エミリオはサワーチェリーパイを、フロレンシアは悩んだ末にクリームパイを頼んだ。
運ばれてきたクリームパイを見て、フロレンシアは目を輝かせた。
自分をじっと見つめているエミリオの視線を感じて、慌ててフロレンシアは顔を上げる。
「エミリオさまは、甘いものがお好きなんですか?」
「見た目に反して、好きなんですよ。意外と作るのも得意なんですよ」
「まぁ。そうなんですか?」
使用人以外の男性が、厨房に入ると知ったフロレンシアは驚いた。
「素敵ですね。お菓子は、もう何年も口にしていません。たまに社交パーティに出ても、ろくに食べられませんし」
「それなら、いつかあなたに作ってさしあげたいですね。プディングや、メレンゲとクリームにベリーを合わせたもの。それからサブレ」
口にした言葉の意味に気づいたのだろう。
エミリオは急に黙ってしまった。
沈黙が訪れる。暖炉でパチパチと薪の燃える音が聞こえた。
「どうぞ、召しあがれ」
「あ、はい。いただきます」
クリームはこってりと甘く。ブラウンシュガーの素朴な味が口いっぱいに広がる。
二人とも言葉は少なかったが、とても優しい時間が流れていた。
フロレンシアの茶色い髪はしっとりと濡れた。
霧雨が降っているのだ。通りを歩く人は、足早に急いでいる。
「どこかで雨宿りができるところは」
フロレンシアは辺りをきょろきょろと見まわした。
「おい、あの女。貴族だろう?」
「供も連れずにいるぞ。どうしたんだ?」
酒場の軒を通りかかった時。男たちが自分のことを話していることに、フロレンシアは気づいた。
男たちは顔を見あわせ、立ちあがる。
「どうしたんだい? 一人で。迷子って歳じゃないよな」
「雨に濡れて寒いだろ。ちょっと酒でも飲んで温まらないか?」
酒臭い息を吐きながら、二人の男が近づいてきた。
(いけない。わたしが伯爵夫人とばれたら、面倒なことになるわ)
馬車を降りるのではなかった。
フロレンシアは後悔した。
けれど夫の愛人と同席することが、どうしても我慢ならなかった。
(どうすればよかったの?)
足早に酒場の前を通り過ぎるけれど。男がフロレンシアの肩を掴んだ。
「つれないなぁ。なぁ、名前くらい教えてくれよ」
言えない。バレロ伯爵家の者であると知られるわけにはいかない。貴族の女性を誘拐して、身代金を要求する事件は後を絶たないのだから。
フロレンシアは口をつぐんだ。
その態度が気に食わなかったのだろう。男が彼女のあごに手をかけて、無理に口を開かせようとした。
べたべたする指が、フロレンシアの唇を上下に開こうとする。
「やめてください」
「拒否なんて聞いてない。あんたの名前というか、夫の名前が知りてぇんだよ」
通りを歩く人たちは、遠巻きにフロレンシアを一瞥するだけだ。
面倒なことに関わりあいたくない。その態度がありありと見える。
ここはバレロ伯爵家の領地なのに。その妻が危険にさらされているというのに。
屋敷の中も外も、どこも同じだ。
フロレンシアの目に涙が溢れた。
領主の妻に暴力を働いたとあれば、ふつうは重罪だ。けれど、その領主であるディマスは妻にこれっぽちも関心がない。
雨の粒が大きくなる。
だから、足音が近づくのに気づかなかった。誰も。
「いてててっ。誰だ!」
突然、男が大声を上げた。フロレンシアのあごから、手が離れる。
滲んだ視界に、人影が見えた。
黒い髪に褐色の肌。鋭い瞳の騎士は、無礼を働く男の腕をねじり上げていた。
「名乗ってほしいのか? 騎士団の副団長、エミリオ・トルレスだ」
「トル、レス?」
「誰が、我が名を呼ぶことを許した」
エミリオの手が、男の頭を掴んで地面に押しつけた。丈の長いジャケットの裾が翻る。それほどの勢いだ。
服が濡れるのも構わずに、地面に膝をついている。
「すみ……ませ、ん」
「謝る相手を間違えている。こちらの御婦人に謝るべきだ」
地面に倒れた男は、目だけをフロレンシアの方へ向けた。残されたもう一人の男は「ひぃ」と短い悲鳴を上げて、走って逃げてしまった。
「まったく手が汚れてしまった」
エミリオは立ちあがると濡れた手を払った。
「ありがとうございます。あの、これを」
フロレンシアは礼を告げて、ハンカチを差しだした。エミリオは、そんな彼女を見て小さく吹き出した。
「あ、あの。なにかおかしいですか? 顔が汚れているのかしら」
「いや、大丈夫ですよ。フロレンシア」
敬称をつけるのを忘れてしまっていたのだろう。気づいたエミリオが遅れて「さま」とだけ呟いた。
そんな態度が可愛くて。フロレンシアは、思わず笑ってしまった。
「私はいつもあなたにハンカチを借りているな。以前のも、まだ返していないのに」
「わたしは、いつもエミリオさまに助けられています」
「助けないといけない状況ばかりなのも、どうかと思うのだが。まぁ、あなたが平気そうなら、いいかな」
倒されていた男は、よろけながらも逃げていった。
「今さら雨宿りというのも変ですが。少し付き合ってもらえませんか」
エミリオが提案したのは、ティールームだった。
しゃれた淡いミントグリーンの壁紙と、白木の腰壁。丸いテーブルには、白いクロスが掛けられている。
「ティールームに来るのは、独身の頃以来です」
「なら、よかった。申し訳ないが、ディマスはあなたを誘って出かけることもないでしょう」
エミリオが、フロレンシアの向かいの席に座る。
暖炉には火が燃えており、雨に濡れたふたりは温かな席に通された。
たっぷりの湯気の立つミルクティー。エミリオはサワーチェリーパイを、フロレンシアは悩んだ末にクリームパイを頼んだ。
運ばれてきたクリームパイを見て、フロレンシアは目を輝かせた。
自分をじっと見つめているエミリオの視線を感じて、慌ててフロレンシアは顔を上げる。
「エミリオさまは、甘いものがお好きなんですか?」
「見た目に反して、好きなんですよ。意外と作るのも得意なんですよ」
「まぁ。そうなんですか?」
使用人以外の男性が、厨房に入ると知ったフロレンシアは驚いた。
「素敵ですね。お菓子は、もう何年も口にしていません。たまに社交パーティに出ても、ろくに食べられませんし」
「それなら、いつかあなたに作ってさしあげたいですね。プディングや、メレンゲとクリームにベリーを合わせたもの。それからサブレ」
口にした言葉の意味に気づいたのだろう。
エミリオは急に黙ってしまった。
沈黙が訪れる。暖炉でパチパチと薪の燃える音が聞こえた。
「どうぞ、召しあがれ」
「あ、はい。いただきます」
クリームはこってりと甘く。ブラウンシュガーの素朴な味が口いっぱいに広がる。
二人とも言葉は少なかったが、とても優しい時間が流れていた。
722
あなたにおすすめの小説
わたくしは、すでに離婚を告げました。撤回は致しません
絹乃
恋愛
ユリアーナは夫である伯爵のブレフトから、完全に無視されていた。ブレフトの愛人であるメイドからの嫌がらせも、むしろメイドの肩を持つ始末だ。生来のセンスの良さから、ユリアーナには調度品や服の見立ての依頼がひっきりなしに来る。その収入すらも、ブレフトは奪おうとする。ユリアーナの上品さ、審美眼、それらが何よりも価値あるものだと愚かなブレフトは気づかない。伯爵家という檻に閉じ込められたユリアーナを救ったのは、幼なじみのレオンだった。ユリアーナに離婚を告げられたブレフトは、ようやく妻が素晴らしい女性であったと気づく。けれど、もう遅かった。
〖完結〗その愛、お断りします。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚して一年、幸せな毎日を送っていた。それが、一瞬で消え去った……
彼は突然愛人と子供を連れて来て、離れに住まわせると言った。愛する人に裏切られていたことを知り、胸が苦しくなる。
邪魔なのは、私だ。
そう思った私は離婚を決意し、邸を出て行こうとしたところを彼に見つかり部屋に閉じ込められてしまう。
「君を愛してる」と、何度も口にする彼。愛していれば、何をしても許されると思っているのだろうか。
冗談じゃない。私は、彼の思い通りになどならない!
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
〖完結〗愛しているから、あなたを愛していないフリをします。
藍川みいな
恋愛
ずっと大好きだった幼なじみの侯爵令息、ウォルシュ様。そんなウォルシュ様から、結婚をして欲しいと言われました。
但し、条件付きで。
「子を産めれば誰でもよかったのだが、やっぱり俺の事を分かってくれている君に頼みたい。愛のない結婚をしてくれ。」
彼は、私の気持ちを知りません。もしも、私が彼を愛している事を知られてしまったら捨てられてしまう。
だから、私は全力であなたを愛していないフリをします。
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
全7話で完結になります。
包帯妻の素顔は。
サイコちゃん
恋愛
顔を包帯でぐるぐる巻きにした妻アデラインは夫ベイジルから離縁を突きつける手紙を受け取る。手柄を立てた夫は戦地で出会った聖女見習いのミアと結婚したいらしく、妻の悪評をでっち上げて離縁を突きつけたのだ。一方、アデラインは離縁を受け入れて、包帯を取って見せた。
完結 貴方が忘れたと言うのなら私も全て忘却しましょう
音爽(ネソウ)
恋愛
商談に出立した恋人で婚約者、だが出向いた地で事故が発生。
幸い大怪我は負わなかったが頭を強打したせいで記憶を失ったという。
事故前はあれほど愛しいと言っていた容姿までバカにしてくる恋人に深く傷つく。
しかし、それはすべて大嘘だった。商談の失敗を隠蔽し、愛人を侍らせる為に偽りを語ったのだ。
己の事も婚約者の事も忘れ去った振りをして彼は甲斐甲斐しく世話をする愛人に愛を囁く。
修復不可能と判断した恋人は別れを決断した。
〖完結〗親友だと思っていた彼女が、私の婚約者を奪おうとしたのですが……
藍川みいな
恋愛
大好きな親友のマギーは、私のことを親友だなんて思っていなかった。私は引き立て役だと言い、私の婚約者を奪ったと告げた。
婚約者と親友をいっぺんに失い、失意のどん底だった私に、婚約者の彼から贈り物と共に手紙が届く。
その手紙を読んだ私は、婚約発表が行われる会場へと急ぐ。
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
前編後編の、二話で完結になります。
小説家になろう様にも投稿しています。
〖完結〗旦那様が愛していたのは、私ではありませんでした……
藍川みいな
恋愛
「アナベル、俺と結婚して欲しい。」
大好きだったエルビン様に結婚を申し込まれ、私達は結婚しました。優しくて大好きなエルビン様と、幸せな日々を過ごしていたのですが……
ある日、お姉様とエルビン様が密会しているのを見てしまいました。
「アナベルと結婚したら、こうして君に会うことが出来ると思ったんだ。俺達は家族だから、怪しまれる心配なくこの邸に出入り出来るだろ?」
エルビン様はお姉様にそう言った後、愛してると囁いた。私は1度も、エルビン様に愛してると言われたことがありませんでした。
エルビン様は私ではなくお姉様を愛していたと知っても、私はエルビン様のことを愛していたのですが、ある事件がきっかけで、私の心はエルビン様から離れていく。
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
かなり気分が悪い展開のお話が2話あるのですが、読まなくても本編の内容に影響ありません。(36話37話)
全44話で完結になります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる