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5、無理です
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冬も終わりに近づき、そろそろ春が訪れようという頃だった。
夫の愛人のイネスに子どもができた。
すでにお腹が目立っているようだ。
(では、街で具合が悪かったのは、つわりだったのですね)
フロレンシアは、覚悟はしていた気がする。裏切られたという気持ちもない。
「ああ、これで我がバレロ家にも後継者ができた」
夫のディマスは、これまで見たことがないほどに機嫌がいい。
手にはラトルと呼ばれる、おもちゃのガラガラを持っている。それとクマのぬいぐるみも。
「子供の為の部屋を用意してくれ。きっと男の子に違いない。それとイネスの部屋もだ。壁紙は花柄がいいだろう。クローゼットは大きいものを買っておくんだ。ドレスが入らないと困るだろう?」
てきぱきと使用人に指示を出す夫を、フロレンシアは呆然と眺めていた。
夫が動くたびに、ガラガラが陽気な音を立てる。
廊下に立ち尽くす名前だけの妻に、ディマスは気づいた。
「あの、イネスさんが越してくるなら、わたしはもう必要ないですね」
「は? なにを言ってるんだ。お前がイネスと生まれてくる子供の世話をするんだ」
ディマスは素っ頓狂な声を出した。
「ですが、イネスさんを妻になさるのでしょう?」
「それは無理だ。親戚連中が平民を妻にするのは認めない。だが、生まれてくる子はぼくの血を引いている。お前が義母となればいい。当然、イネスはこの館で暮らすから、彼女の面倒も見てやってくれ。赤ん坊の世話もな」
なにを言っているのか。
フロレンシアは頭の中が真っ白になった。
用済みであるなら、さっさと離縁すればいいのに。下級とはいえ、仮にも貴族の出であるだけでフロレンシアを手放そうとはしない。
「子供がいれば楽しいぞ。イネスは美人だからな。さぞや美しい男の子だろう」
「楽しい? あなたはそうでしょうね」
自分にとっては、苦しみが増すばかりなのに。
きっと愛人もその子供も、フロレンシアのことをバカにする。
する必要のない雑用は増え、いじめてくる人数が増えるだけだ。
「失礼」
突然、背後から声が聞こえた。
低い声は、まるで怒りを抑えているかのようだ。けれど、それがエミリオの声であると、すぐに分かった。
「どうした? エミリオ。今日は護衛はないぞ」
「バレロ伯爵。話があります」
「なんだ? エミリオ」
ふり返ったディマスは上機嫌だ。
「今日を限りに、私はバレロ伯爵の護衛を辞退します。これは騎士団長の意向でもあります」
「は? なんでだ」
突然の申し出に、ディマスは手にしていたガラガラを振っていた。
ガラガラガラ。楽しそうな音が、空虚な廊下に響く。
「えっと、王族の護衛が忙しいからか? ならば、しばらくは依頼を控えてもいい」
「いいえ。違います」
「だが、来月にはぼくは隣国へ行くんだ。供だけでは不安だ。ほら、ぼくを嫌っている輩は多いだろう? 君も知っているはずだ」
「自業自得ですね」
応じるエミリオの声は冷たい。
部屋の改装のために集められていた使用人たちが、そろってディマスとエミリオに注目する。
立ったままする話ではない。廊下でする話ではない。
家令が慌てて応接室へと勧めるが、エミリオは首を振った。
「交換条件といきましょう。護衛が欲しいのでしたら、騎士見習いでしたら用意できます。大丈夫です、剣の稽古はしている者ばかりですから」
「バカにするなっ」
ガシャン、とディマスがガラガラを廊下に叩きつけた。
廊下を転がっていくおもちゃが、ころ……ころ、と虚しい音を立てる。
「我が騎士団は、紳士でなければ護りません」
「ぼくは紳士だ。伯爵なのだからな」
「そうですか。あなたはご自分を『紳士』と思ってるんですね。紳士は妻を、ゴミのように扱いません。使用人に見下された妻をかばうことなく、自分は愛人と遊んでいる。愛人が妻の馬車を奪っても、咎めもしない。それが、あなたにとっては紳士の振る舞いなのですね」
「わかったぞ」
ぎりっと、ディマスが歯ぎしりをする。
周囲を取り巻く使用人は、誰も言葉を発しない。
ディマスは、持っていたクマのぬいぐるみを投げつけた。フロレンシアの顔に向けて。
ぽすん、と軽い音を立ててぬいぐるみが落ちる。
エミリオの、腕に当たったのだ。
まるで護衛するかのように、エミリオがフロレンシアの前に立っていた。
「そうだ。お前がエミリオをそそのかしたんだろう。色仕掛けでエミリオを誘ったんだな」
「バカですか、あんたは」
拾ったぬいぐるみを、エミリオは投げつけた。
バスッと激しい音がして、ディマスの顔面にクマが直撃した。
まるで石を投げられたかのように、ディマスはよろけて尻もちをついた。
「離縁だ。こんな妻はいらない。ぼくにはイネスがいるんだ、子供も生まれるんだ。きっと愛があれば、身分差など乗り越えられる」
怒鳴るディマスの言葉に重なって、階下からドアベルの鳴る音が聞こえた。
夫の愛人のイネスに子どもができた。
すでにお腹が目立っているようだ。
(では、街で具合が悪かったのは、つわりだったのですね)
フロレンシアは、覚悟はしていた気がする。裏切られたという気持ちもない。
「ああ、これで我がバレロ家にも後継者ができた」
夫のディマスは、これまで見たことがないほどに機嫌がいい。
手にはラトルと呼ばれる、おもちゃのガラガラを持っている。それとクマのぬいぐるみも。
「子供の為の部屋を用意してくれ。きっと男の子に違いない。それとイネスの部屋もだ。壁紙は花柄がいいだろう。クローゼットは大きいものを買っておくんだ。ドレスが入らないと困るだろう?」
てきぱきと使用人に指示を出す夫を、フロレンシアは呆然と眺めていた。
夫が動くたびに、ガラガラが陽気な音を立てる。
廊下に立ち尽くす名前だけの妻に、ディマスは気づいた。
「あの、イネスさんが越してくるなら、わたしはもう必要ないですね」
「は? なにを言ってるんだ。お前がイネスと生まれてくる子供の世話をするんだ」
ディマスは素っ頓狂な声を出した。
「ですが、イネスさんを妻になさるのでしょう?」
「それは無理だ。親戚連中が平民を妻にするのは認めない。だが、生まれてくる子はぼくの血を引いている。お前が義母となればいい。当然、イネスはこの館で暮らすから、彼女の面倒も見てやってくれ。赤ん坊の世話もな」
なにを言っているのか。
フロレンシアは頭の中が真っ白になった。
用済みであるなら、さっさと離縁すればいいのに。下級とはいえ、仮にも貴族の出であるだけでフロレンシアを手放そうとはしない。
「子供がいれば楽しいぞ。イネスは美人だからな。さぞや美しい男の子だろう」
「楽しい? あなたはそうでしょうね」
自分にとっては、苦しみが増すばかりなのに。
きっと愛人もその子供も、フロレンシアのことをバカにする。
する必要のない雑用は増え、いじめてくる人数が増えるだけだ。
「失礼」
突然、背後から声が聞こえた。
低い声は、まるで怒りを抑えているかのようだ。けれど、それがエミリオの声であると、すぐに分かった。
「どうした? エミリオ。今日は護衛はないぞ」
「バレロ伯爵。話があります」
「なんだ? エミリオ」
ふり返ったディマスは上機嫌だ。
「今日を限りに、私はバレロ伯爵の護衛を辞退します。これは騎士団長の意向でもあります」
「は? なんでだ」
突然の申し出に、ディマスは手にしていたガラガラを振っていた。
ガラガラガラ。楽しそうな音が、空虚な廊下に響く。
「えっと、王族の護衛が忙しいからか? ならば、しばらくは依頼を控えてもいい」
「いいえ。違います」
「だが、来月にはぼくは隣国へ行くんだ。供だけでは不安だ。ほら、ぼくを嫌っている輩は多いだろう? 君も知っているはずだ」
「自業自得ですね」
応じるエミリオの声は冷たい。
部屋の改装のために集められていた使用人たちが、そろってディマスとエミリオに注目する。
立ったままする話ではない。廊下でする話ではない。
家令が慌てて応接室へと勧めるが、エミリオは首を振った。
「交換条件といきましょう。護衛が欲しいのでしたら、騎士見習いでしたら用意できます。大丈夫です、剣の稽古はしている者ばかりですから」
「バカにするなっ」
ガシャン、とディマスがガラガラを廊下に叩きつけた。
廊下を転がっていくおもちゃが、ころ……ころ、と虚しい音を立てる。
「我が騎士団は、紳士でなければ護りません」
「ぼくは紳士だ。伯爵なのだからな」
「そうですか。あなたはご自分を『紳士』と思ってるんですね。紳士は妻を、ゴミのように扱いません。使用人に見下された妻をかばうことなく、自分は愛人と遊んでいる。愛人が妻の馬車を奪っても、咎めもしない。それが、あなたにとっては紳士の振る舞いなのですね」
「わかったぞ」
ぎりっと、ディマスが歯ぎしりをする。
周囲を取り巻く使用人は、誰も言葉を発しない。
ディマスは、持っていたクマのぬいぐるみを投げつけた。フロレンシアの顔に向けて。
ぽすん、と軽い音を立ててぬいぐるみが落ちる。
エミリオの、腕に当たったのだ。
まるで護衛するかのように、エミリオがフロレンシアの前に立っていた。
「そうだ。お前がエミリオをそそのかしたんだろう。色仕掛けでエミリオを誘ったんだな」
「バカですか、あんたは」
拾ったぬいぐるみを、エミリオは投げつけた。
バスッと激しい音がして、ディマスの顔面にクマが直撃した。
まるで石を投げられたかのように、ディマスはよろけて尻もちをついた。
「離縁だ。こんな妻はいらない。ぼくにはイネスがいるんだ、子供も生まれるんだ。きっと愛があれば、身分差など乗り越えられる」
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