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二章
3、目を輝かせるから
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朱鷺子さんの話を、深雪はとても喜んだ。
俺が婚約者であることは、当初不満そうやったけど。
「朱鷺子先生が選んだ人でしたら、仕方ありません」と、渋々認めたみたいや。
えらい上からやな。なんで深雪に許可されなあかんねん。
けど「おふたりの馴れ初めを教えてください」とせがまれるのは、難儀した。
親同士が決めた婚約者やと言うても、深雪は納得してくれへん。
「また、いつかな。俺の気が向いたらな」
「約束ですよ。のらりくらりとかわさないでくださいね」
深雪は小指を伸ばして、俺と約束を交わそうとする。意外としつこいで、この子。
日ごとに夏が深まり、木下闇がいっそう濃くなってゆく。俺は毎日のように、朱鷺子さんとの思い出話を聞かせてやった。
水の匂いのする小川の側での螢狩り。草むらに明滅する淡い緑の光を楽しんでいたのに。
集まってくる蚊のせいで、くるぶしの辺りがかゆくて困ったこと。
「蚊に噛まれてしもた。参ったな」と俺の言葉に、朱鷺子さんは目を丸くする。
「歯のある蚊がいるんですか?」
「え? 言わへんか? 蚊に噛まれるって……ああ、関西弁か」
朱鷺子さんの言葉は、訛ってへんかった。
俺は今でも、蚊に刺されることを噛まれるって言うてしまう。言葉は、簡単には直せへんよな。
「今度からは蚊遣りを持ってきましょうね」
「持ち運びできるやろか」
「そこは創意と工夫ですよ」
せやなぁ。朱鷺子さんなら、ブタの蚊遣りを提げてきそうや。
早朝に咲く蓮の花は、ぽんと音を立てて開くと聞けば、ふたりで見に行った。
むしろ確かめに行ったという方が正しいかもしれへん。
まだ夜も明けやらぬ内に、池のほとりで座って待っていたこともある。
「絶対に見に行きましょうね」と約束したのは朱鷺子さんの方なのに。家に迎えに行けば、とろんと眠そうな目で門の前で座りこんでいる。
目当ての蓮池に着いてからも、朱鷺子さんはうつらうつらしつつ、俺の肩に頭をもたれかけるから。どこかに腰を下ろした方がええんやろか。立っとって足を滑らせたら危ないし、と迷っとったら。
気ぃついたら、蓮の花は開いてしもてた。
果たしてぽん、という音がしたのかどうか。定かやない。
菜の花や月は東に日は西に、と与謝蕪村が詠んだんと同じように麻耶山に登り。眼下に広がるいちめんの菜の花と暮れる夕陽、昇る満月を眺めたこともある。
黄色い菜種は夕日に染まり、街は菜の花に包まれているようやった。
山ではひらひらと蝶が戯れるように飛んでいた。
この蝶にも菜の花畠が見えるんやろか。
俺の話すひとつひとつを、深雪は目を輝かせて聞いている。それはまるでかつての鈴之介のようだった。
――ええなぁ。ぼくも行きたかったです。いちめんの菜の花、この目で見てみたいやないですか。
――体力をつけたら鈴之介でも丈夫やろ。筆よりも重いものは持てへんという体力やったら、山道も苦しいやろ。
――そうですね。ぼくも壮大な風景を描いてみたいですからね。虚弱やなんてゆうてられません。兄さんみたいに頑丈になりますよ。
鈴之介は決意を込めたようにうなずいた。
まぁ、山を登るには駕籠もあるけどな。若い者が乗るにはちと恥ずかしい。
それにゆっくりと休み休みではあるが、朱鷺子さんでも歩いて登れたんや。
俺は深雪には楽しい話ばかりを聞かせた。
彼女はそれを望んでいたから。
けど、さすがに馴れ初めは恥ずかしいから、よう聞かせへん。まぁ、深雪もそのうち忘れてくれるやろ。
見ているだけで目が痛くなるほどに、庭はまばゆい。対して、縁側と庭を望む朱鷺子さんの部屋は仄暗くて涼しい。
しゃわしゃわと近くで蟬が鳴く。目を眇めて見れば、前栽の木の幹にぱっくりと背中を開いた空蟬がしがみついとう。
いつしか庭の朱欒は白い花を散らしていた。
季節外れの粒雪のように。
静かで心弾む話ばかりをするこの時間を、俺はいつしかたいそう気に入っていた。
ナイルの箱から、煙草を一本取りだしてそしてまた箱へとしまう。
深雪はちらっと硝子でできた灰皿へと目を向けるが、結局燐寸すら擦らない俺に灰皿を渡すことはなかった。
◇◇◇
朱鷺子先生は長いお出かけなのかしら。全然お家に戻っていらっしゃらないの。
けれど銀之丈さんとの日々は、ゆるやかに過ぎてゆきます。
わたしははたきを手に、お部屋のお掃除をするのが日課になりました。
雑巾がけはしなくてもよいということなので(そんな中途半端なお掃除でいいのかしら)はたきと箒で簡単にお掃除は終わります。
庭草は茫々に伸び、木々の枝に茂る葉から朝露がしたたれば、草はそれを受けとめかねて水晶の粒を地面へとこぼします。
吹きはじめた海風に、さぁぁと草が揺れると、それはもう煌めくばかりの露が散らばって。
お庭の草ですのに、まるで異国の平原のよう。
朱鷺子先生はいつもこんな綺麗な光景を見ていらしたのね、とうっとりと嘆息を洩らすのです。
先生がいらっしゃらなくても、お借りしている寝間着をまとうとほんのりと白粉のような天花粉のような良い香りがするのです。
銀之丈さんも「ああ、朱鷺子さんが帰って来たかのようや」と柔らかく微笑んでくださるの。
「先生はいつお戻りになるんですか?」と尋ねても「さぁな」とはぐらかされるばかりで。本当に困ってしまいます。
俺が婚約者であることは、当初不満そうやったけど。
「朱鷺子先生が選んだ人でしたら、仕方ありません」と、渋々認めたみたいや。
えらい上からやな。なんで深雪に許可されなあかんねん。
けど「おふたりの馴れ初めを教えてください」とせがまれるのは、難儀した。
親同士が決めた婚約者やと言うても、深雪は納得してくれへん。
「また、いつかな。俺の気が向いたらな」
「約束ですよ。のらりくらりとかわさないでくださいね」
深雪は小指を伸ばして、俺と約束を交わそうとする。意外としつこいで、この子。
日ごとに夏が深まり、木下闇がいっそう濃くなってゆく。俺は毎日のように、朱鷺子さんとの思い出話を聞かせてやった。
水の匂いのする小川の側での螢狩り。草むらに明滅する淡い緑の光を楽しんでいたのに。
集まってくる蚊のせいで、くるぶしの辺りがかゆくて困ったこと。
「蚊に噛まれてしもた。参ったな」と俺の言葉に、朱鷺子さんは目を丸くする。
「歯のある蚊がいるんですか?」
「え? 言わへんか? 蚊に噛まれるって……ああ、関西弁か」
朱鷺子さんの言葉は、訛ってへんかった。
俺は今でも、蚊に刺されることを噛まれるって言うてしまう。言葉は、簡単には直せへんよな。
「今度からは蚊遣りを持ってきましょうね」
「持ち運びできるやろか」
「そこは創意と工夫ですよ」
せやなぁ。朱鷺子さんなら、ブタの蚊遣りを提げてきそうや。
早朝に咲く蓮の花は、ぽんと音を立てて開くと聞けば、ふたりで見に行った。
むしろ確かめに行ったという方が正しいかもしれへん。
まだ夜も明けやらぬ内に、池のほとりで座って待っていたこともある。
「絶対に見に行きましょうね」と約束したのは朱鷺子さんの方なのに。家に迎えに行けば、とろんと眠そうな目で門の前で座りこんでいる。
目当ての蓮池に着いてからも、朱鷺子さんはうつらうつらしつつ、俺の肩に頭をもたれかけるから。どこかに腰を下ろした方がええんやろか。立っとって足を滑らせたら危ないし、と迷っとったら。
気ぃついたら、蓮の花は開いてしもてた。
果たしてぽん、という音がしたのかどうか。定かやない。
菜の花や月は東に日は西に、と与謝蕪村が詠んだんと同じように麻耶山に登り。眼下に広がるいちめんの菜の花と暮れる夕陽、昇る満月を眺めたこともある。
黄色い菜種は夕日に染まり、街は菜の花に包まれているようやった。
山ではひらひらと蝶が戯れるように飛んでいた。
この蝶にも菜の花畠が見えるんやろか。
俺の話すひとつひとつを、深雪は目を輝かせて聞いている。それはまるでかつての鈴之介のようだった。
――ええなぁ。ぼくも行きたかったです。いちめんの菜の花、この目で見てみたいやないですか。
――体力をつけたら鈴之介でも丈夫やろ。筆よりも重いものは持てへんという体力やったら、山道も苦しいやろ。
――そうですね。ぼくも壮大な風景を描いてみたいですからね。虚弱やなんてゆうてられません。兄さんみたいに頑丈になりますよ。
鈴之介は決意を込めたようにうなずいた。
まぁ、山を登るには駕籠もあるけどな。若い者が乗るにはちと恥ずかしい。
それにゆっくりと休み休みではあるが、朱鷺子さんでも歩いて登れたんや。
俺は深雪には楽しい話ばかりを聞かせた。
彼女はそれを望んでいたから。
けど、さすがに馴れ初めは恥ずかしいから、よう聞かせへん。まぁ、深雪もそのうち忘れてくれるやろ。
見ているだけで目が痛くなるほどに、庭はまばゆい。対して、縁側と庭を望む朱鷺子さんの部屋は仄暗くて涼しい。
しゃわしゃわと近くで蟬が鳴く。目を眇めて見れば、前栽の木の幹にぱっくりと背中を開いた空蟬がしがみついとう。
いつしか庭の朱欒は白い花を散らしていた。
季節外れの粒雪のように。
静かで心弾む話ばかりをするこの時間を、俺はいつしかたいそう気に入っていた。
ナイルの箱から、煙草を一本取りだしてそしてまた箱へとしまう。
深雪はちらっと硝子でできた灰皿へと目を向けるが、結局燐寸すら擦らない俺に灰皿を渡すことはなかった。
◇◇◇
朱鷺子先生は長いお出かけなのかしら。全然お家に戻っていらっしゃらないの。
けれど銀之丈さんとの日々は、ゆるやかに過ぎてゆきます。
わたしははたきを手に、お部屋のお掃除をするのが日課になりました。
雑巾がけはしなくてもよいということなので(そんな中途半端なお掃除でいいのかしら)はたきと箒で簡単にお掃除は終わります。
庭草は茫々に伸び、木々の枝に茂る葉から朝露がしたたれば、草はそれを受けとめかねて水晶の粒を地面へとこぼします。
吹きはじめた海風に、さぁぁと草が揺れると、それはもう煌めくばかりの露が散らばって。
お庭の草ですのに、まるで異国の平原のよう。
朱鷺子先生はいつもこんな綺麗な光景を見ていらしたのね、とうっとりと嘆息を洩らすのです。
先生がいらっしゃらなくても、お借りしている寝間着をまとうとほんのりと白粉のような天花粉のような良い香りがするのです。
銀之丈さんも「ああ、朱鷺子さんが帰って来たかのようや」と柔らかく微笑んでくださるの。
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