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二章
3、夜の訪問者
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数日後の夜は雨が降っていた。女官の宿舎の屋根を雨は叩き、閉じた紙窓からも湿気が部屋に入り込んでくる。
「そろそろ寝ないと」
瑞雪は灯していた油灯を吹き消し、簡素な寝台に腰を下ろした。今日も葉青のために薬膳料理を作ってきたので、さすがに疲れている。
その時だ。窓に何かが当たったのは。
最初は雨音かと思った、けれど明らかに音が違う。トントンと再び音がする。
「何事なの?」
まるで誰かが窓を叩いているようだ。寝間着を着ている瑞雪は、恐る恐る窓を開いた。雨混じりの風が、ゆるく結んだ瑞雪の髪をなぶる。顔に水しぶきがかからぬように、手を覆いにする。
「夏瑞雪、一大事だ。外に出てこられるか」
紙窓を叩いていたのは厳星宇だった。傘もささずにびしょ濡れのまま、闇夜の中に立ち尽くしている。すでに瑞雪の部屋の明かりは消している、他の女官の部屋も紙窓を通す光は乏しく暗い。
黒い服を着ているのもあり、闇に溶け込んでいるのに。星宇はその名の通り、ささやかな星の光をまとっているかのように思えた。
「どうしたんですか?」
皇帝の文護に何かあったのか? いや、異常があったとして薬命司にそれを知らせる理由はない。
「もしかして葉青さまに何か?」
どくん、と心臓が嫌な鼓動を刻む。
軒の下に入った星宇は、ようやく雨から逃れることができた。前髪からしずくを垂らしながら、星宇は沈鬱に眉を顰める。
「南葉青さまが毒を食べて苦しんでおられる。今日の昼食は君が担当したのだろう?」
「そうですけど……」
瑞雪の声は上ずった。窓の桟にかけた手は震えている。
今日の昼食には鶏ガラでとった出汁を使い、海老の羹を作った。海老は体を温め、血流も良くなる。眩暈やふらつきにも効果がある。
羹はとろみをつけた汁なので、葉青も食べやすいと話していた。特に昨日からは天候が悪く、夏でも冷たい風が吹いているので温かいものを喜んでくれた。
金銭草を煎じたお茶が効能が多い上に、葉青のような虚弱体質にもいいので用意しようかと考えたのだが。葉青は冷え性でもあるし、金銭草を使うのはやめた。青紫の花をつける金銭草の禁忌は妊婦や冷え性でもある。
慎重に食材を選んだのだ。葉青にとって毒になるようなものは、使っていない。
「葉青さまは夕食は何をお召し上がりになりましたか?」
瑞雪は早口で問いかけた。
「香辛料をまぶして焼いた羊肉だそうだ。ただ、一口食べただけで、他は粥しか口にしなかったと侍女が話していた」
「星宇さんがわざわざ南邸に行ったんですか?」
「あ、ああ。明日は葉青さまが陛下と謁見なさるのだが。それを中止したいと連絡があった」
星宇は口ごもりながら答えた。
延期ではなく中止……それは簡単には体調が戻らないことが前提ではないか?
「羊肉でしたら、使う香辛料は馬芹ですね。西の地方でよく使用される香辛料で、薬にもなります」
馬芹は過剰摂取はいけないが、一口食べた程度では問題はない。
「今は医者に診てもらっているようだ。瑞雪どの、できれば明日にも葉青さまの様子を見てきてもらえないか? 私も陛下の供として赴く予定だ」
「はい」と瑞雪は身を乗り出して答えた。
本当は今すぐにでも葉青の元に駆けつけたい。けれど、夜間に自分が南邸に通してもらえるはずがない。
瑞雪は部屋に据えられた棚から手巾を取り出した。それを星宇の頭にかけてあげる。
星宇は驚いたように瞠目した。まだ手巾の端を持つ瑞雪の手に、濡れた星宇の指が触れそうになる。
けれど、そのまま星宇は手を引いた。夜雨のせいだろうか、ためらいがちな瞳が潤んでいる。
「ありがとう。だが、戻る時にまた濡れる」と、星宇は手巾を返そうとする。
「わたしの傘を貸しますから、差していってください」
武官であれば雨に降られることなど慣れているだろう、護衛ならばなおさらだ。なのに、なぜだろう。星宇には濡れてほしくないように思えたのだ。
「ではこの手巾だけお借りする。次に会った時に返却しよう」
片手を上げて星宇は去っていった。
星も月もない闇の中、星宇の後ろ姿はすぐに見えなくなる。
(ああ、そうか。初めて星宇さんと会った時、まだ雨が降り始めだったのに傘を差していたから。だから雨に濡れてほしくないって思ったんだ)
瑞雪は窓を閉めた。とたんに雨の音が小さくなる。
今は葉青のことが一番だ。
「そろそろ寝ないと」
瑞雪は灯していた油灯を吹き消し、簡素な寝台に腰を下ろした。今日も葉青のために薬膳料理を作ってきたので、さすがに疲れている。
その時だ。窓に何かが当たったのは。
最初は雨音かと思った、けれど明らかに音が違う。トントンと再び音がする。
「何事なの?」
まるで誰かが窓を叩いているようだ。寝間着を着ている瑞雪は、恐る恐る窓を開いた。雨混じりの風が、ゆるく結んだ瑞雪の髪をなぶる。顔に水しぶきがかからぬように、手を覆いにする。
「夏瑞雪、一大事だ。外に出てこられるか」
紙窓を叩いていたのは厳星宇だった。傘もささずにびしょ濡れのまま、闇夜の中に立ち尽くしている。すでに瑞雪の部屋の明かりは消している、他の女官の部屋も紙窓を通す光は乏しく暗い。
黒い服を着ているのもあり、闇に溶け込んでいるのに。星宇はその名の通り、ささやかな星の光をまとっているかのように思えた。
「どうしたんですか?」
皇帝の文護に何かあったのか? いや、異常があったとして薬命司にそれを知らせる理由はない。
「もしかして葉青さまに何か?」
どくん、と心臓が嫌な鼓動を刻む。
軒の下に入った星宇は、ようやく雨から逃れることができた。前髪からしずくを垂らしながら、星宇は沈鬱に眉を顰める。
「南葉青さまが毒を食べて苦しんでおられる。今日の昼食は君が担当したのだろう?」
「そうですけど……」
瑞雪の声は上ずった。窓の桟にかけた手は震えている。
今日の昼食には鶏ガラでとった出汁を使い、海老の羹を作った。海老は体を温め、血流も良くなる。眩暈やふらつきにも効果がある。
羹はとろみをつけた汁なので、葉青も食べやすいと話していた。特に昨日からは天候が悪く、夏でも冷たい風が吹いているので温かいものを喜んでくれた。
金銭草を煎じたお茶が効能が多い上に、葉青のような虚弱体質にもいいので用意しようかと考えたのだが。葉青は冷え性でもあるし、金銭草を使うのはやめた。青紫の花をつける金銭草の禁忌は妊婦や冷え性でもある。
慎重に食材を選んだのだ。葉青にとって毒になるようなものは、使っていない。
「葉青さまは夕食は何をお召し上がりになりましたか?」
瑞雪は早口で問いかけた。
「香辛料をまぶして焼いた羊肉だそうだ。ただ、一口食べただけで、他は粥しか口にしなかったと侍女が話していた」
「星宇さんがわざわざ南邸に行ったんですか?」
「あ、ああ。明日は葉青さまが陛下と謁見なさるのだが。それを中止したいと連絡があった」
星宇は口ごもりながら答えた。
延期ではなく中止……それは簡単には体調が戻らないことが前提ではないか?
「羊肉でしたら、使う香辛料は馬芹ですね。西の地方でよく使用される香辛料で、薬にもなります」
馬芹は過剰摂取はいけないが、一口食べた程度では問題はない。
「今は医者に診てもらっているようだ。瑞雪どの、できれば明日にも葉青さまの様子を見てきてもらえないか? 私も陛下の供として赴く予定だ」
「はい」と瑞雪は身を乗り出して答えた。
本当は今すぐにでも葉青の元に駆けつけたい。けれど、夜間に自分が南邸に通してもらえるはずがない。
瑞雪は部屋に据えられた棚から手巾を取り出した。それを星宇の頭にかけてあげる。
星宇は驚いたように瞠目した。まだ手巾の端を持つ瑞雪の手に、濡れた星宇の指が触れそうになる。
けれど、そのまま星宇は手を引いた。夜雨のせいだろうか、ためらいがちな瞳が潤んでいる。
「ありがとう。だが、戻る時にまた濡れる」と、星宇は手巾を返そうとする。
「わたしの傘を貸しますから、差していってください」
武官であれば雨に降られることなど慣れているだろう、護衛ならばなおさらだ。なのに、なぜだろう。星宇には濡れてほしくないように思えたのだ。
「ではこの手巾だけお借りする。次に会った時に返却しよう」
片手を上げて星宇は去っていった。
星も月もない闇の中、星宇の後ろ姿はすぐに見えなくなる。
(ああ、そうか。初めて星宇さんと会った時、まだ雨が降り始めだったのに傘を差していたから。だから雨に濡れてほしくないって思ったんだ)
瑞雪は窓を閉めた。とたんに雨の音が小さくなる。
今は葉青のことが一番だ。
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