白苑後宮の薬膳女官

絹乃

文字の大きさ
20 / 32
二章

5、侵入

しおりを挟む
星宇シンユィさん。あなたは陛下を護らなくていいの?」

 門の外に残されたのは、星宇と瑞雪、そして三人の轎夫きょうふだ。

「大丈夫ですよ、薬命司さん。陛下と中に入られたのは侍衛親軍しえいしんぐんの護衛ですから」
「陛下は外出時には護衛を二人伴っているんです。大げさにならぬよう、一人は輿を担ぐのですが」

 輿の周囲に立つ男性たちが説明する。
 そうか、相手を警戒していると悟られぬよう、一見すると護衛に見えぬようふるまっているのか。瑞雪は納得した。

璠瑞雪ファンルイシュエ。我らも行くぞ」

 星宇が瑞雪の本名を呼ぶ。その横顔は触れると指が切れそうに鋭い空気を纏っていた。

「行くっていっても。門を開けてもらえないわ」
「こちらからなら入れる」

 星宇が指さす先には、ただ高い塀が続いている。もしかすると裏門を使うのだろうか。裏門番はおらずともきっと閂が掛かっている、外から開けるのは難しいだろうに。
 長い塀沿いに進む星宇の後を、瑞雪は追う。

 ようやく角を曲がったところで、星宇は立ち止まった。そこに門扉などないのに、彼の身長よりも高い塀を見上げている。

「口を開くなよ。舌を噛むからな」
「え?」

 少し腰を屈めると、星宇の腕が瑞雪の腰にまわった。そして膝を屈める。

「しっかりつかまっていろ」

 たくましい左腕だけで抱えられた瑞雪は、突然足が道から離れた。体が浮いている、地面が遠い。

 ふわりと宙に浮いた星宇は、塀の上部の瓦屋根に降り立った。重さを感じさせぬ動きだ、瓦は音もしない。腰に佩びた蟒の翡翠の房が、風を受けてそよいでいる。

 どういうこと? なんでこんな跳躍力が?
 こんな……こんな跳び方を人はしない。助走もつけずに、身の丈よりも高い塀に跳ぶなんて、まるで——

 瑞雪の目には南邸の庭と離れが映った。渡り廊下は見えないし、池も木に隠れている。

「ここからならクソ親父にばれずに、離れに忍び込める」
「待って、ちょっと訳が分からなくて」
「しゃべるな、もう一度跳ぶぞ」

 星宇にまるで荷物のように抱えられたまま、瑞雪は塀の屋根から離れた。髪が風にあおられ、悲鳴を上げようにも声がかすれて出てこない。

 草の生えた地面が近づいてくる。星宇は庭に降り立った。彼の脇に抱えられた瑞雪には衝撃も何も伝わってこない。ただ踏みつけられた夏草の青臭さを感じた。池で飼っている観賞用の魚が跳ねた。

「歩けるか? 離れへ向かうぞ」
「は、はい」

 さすが護衛というべきか。星宇の行動は速い。
 木の茂みに翳った離れの裏手には、ドクダミが白い花を群れ咲かせていた。一歩進むたびに生臭いドクダミの匂いがして、星宇は手で鼻を押さえている。「この匂いはいかん」と呟きながら。

 離れにはすでに文護と葉青の父親が到着していた。池に面した正面の隔扇門窗かくせんもんそうが開かれているので、声だけは聞こえる。
 木立に隠れている瑞雪からは中を伺うことはできないが、どうやら寝台に伏した葉青が、文護に謝っているようだ。

「陛下のご紹介でしたから、あの薬命司を信用したというのに。粗野で、お嬢さまをすぐにお庭に連れ出すから困っていたのですよ」
「ソンウー、やめて。ルイシュエさんは何もわるくないわ」

 文護ウェンフーに訴える侍女の宋舞を、葉青が止めている。葉青の声に力はない。

「いいえ、お嬢さま。薬命司をかばう必要はございません。昨夜はあんなにも具合が悪くていらっしゃったじゃないですか。あの女がお嬢さまを陥れようとしたのです」

 まくし立てる宋舞の金切り声が響いている。瑞雪は両手で耳をふさぎたくなった。
 自分を信頼してくれた葉青を苦しい目に遭わせるなんて。

「星宇さん。わたしは戻ります。葉青さまには後で謝罪の手紙を書きますから。皆さんに許してもらえるかは分かりませんが」

 小さな声で言うと、瑞雪は裏門に向かって歩き始めた。そこから外に出られるはずだ。
 葉青イェチンが瑞雪をかばう声が微かに聞こえてくる。父親が「陛下もあの薬命司にいいように騙され利用されたのでしょう」と、さも文護を思いやるような言い方も。

(ごめんなさい、叔母さま。ダメでした、わたしではダメなんです)

 薬命司と叔母の名誉を回復するという目的の優先順位が低くなってしまったからだろうか。まるで普通の女官のように、人と関わり誰かの役に立てるという喜びが勘を鈍らせてしまったのだろうか。
 葉青と奥の宮で暮らす紅梅。二人の信頼を得て、調子に乗ってしまっていたのかもしれない。

(尚食の一桐イートンさまに、心配をかけてしまう)

 瑞雪は歩みを止めた。後ろをついてくる星宇が、瑞雪の肩に手をかけたからだ。

「このまま尻尾を巻いて逃げるのか? 璠欣然ファンシンランとの約束を果たさぬままでよいのか」

 ——お願い、瑞雪。どうか薬命司の名誉を取り戻して。

 星宇の言葉に、欣然の切なる訴えが重なった。

「……どうしてあなたが叔母さまのことを知っているの?」

 瑞雪は尋ねた。
 星宇と出会ったのは、つい最近のことだ。国外追放になる日の叔母との約束を知っているのは、叔母の友人である斉一桐チィーイートンだけ。

 星宇は小さく息をつくと、自身の懐に手を入れた。中から小さな紙片を取り出して、それを瑞雪に渡す。
 小さな穴が空いた紙は汚れ、端がぼろぼろだ。

「これって、天雷ティエンレイが体に隠していたのと同じ紙?」

 瑞雪は恐る恐る紙片を開いた。中には小さな文字がびっしりと並んでいる。毛筆で書かれたものではない、おそらくは細い竹の端を削って筆の代わりにしたものだろう。

 ——便りをありがとう、瑞雪。幼いあなたに重責を背負わせてしまい、今は心苦しく思っています。いつか必ず私は戻ります。その時は互いに笑顔で会いましょう。天雷が無事であなたの元へ戻ることを願っています。

 叔母だ。間違いなく、叔母の字だ。叔母の言葉だ。
 紙を持つ瑞雪の指が震える。

「欣然殿は南国で暮らしていると知っているな?」

 瑞雪はこくりとうなずいた。

「寒さに凍えることも飢えることもないのだが。かの地は湿地や水場が多く、蚊が発生しやすい。蚊は死に至る病を運ぶ」

 南方に生息する蚊の危険性は周知している。
 けれど、まるで見てきたように星宇は語った。それを不思議に思わないではなかったが、瑞雪は叔母の様子が目に浮かぶようだった。
 家は簡素で、屋根は乾燥させた棕櫚しゅろの葉で葺いているかもしれない。

「叔母さまは、蚊から身を守ることはできているの? 対策はとってらっしゃるの?」

 こくりと星宇はうなずいた。

「欣然殿は、水が停滞した場所にボウフラが湧くので、常に水を流すように心がけておられた」

 確かにそうだ。北方に位置する伊河の城市≪まち≫ですら、ほんの少し水がたまった場所でも、ボウフラがうじゃうじゃと集まる。南方ならばなおさらのこと。

『ボウフラを放置すれば蚊が大発生するのよ。蚊が運ぶ病気は多いの。だから水を捨てたり流したりすることで病気が防げる。これも已病いびょうになる前の対策ね』

 子供だった瑞雪は、叔母と一緒に桶に入れたきれいな水で澱みを流した。

「叔母さまなら、メダカを飼ってるかもしれませんね」と、瑞雪は呟いた。
 メダカはボウフラを餌にする。しかもメダカは小さな幸せを運ぶ象徴でもあるのだから。

「詳しいな。確かにメダカが泳いでいたな。さらに蚊の嫌う植物と、海星ひとでを砕いたものを撒いておられた」

 あれはとにかく臭かった、と星宇は眉をしかめて首を振った。

 海星——そうだ、海辺で漁師たちが網にかかった魚の残骸を置いておくと、すぐに虫や獣が寄ってくるのに、網に海星も入っていると虫や獣が寄ってこないと聞いたことがある。
 何の成分が効いているのか知らないが、叔母はその知識を活用しているのだ。

「あとは天井から漁網のようなものを吊るし、その中で眠っておいでだった。現地の住民も欣然殿を頼って蚊よけのすべを教えてもらっていた」

 不思議だ。葉青にも会わせてもらえず惨めに身を隠しているのに。星宇の話が諦めるなと背を押してくれる。

 きっと星宇は実際に南国を見たのだろう、叔母に会ったのだろう。叔母ならば、蚊を避けるために何重にも予防を重ねるはずだから。
 場所は変われど、職業も家族も失おうと、欣然は薬草と予防の知識で新しい生活になじんでいる。
 ふっと瑞雪は笑みをこぼした。

(さすがだわ。さすがはわたしの叔母さまよ)

 死を運ぶ虫と叔母は戦っている。ならば自分が挫けるわけにはいかない。毒を以て人を陥れる、姿を見せぬ敵と戦うしかない。

「星宇さん……いいえ、天雷。あなたがわたしの手紙を届けてくれたのね。叔母さまの元へ行くために、姿を消したのね」

 長く危険な旅路の果てに、天雷は戻ってきてくれたのだ。

 ——てんはとても上手に化ける。

 葉青が見せてくれた『岷国図経みんこくずきょう』に書かれていた文章を思い出す。猫の鳴き声すらも模倣できる天雷だ、人に擬態もできる才があったのだろう。

「天雷、ありがとう。わたしの手紙を叔母さまに届けてくれて」

 瑞雪は星宇にそう告げた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

後宮の偽花妃 国を追われた巫女見習いは宦官になる

gari@七柚カリン
キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く ☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。  そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。  心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。  峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。  仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。

【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?

旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】 佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。 新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。 「せめて回復魔法とかが良かった……」 戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。 「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」 家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。 「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」 そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。 絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。 これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。

香死妃(かしひ)は香りに埋もれて謎を解く 

液体猫
キャラ文芸
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞受賞しました(^_^)/  香を操り、死者の想いを知る一族がいる。そう囁かれたのは、ずっと昔の話だった。今ではその一族の生き残りすら見ず、誰もが彼ら、彼女たちの存在を忘れてしまっていた。  ある日のこと、一人の侍女が急死した。原因は不明で、解決されないまま月日が流れていき……  その事件を解決するために一人の青年が動き出す。その過程で出会った少女──香 麗然《コウ レイラン》──は、忘れ去られた一族の者だったと知った。  香 麗然《コウ レイラン》が後宮に現れた瞬間、事態は動いていく。  彼女は香りに秘められた事件を解決。ついでに、ぶっきらぼうな青年兵、幼い妃など。数多の人々を無自覚に誑かしていった。  テンパると田舎娘丸出しになる香 麗然《コウ レイラン》と謎だらけの青年兵がダッグを組み、数々の事件に挑んでいく。  後宮の闇、そして人々の想いを描く、後宮恋愛ミステリーです。  シリアス成分が少し多めとなっています。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃
キャラ文芸
12月26日よりコミカライズ開始。 旧題:後宮の隠れ薬師は、ため息をつく~花果根茎に毒は有り~ 陸翠鈴(ルーツイリン)は年をごまかして、後宮の宮女となった。姉の仇を討つためだ。薬師なので薬草と毒の知識はある。だが翠鈴が後宮に潜りこんだことがばれては、仇が討てなくなる。翠鈴は目立たぬように司燈(しとう)の仕事をこなしていた。ある日、桃莉(タオリィ)公主に毒が盛られた。幼い公主を救うため、翠鈴は薬師として動く。力を貸してくれるのは、美貌の宦官である松光柳(ソンクアンリュウ)。翠鈴は苦しむ桃莉公主を助け、犯人を見つけ出す。※中国の複数の王朝を参考にしているので、制度などはオリジナル設定となります。 ※第7回キャラ文芸大賞、後宮賞を受賞しました。ありがとうございます。

【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?

アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。 泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。 16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。 マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。 あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に… もう…我慢しなくても良いですよね? この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。 前作の登場人物達も多数登場する予定です。 マーテルリアのイラストを変更致しました。

三年の想いは小瓶の中に

月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。 ※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。

妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?

木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。 彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。 公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。 しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。 だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。 二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。 彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。 ※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。

処理中です...