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三章
3、掌膳の女官たち
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瑞雪は尚食局の廊下を走った。
廊下の紙窓は閉じられたままで辺りは薄暗い。厨房で火を使う前に急がなければ。
すでに文護は朝食を終えているはず。まだ執務の時間にはなっていないので、勉強をしているかもしれない。
根拠は、星宇が文護の供をして出かける様子がなかったからだ。
勉強の休憩時間に、掌膳は皇帝に菓子を届ける。その菓子に毒の実を盛られるかもしれない。
(莨菪の実。あれは藍苺にそっくりだから)
莨菪はヒヨスとも呼ばれ、毒でもあり薬でもある下品だ。全草が猛毒であり扱いが難しいので、璠家では取り扱っていない。
その青紫の実は、岷国でも藍苺と誤食して死者が出ることがある。
藍苺は熟し具合によっては酸っぱく渋いものがある。莨菪の実を瑞雪は勿論食べたことはないが、甘みがあると聞く。毒はあれども、動物の中には莨菪の実を食しても平気なものもいる。
だから人も山野でその実をつまんで口に入れるのだ。
(若い頃の宋舞さんは死には至らなかったけれど、単に摂取量が少なかっただけだわ)
そう、叔母が作った杏仁汁粉に添えていた藍苺の中に、ほんの少し莨菪を紛れさせていた。調理中ではない、汁粉が叔母の手を離れてから毒の実は混入されたのだ。
掌膳が使用する厨房の扉は開いていた。
「すみません! 孫時宜さんは」
声を張り上げて飛び込んできた瑞雪に、口元を覆う布と圍裙をつけた女官たちが一斉に振り返る。
調理台に上には粉が入ったであろう袋が置いてあり、鶏卵も籠に入っている。これから菓子を作るところのようだ。
「何よ、陛下にお届けするお菓子を作るんだから、邪魔しないでちょうだい」
女官たちの奥から時宜が現れた。やはり口覆いと圍裙をつけ、腰に手を当てて瑞雪を睨みつけた。
「何の菓子を作るんですか? もしかして藍苺を用いるのでは」
「確かに藍苺の小甜餅だけど。なんでそんなことを知ってるの?」
小甜餅は、さくさくとした甘い焼き菓子だ。時宜は調理台に置いてある器を指さした。そこには干した藍苺が入れてある。瑞雪は息を呑んだ。
あの藍苺に、莨菪の実を混入させるに違いない。
今年は夏が寒く、藍苺はまだ青紫に熟していない。そして莨菪は晩秋に熟すのでまだ早い。だからこそ干した藍苺を用意したのでは?
嫌な予感に、どくどくと瑞雪の心臓が音を立てる。
昨年の藍苺と莨菪。どちらも干してしまえば、さらに見分けがつかなくなる。
それでも毒見に分かるように印さえつけておけば、安全な藍苺の載った小甜餅を毒見が食べれば。皇帝に毒を食べさせることができる。
白苑後宮で食材を管理し、毒であることを秘して調達できるのはただ一人。
そう、主席女官の尚食である斉一桐だ。
(一桐さまが皇后の侍女であった宋舞さんに毒を盛ったんだわ)
瑞雪は、自分の血の気が引く音を聞いた。
一桐は若き宋舞を殺害まではしなかった。なぜなら叔母の欣然を失脚させるのが目的であったから。
瑞雪が健康管理を任された葉青、その父親は瑞雪が璠家の人間であることを知っていた。宋舞から聞いたとも。
そしてこの白苑後宮で瑞雪の本名を知っており、宋舞ともつながりがあるのも斉一桐のみ。尚食は皇后の食事も管理し、掌膳に調理させているのだから——
瑞雪はてのひらに爪が食い込むほどに、こぶしを握りしめた。頭痛がする。こめかみの血管が脈打っているのが自分でも分かる。
騙された悔しさと、大好きな叔母を罠にかけられた怒りと。激情が、嵐のように瑞雪の中で渦巻いている。
なぜ一桐さまが、叔母さまを欺いた? 親友なのに。叔母さまの処刑を止めるよう嘆願してくれたのに。
あの優しさも寛容でおおらかなところも、瑞雪を可愛がってくれたことも、叔母と親しかったことも、すべてが嘘だった。演技だった。
笑顔の裏で、どうやって叔母を謀略にかけようか機会を窺っていたのか。
(わたしを薬命司として推してくれたのも、自身の近くに置いて見張るためか)
処刑はされなかったけれど。笞打ちも国外追放も死と隣り合わせの刑だ。
なぜ一桐が親友である欣然に罪を被せておきながら、減刑を嘆願したのか理解できない。したくもない。
けれど今度こそ阻止してみせる。
「調理を中断してください!」と瑞雪は叫んだ。だが女官たちはぽかんとした表情を浮かべるだけだ。
そうか、薬命司の言葉では信用できないんだ。瑞雪は奥歯を噛みしめた。
だが事は一刻を争う。南邸を追い出された宋舞が、生薬を過剰に使用するよう指示したのが一桐であるとどこかで吹聴する可能性があるからだ。
すでに宋舞は南家の当主には訴えたかもしれない。だが、今の瑞雪と同じように宋舞の言葉も聞き流されたとも考えられる。
「皆、いったん手を止めて。私の指示があるまで調理を進めないでちょうだい」
びりりと空気を震わせるほどに時宜の声がまっすぐに響いた。「はい」と、女官たちが声を揃えて返事する。
まさか時宜が味方をしてくれるなんて。
「……時宜さん。すごいですね」
「あなた、私のことをどう思っていたのよ」
瑞雪のひたいが急に痛んだ。さらにその一点が熱を持つ。時宜の指に弾かれていたのだ。デコピンなんて人生初だ。
「とにかく外へ。伝えたいことがあるんです」
瑞雪は時宜の腕を掴んで廊下に出ようとした。幸いなことに時宜は素直に従ってくれた。
だが、そこまでだった。
「おやおや、どうしたのです。皆さん、手を止めたりして」
斉一桐が掌膳の厨房にやって来たのだ。貫禄のある一桐の言葉に、女官たちは「すみません」と再び調理を始める。
ダメだ。このままでは藍苺の中に猛毒の莨菪を混入されてしまう。
毒見なら、食べていい小甜餅の目印を聞いているはず。瑞雪は室内を見回した。
「珍しいですね、瑞雪さん。あなたは他の部署には近づかなかったのに」
ねっとりとした一桐の視線が、瑞雪を舐める。
疑われてはいけない。一桐は瑞雪を子供の頃から知っている。ほんの少しの違和感にも気づくだろう。
何を言えばごまかせる? 瑞雪のうなじを汗が伝った。
「すみません。猫が入り込んで食材を盗んだようで、足りなくなったんです。時宜さんに頼んで分けていただこうかと思って」
とっさに出た嘘だった。一桐はまっすぐに瑞雪を見据えてくる。
目を逸らすな、息を呑むな。これまで一桐さまとの対話でわたしは緊張を見せたことなどないのだから。
「まーぁ、いけませんよ。瑞雪。あなたはすぐに窓を開けっぱなしにするんですから」
「返す言葉もありません」
いつもの瑞雪のように恐縮して見せる。頭を下げて、申し訳なさそうに。
「ところで何を盗られたのかしら?」
にっこりと微笑む一桐の口元は、鎌の刃のように見えた。
廊下の紙窓は閉じられたままで辺りは薄暗い。厨房で火を使う前に急がなければ。
すでに文護は朝食を終えているはず。まだ執務の時間にはなっていないので、勉強をしているかもしれない。
根拠は、星宇が文護の供をして出かける様子がなかったからだ。
勉強の休憩時間に、掌膳は皇帝に菓子を届ける。その菓子に毒の実を盛られるかもしれない。
(莨菪の実。あれは藍苺にそっくりだから)
莨菪はヒヨスとも呼ばれ、毒でもあり薬でもある下品だ。全草が猛毒であり扱いが難しいので、璠家では取り扱っていない。
その青紫の実は、岷国でも藍苺と誤食して死者が出ることがある。
藍苺は熟し具合によっては酸っぱく渋いものがある。莨菪の実を瑞雪は勿論食べたことはないが、甘みがあると聞く。毒はあれども、動物の中には莨菪の実を食しても平気なものもいる。
だから人も山野でその実をつまんで口に入れるのだ。
(若い頃の宋舞さんは死には至らなかったけれど、単に摂取量が少なかっただけだわ)
そう、叔母が作った杏仁汁粉に添えていた藍苺の中に、ほんの少し莨菪を紛れさせていた。調理中ではない、汁粉が叔母の手を離れてから毒の実は混入されたのだ。
掌膳が使用する厨房の扉は開いていた。
「すみません! 孫時宜さんは」
声を張り上げて飛び込んできた瑞雪に、口元を覆う布と圍裙をつけた女官たちが一斉に振り返る。
調理台に上には粉が入ったであろう袋が置いてあり、鶏卵も籠に入っている。これから菓子を作るところのようだ。
「何よ、陛下にお届けするお菓子を作るんだから、邪魔しないでちょうだい」
女官たちの奥から時宜が現れた。やはり口覆いと圍裙をつけ、腰に手を当てて瑞雪を睨みつけた。
「何の菓子を作るんですか? もしかして藍苺を用いるのでは」
「確かに藍苺の小甜餅だけど。なんでそんなことを知ってるの?」
小甜餅は、さくさくとした甘い焼き菓子だ。時宜は調理台に置いてある器を指さした。そこには干した藍苺が入れてある。瑞雪は息を呑んだ。
あの藍苺に、莨菪の実を混入させるに違いない。
今年は夏が寒く、藍苺はまだ青紫に熟していない。そして莨菪は晩秋に熟すのでまだ早い。だからこそ干した藍苺を用意したのでは?
嫌な予感に、どくどくと瑞雪の心臓が音を立てる。
昨年の藍苺と莨菪。どちらも干してしまえば、さらに見分けがつかなくなる。
それでも毒見に分かるように印さえつけておけば、安全な藍苺の載った小甜餅を毒見が食べれば。皇帝に毒を食べさせることができる。
白苑後宮で食材を管理し、毒であることを秘して調達できるのはただ一人。
そう、主席女官の尚食である斉一桐だ。
(一桐さまが皇后の侍女であった宋舞さんに毒を盛ったんだわ)
瑞雪は、自分の血の気が引く音を聞いた。
一桐は若き宋舞を殺害まではしなかった。なぜなら叔母の欣然を失脚させるのが目的であったから。
瑞雪が健康管理を任された葉青、その父親は瑞雪が璠家の人間であることを知っていた。宋舞から聞いたとも。
そしてこの白苑後宮で瑞雪の本名を知っており、宋舞ともつながりがあるのも斉一桐のみ。尚食は皇后の食事も管理し、掌膳に調理させているのだから——
瑞雪はてのひらに爪が食い込むほどに、こぶしを握りしめた。頭痛がする。こめかみの血管が脈打っているのが自分でも分かる。
騙された悔しさと、大好きな叔母を罠にかけられた怒りと。激情が、嵐のように瑞雪の中で渦巻いている。
なぜ一桐さまが、叔母さまを欺いた? 親友なのに。叔母さまの処刑を止めるよう嘆願してくれたのに。
あの優しさも寛容でおおらかなところも、瑞雪を可愛がってくれたことも、叔母と親しかったことも、すべてが嘘だった。演技だった。
笑顔の裏で、どうやって叔母を謀略にかけようか機会を窺っていたのか。
(わたしを薬命司として推してくれたのも、自身の近くに置いて見張るためか)
処刑はされなかったけれど。笞打ちも国外追放も死と隣り合わせの刑だ。
なぜ一桐が親友である欣然に罪を被せておきながら、減刑を嘆願したのか理解できない。したくもない。
けれど今度こそ阻止してみせる。
「調理を中断してください!」と瑞雪は叫んだ。だが女官たちはぽかんとした表情を浮かべるだけだ。
そうか、薬命司の言葉では信用できないんだ。瑞雪は奥歯を噛みしめた。
だが事は一刻を争う。南邸を追い出された宋舞が、生薬を過剰に使用するよう指示したのが一桐であるとどこかで吹聴する可能性があるからだ。
すでに宋舞は南家の当主には訴えたかもしれない。だが、今の瑞雪と同じように宋舞の言葉も聞き流されたとも考えられる。
「皆、いったん手を止めて。私の指示があるまで調理を進めないでちょうだい」
びりりと空気を震わせるほどに時宜の声がまっすぐに響いた。「はい」と、女官たちが声を揃えて返事する。
まさか時宜が味方をしてくれるなんて。
「……時宜さん。すごいですね」
「あなた、私のことをどう思っていたのよ」
瑞雪のひたいが急に痛んだ。さらにその一点が熱を持つ。時宜の指に弾かれていたのだ。デコピンなんて人生初だ。
「とにかく外へ。伝えたいことがあるんです」
瑞雪は時宜の腕を掴んで廊下に出ようとした。幸いなことに時宜は素直に従ってくれた。
だが、そこまでだった。
「おやおや、どうしたのです。皆さん、手を止めたりして」
斉一桐が掌膳の厨房にやって来たのだ。貫禄のある一桐の言葉に、女官たちは「すみません」と再び調理を始める。
ダメだ。このままでは藍苺の中に猛毒の莨菪を混入されてしまう。
毒見なら、食べていい小甜餅の目印を聞いているはず。瑞雪は室内を見回した。
「珍しいですね、瑞雪さん。あなたは他の部署には近づかなかったのに」
ねっとりとした一桐の視線が、瑞雪を舐める。
疑われてはいけない。一桐は瑞雪を子供の頃から知っている。ほんの少しの違和感にも気づくだろう。
何を言えばごまかせる? 瑞雪のうなじを汗が伝った。
「すみません。猫が入り込んで食材を盗んだようで、足りなくなったんです。時宜さんに頼んで分けていただこうかと思って」
とっさに出た嘘だった。一桐はまっすぐに瑞雪を見据えてくる。
目を逸らすな、息を呑むな。これまで一桐さまとの対話でわたしは緊張を見せたことなどないのだから。
「まーぁ、いけませんよ。瑞雪。あなたはすぐに窓を開けっぱなしにするんですから」
「返す言葉もありません」
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