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第一章 誰が駒鳥を隠したか
【001】夜明け色の魔女
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魔女とは、魔法という奇跡を扱う者である。
聖女とは、奇跡という魔法を扱う者である。
その力は強大で、その力は不可思議だ。
だから愛し子たちは、神から授かったその力を、嘘に用いてはならない。
『――確かにそう。魔女は魔法で嘘を吐いてはいけない。でもね、悪いんだけど……あたし、嘘つきなの』
夜明け色の嘘つき魔女は、そう言って世界に嘘を吐く。
◆ ■ ◆ ■ ◆ ■ ◆ ■
大きくも小さくもない、どこにでもありそうな農村から伸びる森の小道を進むと、青空が広く見えるぽっかりとひらけた空間に辿り着く。そこには、多種多様な薬草とこの地域で一般的に食べられている野菜の育つ庭があり、中央付近には木と石で組まれた何の変哲もない家が建っていた。
――ガコッ。
そんな何の変哲もない家の、食材であふれた薄暗いパントリーに陣取り、床に置かれた大きな木箱を開けた女がひとり。
女は夕焼けのような赤い髪と、夜から朝に移り変わる間の夜明け色――あえて宝石で例えるのならばアメトリン――の瞳を持っていた。
華奢な身体を覆うのは真っ黒で簡素なワンピースで、それには生成りの麻糸で編まれたクロッシェ・レースがいくつか縫い付けられている。そこに真っ黒な三角帽子を被ったのなら、おとぎ話や児童小説に出てきそうな、年頃の見習い魔女といった雰囲気になるだろう。
「うー……」
肩までのストレートヘアを片手で弄りながら整った顔をしかめ、狭いパントリーの天井に唸り声が届く。
ここが街であるのなら、今は昼の十一回目の鐘がなるであろう頃。高くなる太陽に焦りつつ、来客をもてなすための昼食メニューに頭を悩ませているのだ。
パントリーを出た先のダイニングテーブルの上には、一通の手紙。それは五日前に届いた訪問の伺いで、記された宛名は「魔女カサンドラ」。
最近になって庶民層にも出回り始めた植物紙を用いた手紙は、近隣の町にある役場から届いたものである。
公的な組織に所属していない魔女は、居住する地の管理者から、状況確認の人員が定期的に送られてくる。固く言うのなら監査官だが、実態はただの御機嫌伺いだったり御用聞きだったり。魔女の意思を尊重し、希望に寄り添った快適さを提供することによって、魔女が土地を離れることを抑止する、国主や領主による努力の賜物だ。
そもそも魔女とは、不思議な色の瞳を持ち、常人の持ちえぬ魔法の力をふるう女――稀に男――のことを指す。
奇跡は魔女によって様々で、過去や未来を覗く者がいれば、神の声を聞く者もいる。
ちなみに、宗教組織――周辺国一帯で国教として扱われているため、単に神殿と呼ぶことが多い――に所属する魔女は聖女と呼ばれるが、存在としてはまったく同じものである。
元々、魔法という奇跡の力をふるう女たちのことは全員が聖女と呼ばれていた。しかし百年以上の昔、神殿が所属する聖女を信者に特別視させるため、神殿に関わりのない聖女を魔女と呼ばせることにしたのが始まりだ。
それと同時に、奇跡の独占を目論んだ神殿は在野の魔女を異端に認定し、積極的に信者に迫害させた。後に魔女狩りと呼ばれるようになった悲劇である。
神殿による迫害に激しく抗った先達の魔女たちと、そんな魔女たちの祈りを聴き届けた神により、結果的に魔女の地位が劇的に向上することになったのだった。
愛し子である魔女の意思を尊重するべし、と神は言った。
同時に、魔女は人の秩序に寄り添うべし、と神は言った。
神殿を嫌った魔女たちは、神殿から見た異端の証――魔女と言う呼び名を誇りとした。
だから神殿に所属していれば聖女で、そうでなければ魔女という括りは、魔女狩りの歴史を風化させないためにも残されているのだという。
今の世を生きる、夜明け色の瞳を持つ若き魔女――カサンドラはその恩恵を存分に受け、人心を脅かさないように心がけている。
そういった経緯で定期的に訪れる担当監査官は、今は町で孫と暮らす魔女の師が、この森の家に住んでいた頃からの付き合いである。その当時から監査に来るというよりは、祖母の親戚が遊びに来るような感覚で迎えていた。
そんな身近な感覚の客とはいえ、魔女として迎えるのに雑なものを出すのはプライドが許さない。ひとりの時は作りおきの野菜スープとチーズ、保存の利く堅い黒パンという定番メニューで済ませているからこそ。
だがしかし、前もって白パンを焼いておくのをうっかり忘れてしまっていたので、やわらかいパンを出せないのが現実なのである。村のパン焼き日はちょうど昨日だったというのに、実に惜しいことをした。焼いたばかりの黒パンをサンドイッチに使っても良いかもしれないが――魔女のもてなしとしては物足りない。
「うーん、ピタパンならフライパンですぐに焼けるから、ピタパンサンドにしようかな……そのぶん中身を奮発してー……」
――ガコン。
木箱からいくつかの食料を取り出してからしっかりと蓋を閉め、木箱の四隅に「イス」の魔術文字が青色に淡く光っていることを確認する。ついでに棚からピクルスの瓶を回収し、カサンドラはパントリーを後にした。
発酵をじっくりと待つ時間が無いため、種なしの配合で小麦を捏ね、濡れ布巾を掛けて少し寝かせる。
その間に、外のプランターから香草と野菜を収穫し、水で洗浄しておく。水を切り、摘んできた香草――バジルに付着している水気を布巾で軽く拭いながら、誰に聞かせる予定のない言葉が零れ落ちた。
「せっかくピタサンドにするのなら、辛いソースでケバブサンドぽくしたいのに……そもそもベーコンが具材でケバブもなにもないけど。あー、唐辛子とかトマトとか欲しいー」
この周辺地域で一般的に知られていない植物を懐かしむカサンドラには、日本で二十年生きていた女の記憶がある。
その女の名は「笠渡恵麻」。
恵麻は相談女にひっかかって浮気をした恋人の腹を全力で殴り、その足でバイト先に向かっていたごく普通の大学生だった。
日本で過ごしていた頃の最後の記憶は、自動車の急ブレーキ音で終わっている。つまりは、ハンドル操作を誤った車に轢かれて、そのまま死んだらしい。
不孝をしてしまい、親には申し訳ないと思っている。しかし、その感情に長々と浸り続けるのが難しい程度には、既に短くない時間が過ぎていた。
恵麻の知る限り、この世界に転生したのは十年前。
死んだ女の意識は、当時十歳の少女であった「エマ」の身体にひっかかり、その中で五年ほどを夢現の狭間で過ごした。そして五年前、十五歳になったエマの心はとある事件によって粉々に砕かれ、身体の主導権を恵麻に渡して目覚めぬ眠りについた。
恵麻は、エマの心を壊した状況から逃れるために、エマの名を隠すことにした。同時に、同じ響きを持つ恵麻という名も。
だからそれ以来、恵麻は自らの名もエマの名も心の奥底に沈めたまま、「カサンドラ」として生きている。
聖女とは、奇跡という魔法を扱う者である。
その力は強大で、その力は不可思議だ。
だから愛し子たちは、神から授かったその力を、嘘に用いてはならない。
『――確かにそう。魔女は魔法で嘘を吐いてはいけない。でもね、悪いんだけど……あたし、嘘つきなの』
夜明け色の嘘つき魔女は、そう言って世界に嘘を吐く。
◆ ■ ◆ ■ ◆ ■ ◆ ■
大きくも小さくもない、どこにでもありそうな農村から伸びる森の小道を進むと、青空が広く見えるぽっかりとひらけた空間に辿り着く。そこには、多種多様な薬草とこの地域で一般的に食べられている野菜の育つ庭があり、中央付近には木と石で組まれた何の変哲もない家が建っていた。
――ガコッ。
そんな何の変哲もない家の、食材であふれた薄暗いパントリーに陣取り、床に置かれた大きな木箱を開けた女がひとり。
女は夕焼けのような赤い髪と、夜から朝に移り変わる間の夜明け色――あえて宝石で例えるのならばアメトリン――の瞳を持っていた。
華奢な身体を覆うのは真っ黒で簡素なワンピースで、それには生成りの麻糸で編まれたクロッシェ・レースがいくつか縫い付けられている。そこに真っ黒な三角帽子を被ったのなら、おとぎ話や児童小説に出てきそうな、年頃の見習い魔女といった雰囲気になるだろう。
「うー……」
肩までのストレートヘアを片手で弄りながら整った顔をしかめ、狭いパントリーの天井に唸り声が届く。
ここが街であるのなら、今は昼の十一回目の鐘がなるであろう頃。高くなる太陽に焦りつつ、来客をもてなすための昼食メニューに頭を悩ませているのだ。
パントリーを出た先のダイニングテーブルの上には、一通の手紙。それは五日前に届いた訪問の伺いで、記された宛名は「魔女カサンドラ」。
最近になって庶民層にも出回り始めた植物紙を用いた手紙は、近隣の町にある役場から届いたものである。
公的な組織に所属していない魔女は、居住する地の管理者から、状況確認の人員が定期的に送られてくる。固く言うのなら監査官だが、実態はただの御機嫌伺いだったり御用聞きだったり。魔女の意思を尊重し、希望に寄り添った快適さを提供することによって、魔女が土地を離れることを抑止する、国主や領主による努力の賜物だ。
そもそも魔女とは、不思議な色の瞳を持ち、常人の持ちえぬ魔法の力をふるう女――稀に男――のことを指す。
奇跡は魔女によって様々で、過去や未来を覗く者がいれば、神の声を聞く者もいる。
ちなみに、宗教組織――周辺国一帯で国教として扱われているため、単に神殿と呼ぶことが多い――に所属する魔女は聖女と呼ばれるが、存在としてはまったく同じものである。
元々、魔法という奇跡の力をふるう女たちのことは全員が聖女と呼ばれていた。しかし百年以上の昔、神殿が所属する聖女を信者に特別視させるため、神殿に関わりのない聖女を魔女と呼ばせることにしたのが始まりだ。
それと同時に、奇跡の独占を目論んだ神殿は在野の魔女を異端に認定し、積極的に信者に迫害させた。後に魔女狩りと呼ばれるようになった悲劇である。
神殿による迫害に激しく抗った先達の魔女たちと、そんな魔女たちの祈りを聴き届けた神により、結果的に魔女の地位が劇的に向上することになったのだった。
愛し子である魔女の意思を尊重するべし、と神は言った。
同時に、魔女は人の秩序に寄り添うべし、と神は言った。
神殿を嫌った魔女たちは、神殿から見た異端の証――魔女と言う呼び名を誇りとした。
だから神殿に所属していれば聖女で、そうでなければ魔女という括りは、魔女狩りの歴史を風化させないためにも残されているのだという。
今の世を生きる、夜明け色の瞳を持つ若き魔女――カサンドラはその恩恵を存分に受け、人心を脅かさないように心がけている。
そういった経緯で定期的に訪れる担当監査官は、今は町で孫と暮らす魔女の師が、この森の家に住んでいた頃からの付き合いである。その当時から監査に来るというよりは、祖母の親戚が遊びに来るような感覚で迎えていた。
そんな身近な感覚の客とはいえ、魔女として迎えるのに雑なものを出すのはプライドが許さない。ひとりの時は作りおきの野菜スープとチーズ、保存の利く堅い黒パンという定番メニューで済ませているからこそ。
だがしかし、前もって白パンを焼いておくのをうっかり忘れてしまっていたので、やわらかいパンを出せないのが現実なのである。村のパン焼き日はちょうど昨日だったというのに、実に惜しいことをした。焼いたばかりの黒パンをサンドイッチに使っても良いかもしれないが――魔女のもてなしとしては物足りない。
「うーん、ピタパンならフライパンですぐに焼けるから、ピタパンサンドにしようかな……そのぶん中身を奮発してー……」
――ガコン。
木箱からいくつかの食料を取り出してからしっかりと蓋を閉め、木箱の四隅に「イス」の魔術文字が青色に淡く光っていることを確認する。ついでに棚からピクルスの瓶を回収し、カサンドラはパントリーを後にした。
発酵をじっくりと待つ時間が無いため、種なしの配合で小麦を捏ね、濡れ布巾を掛けて少し寝かせる。
その間に、外のプランターから香草と野菜を収穫し、水で洗浄しておく。水を切り、摘んできた香草――バジルに付着している水気を布巾で軽く拭いながら、誰に聞かせる予定のない言葉が零れ落ちた。
「せっかくピタサンドにするのなら、辛いソースでケバブサンドぽくしたいのに……そもそもベーコンが具材でケバブもなにもないけど。あー、唐辛子とかトマトとか欲しいー」
この周辺地域で一般的に知られていない植物を懐かしむカサンドラには、日本で二十年生きていた女の記憶がある。
その女の名は「笠渡恵麻」。
恵麻は相談女にひっかかって浮気をした恋人の腹を全力で殴り、その足でバイト先に向かっていたごく普通の大学生だった。
日本で過ごしていた頃の最後の記憶は、自動車の急ブレーキ音で終わっている。つまりは、ハンドル操作を誤った車に轢かれて、そのまま死んだらしい。
不孝をしてしまい、親には申し訳ないと思っている。しかし、その感情に長々と浸り続けるのが難しい程度には、既に短くない時間が過ぎていた。
恵麻の知る限り、この世界に転生したのは十年前。
死んだ女の意識は、当時十歳の少女であった「エマ」の身体にひっかかり、その中で五年ほどを夢現の狭間で過ごした。そして五年前、十五歳になったエマの心はとある事件によって粉々に砕かれ、身体の主導権を恵麻に渡して目覚めぬ眠りについた。
恵麻は、エマの心を壊した状況から逃れるために、エマの名を隠すことにした。同時に、同じ響きを持つ恵麻という名も。
だからそれ以来、恵麻は自らの名もエマの名も心の奥底に沈めたまま、「カサンドラ」として生きている。
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