3 / 11
第3話
しおりを挟む
一日の半分を人間界で過ごすようになり、アトラは二つの問題に直面していた。
一つは変身魔法の維持。これは淫魔に限った話ではないが、アトラたち悪魔には生まれついての魔力というものが決まっている。
元々魔力量があまり多くないアトラにとって、連続で変身魔法を使用する今の生活はかなりの負担になっていた。
翼や尻尾を長時間しまっておくのが窮屈で、油断すると角がちょこっと顔を出したり、肌の一部が薄赤い色に戻ったりしてしまうのだ。
しかし魔力は人間で言うところの体力のようなものなので、訓練次第では強化することも不可能ではない。
ようやく見つけた居場所を失いたくなかったアトラは、日中は人間界でアルバイトに励み、夜は魔界で魔力強化の特訓に取り組む生活を続けていた。
「おはよ、アトラくん」
「おはようございます」
もう一つの問題は、拓也の存在である。
拓也の一挙手一投足が妙に魅力的で、アトラが今まで抑え込んできた淫魔としての本能が搔き立てられてしまうのだ。
間近で見る人間とはこんなにも美味しそうに見えるものなのかと戦慄したが、拓也以外の人間にはここまで強くそそられたりしなかった。
「ちょい待ち。髪の毛跳ねてるよ」
「っ、ありがとうございます」
そして困ったことに、拓也はスキンシップが激しい。
今みたいに頭を撫でたりは日常茶飯事で、大きさを比べようと手を合わせてくることもあった。
決して不快ではないし、むしろ仲良くなった証拠のようでとても嬉しいのだが、そんな拓也のそばで働くことはアトラにとって生殺しに近かった。
これだけ淫魔の習性や慣例を嫌悪しているにもかかわらず、欲求に抗えない自分に失望したし、ひどく腹が立つ。
「アトラくん、もしかして最近ちょっと体調悪い?」
「い、いえっ。そんなことないです」
連日の疲労が顔に出ていたのだろうか。
まるで頭の中を見透かされたような言葉にどきりとして、咄嗟にぶんぶんとかぶりを振る。
「そう? ならいいんだけど……。もししんどくなったら早めに教えてね」
「はい。ありがとうございます」
拓也に迷惑をかけるわけにはいかない。
ズキズキと主張する頭痛や体のだるさを無視しながら、棚の整理を終えて立ち上がる。
「っ、あ……」
その瞬間、さあっと血の気が引くような感覚がして、世界がぐらりと傾いた。
平衡感覚を保てず、よろけた拍子にたたらを踏む。
「アトラくん!」
焦った様子の拓也に抱きとめられて、傾いているのは自分のほうだと気付いた。
謝らなければ。そう思うのに上手く声が出せず、急速に意識が遠のいていった。
目を覚ましたアトラの視界に飛び込んできたのは見知らぬ天井。
「起きた?」
隣には拓也がいて、アトラの顔を覗き込んでいた。
「ここは……」
「俺の家。気分はどう?」
アトラを気遣っているようなセリフだが、その声色はいつもより厳しい。
「お、怒ってますか……?」
「そうだね。ちょっと怒ってる」
率直な返答にアトラはびくりと肩を揺らした。
拓也のこんな顔は今まで見たことがない。
「ごめんなさい」
「……それは何に対しての『ごめんなさい』?」
追求されるとは思っておらず、アトラはしどろもどろになりながら答える。
「え、ええと……。僕のせいで、拓也さんに迷惑をかけました」
拓也がここにいるということは、営業中だった店を閉めてアトラをここまで運んできたということだ。
いくらアトラが小柄とはいえ、人を一人運ぶのは決して楽ではなかっただろう。
それに店を開けていればまだ売り上げがとれたかもしれないのに、自分が倒れてしまったせいで拓也に損をさせてしまった。怒って当然である。
震える声でアトラがそう伝えると、拓也は大きなため息をついた。
「全然違うな。俺は、アトラくんが体調悪いのを隠してたことに怒ってるんだよ」
拓也は先ほどよりいくらか柔らかい声で、言い聞かせるように続けた。
「もっと早く教えてくれたら、倒れる前に休ませてあげられたのに……。心配したじゃない」
拓也の優しい言葉に視界が潤む。
人間界に来てからというもの、幸せなのに泣いてばかりいる気がする。
「……ごめんなさい」
「俺ってそんなに頼りない?」
「そっ、そんなことないです!」
拓也は今まで会った誰よりも親切で、とても頼りがいのある人だ。
アトラが慌てて否定すると、拓也は小さく笑ってアトラの手を握った。
「それじゃあ、今度からは俺のこと頼ってほしいな」
「はい。本当にごめんなさ……」
アトラが三度目の謝罪を最後まで言い切ることはなかった。
拓也の大きな手におさまったアトラの手が、薄赤い色をしていたからだ。
一度意識を失ったことで魔法が途切れてしまったのだろう。
拓也に本来の姿を見られてしまったことに動揺し、全身からぶわりと嫌な汗が吹き出す。
「ねえ、アトラくん」
名前を呼ぶ声は聞こえているが、頭が真っ白になって返事ができない。
いったい今から何を言われるのだろうか。解雇の告知かもしれないし、これまで拓也を騙していたことに対する恨み言かもしれない。
むしろその程度で済めば良いほうだ。このまま身柄を拘束されて、なんらかの研究施設に差し出される可能性だってある。
「俺さ、昔アトラくんに会ったことあるわ」
しかし聞こえてきたのは、アトラの予想とはまったく異なるセリフだった。
「会った……?」
「覚えてない? アトラくんがまだめっちゃ小さかった頃」
拓也が「たしかこんくらいだったかな」と手で当時の背丈を示す。
「昔一度だけ、人間界に迷い込んじゃったことは覚えてます」
「そう。その時誰かに会わなかった?」
「会いました。学生っぽい服を着た、若い男の人……」
迷子のアトラを助けてくれた恩人というだけでなく、アトラが人間界を好きになるきっかけを与えてくれた人だ。忘れるはずがない。
「それ俺だわ」
「ええっ!?」
驚くあまり大きな声が出てしまった。
まさかあの時の青年が拓也だったなんて、にわかに信じられない。
「いや~、懐かしいね」
理解が追いつかず混乱するアトラに反して、拓也はしみじみと過去を偲ぶ。
「そっ、そんなことって……」
「俺けっこう見た目変わったから、気付かないのも無理ないよ」
「けっこうどころの騒ぎじゃないですよ!」
あの時は素朴な青年だったのに、今では街を歩けば通行人が道をあけるほどの柄の悪さだ。
拓也の人柄を知った今だからこそこうして普通に話せているが、そうでなければ萎縮して目も合わせられなかっただろう。
「それに、口調も今と違ったような……」
言いながら、記憶の中の拓也を思い返す。
さすがに細かいところまでは覚えていないが、少なくとも今のような話し方ではなかったはずだ。
「口調……? ああ、宮崎弁のこと?」
「宮崎弁?」
アトラが首をかしげると、拓也は少し照れたような表情で口を開いた。
「アトラくんが言いようとは、こげん喋り方んことやろ?」
「っそう、それです!」
懐かしい響きに当時の感情が呼び起こされ、アトラは思わず身を乗り出す。
「俺二十三の時に上京したんだけどさ、訛ってるのが恥ずかしくて標準語に直したのよ」
どうりで分からないはずだとアトラは額を押さえた。
せめて口調が同じなら手がかりになったかもしれないが、見た目が別人のようになったうえ話し方まで変わっていては気付かなくて当然である。
「まさかまた会えるなんて」
アトラが人間を好きになったきっかけである拓也と、人間界でふたたび会うことができた。これってまるで。
「運命みたい?」
「そっ、そんな大それたこと……!」
浮かれた考えを言い当てられ、挙動不審になりながら否定する。
「俺は思ったけどな」
そう言って拓也が微笑むものだから、アトラは火照った頬を隠すように俯いて黙り込むしかなかった。
「それで、アトラくんは人間じゃないんだよね?」
核心に迫る質問におそるおそる頷く。
見られてしまった以上隠しておくわけにはいかないが、アトラが淫魔だということを明かして拓也を不快な気持ちにさせてしまわないか不安だった。
「見た感じ悪魔、なのかな?」
「はい。その……僕、淫魔なんです」
アトラの正体を知って、拓也はどう思うだろうか。
わずかな沈黙すら耐え難くて、ちらりと上目遣いで様子をうかがう。すると、目を丸くした拓也と視線がぶつかった。
「淫魔ってあの、エッチなやつ……!?」
「うう、やっぱりそう思いますよね……」
拓也の言葉にがっくりとうなだれる。やはりそういう種族として認識されているのだ。
たしかに明け透けに言ってしまえばそのとおりなのだが、自分がそれであることを改めて思い知らされたようで情けなくなる。
「ごめん、すごい失礼なリアクションだったかも」
「いえ、いいんです。どうせ僕はエッチな種族ですから……」
「ごめんってば。意外だったからびっくりしたんだよ」
じめじめといじけるアトラに、拓也が苦笑しながら謝罪する。
「でも実際に、ほとんどの淫魔は拓也さんの想像どおりです。ただ、僕が周りに馴染めないだけで……」
「馴染めない?」
拓也が首をかしげる。
「周りの大人たちはみんな、人間のことを馬鹿にするんです。人間は欲に抗えない、搾取されるだけの愚かな生き物だって」
今まで耳にしてきた人間に対する侮蔑の言葉を思い出し、自然と声に力がこもった。
「淫魔から見た俺たち人間は、ただの食糧だってこと?」
「はい……。でも、僕はそうは思いません」
様々な技術や、娯楽に文化。人間界には、魔界にないものがたくさんある。
そしてそれらを作ったのは、ほかでもない人間たちなのだ。
拓也のように親切な人だっているし、人間界はとても素敵な場所だと思う。
しかし、魔界で胸を張ってそう主張することは許されなかった。
アトラがほかの淫魔たちから受けてきた仕打ちを話すと、拓也は嫌悪感をあらわにして眉をひそめた。
「ひどいな」
その声色は先ほどアトラを叱った時とは比べものにならないくらい明確な怒気を含んでいて、自分がいかに手加減されていたかがよく分かった。
「……拓也さんは、僕のこと嫌にならないんですか?」
「なんでそう思うの?」
ときどき怖くなるのだ。
拓也が優しすぎて、自分がだめになってしまうような感覚に陥る。
「だって、今まで拓也さんのこと騙してました」
「言えなかったのは仕方ないことだよ。騙されたなんて思ってない」
「それに、淫魔なんてはしたない種族だし」
「種族がどうであれ、アトラくんはアトラくんでしょ」
「うう……」
何を言っても即座に肯定で返されてしまって、アトラはついに口を噤んだ。
「……アトラくんさ、本当は人間界に住みたいんだよね?」
「は、はい」
唐突な質問に困惑しつつ頷く。
もちろん、できることならずっと人間界で暮らしていたい。
これはすべてが上手くいけばの話だが、いずれは魔界を出て人間界で生活していくのがアトラの密かな夢だった。
思いもよらない形ではあったけれど、黒木商店でのアルバイトはいわばその第一歩だったのだ。
「じゃあ、うちに住まない? ちょうど部屋余ってるんだよね」
住む? 拓也の家に?
最初はいったい何のジョークかと思ったが、拓也の目つきや口ぶりにふざけた様子はなく、どうやら真剣に提案しているようだった。
「こ、怖いです」
「えっ?」
「なんでそんなに優しくしてくれるんですか」
拓也がここまで親切にしてくれる理由がちっとも分からない。
過去に一度会っていたことが判明して、親近感を抱いてくれたのだろうか。アトラの成長した姿を見て、感慨深く思ったとか?
それにしたって住居まで提供するのはいくらなんでもやりすぎだと思うが、今はそれくらいしか納得できそうな理由が見当たらなかった。
「んー、そうだな……」
拓也は少し考えるような素振りを見せたあと、アトラの手にそっと自分の手を重ねた。
「アトラくんのことが好きだから」
好き。そのたった二文字に胸がどきりと跳ねる。
大人っぽくて、同性からも惚れられるほど魅力のある拓也が、アトラのように陰気で子供っぽい淫魔を好きになるなどありえない。
冷静に考えればそんなことすぐに分かるはずなのに、拓也のほうから指を絡められて、アトラの心臓はうるさいくらい鳴っていた。
アトラがぷしゅうと頭から湯気を出しそうになっていると、拓也が少し笑ってからぱっと手を離す。
「って、言ったらびっくりする?」
「~っ、もう! からかわないでください」
「あはは、可愛いね」
アトラが気を遣わないよう冗談で場を和ませてくれたのだろうが、アトラには刺激が強すぎた。恥ずかしいやらなんやらで拓也と目を合わせられない。
そして、拓也の言葉が冗談だったことにがっかりしている自分にも動揺していた。本当だったらよかったのに。確かにそう思ってしまったのだ。
たった今自覚したばかりの恋心にアトラが狼狽えていると、拓也がそれで、と話を切り出した。
「アトラくんさえよければ、今日から住んでもらって大丈夫なんだけど……。どうする?」
アトラにとっては願ってもない申し出だが、本当にそこまで甘えてしまっていいのだろうか。
今でも充分すぎるほどよくしてもらっているのに、そのうえ部屋まで提供してもらうなんて。
「一人暮らしって寂しいし、アトラくんがいてくれたら俺も嬉しいんだけど」
拓也がまるで口実を作るように言うものだから、アトラはついに悩むのをやめて小さく頷いた。
「ええと……。よ、よろしくお願いします」
アトラが深々とお辞儀をすると、拓也は嬉しそうに笑って「こちらこそ」とお辞儀を返した。
一つは変身魔法の維持。これは淫魔に限った話ではないが、アトラたち悪魔には生まれついての魔力というものが決まっている。
元々魔力量があまり多くないアトラにとって、連続で変身魔法を使用する今の生活はかなりの負担になっていた。
翼や尻尾を長時間しまっておくのが窮屈で、油断すると角がちょこっと顔を出したり、肌の一部が薄赤い色に戻ったりしてしまうのだ。
しかし魔力は人間で言うところの体力のようなものなので、訓練次第では強化することも不可能ではない。
ようやく見つけた居場所を失いたくなかったアトラは、日中は人間界でアルバイトに励み、夜は魔界で魔力強化の特訓に取り組む生活を続けていた。
「おはよ、アトラくん」
「おはようございます」
もう一つの問題は、拓也の存在である。
拓也の一挙手一投足が妙に魅力的で、アトラが今まで抑え込んできた淫魔としての本能が搔き立てられてしまうのだ。
間近で見る人間とはこんなにも美味しそうに見えるものなのかと戦慄したが、拓也以外の人間にはここまで強くそそられたりしなかった。
「ちょい待ち。髪の毛跳ねてるよ」
「っ、ありがとうございます」
そして困ったことに、拓也はスキンシップが激しい。
今みたいに頭を撫でたりは日常茶飯事で、大きさを比べようと手を合わせてくることもあった。
決して不快ではないし、むしろ仲良くなった証拠のようでとても嬉しいのだが、そんな拓也のそばで働くことはアトラにとって生殺しに近かった。
これだけ淫魔の習性や慣例を嫌悪しているにもかかわらず、欲求に抗えない自分に失望したし、ひどく腹が立つ。
「アトラくん、もしかして最近ちょっと体調悪い?」
「い、いえっ。そんなことないです」
連日の疲労が顔に出ていたのだろうか。
まるで頭の中を見透かされたような言葉にどきりとして、咄嗟にぶんぶんとかぶりを振る。
「そう? ならいいんだけど……。もししんどくなったら早めに教えてね」
「はい。ありがとうございます」
拓也に迷惑をかけるわけにはいかない。
ズキズキと主張する頭痛や体のだるさを無視しながら、棚の整理を終えて立ち上がる。
「っ、あ……」
その瞬間、さあっと血の気が引くような感覚がして、世界がぐらりと傾いた。
平衡感覚を保てず、よろけた拍子にたたらを踏む。
「アトラくん!」
焦った様子の拓也に抱きとめられて、傾いているのは自分のほうだと気付いた。
謝らなければ。そう思うのに上手く声が出せず、急速に意識が遠のいていった。
目を覚ましたアトラの視界に飛び込んできたのは見知らぬ天井。
「起きた?」
隣には拓也がいて、アトラの顔を覗き込んでいた。
「ここは……」
「俺の家。気分はどう?」
アトラを気遣っているようなセリフだが、その声色はいつもより厳しい。
「お、怒ってますか……?」
「そうだね。ちょっと怒ってる」
率直な返答にアトラはびくりと肩を揺らした。
拓也のこんな顔は今まで見たことがない。
「ごめんなさい」
「……それは何に対しての『ごめんなさい』?」
追求されるとは思っておらず、アトラはしどろもどろになりながら答える。
「え、ええと……。僕のせいで、拓也さんに迷惑をかけました」
拓也がここにいるということは、営業中だった店を閉めてアトラをここまで運んできたということだ。
いくらアトラが小柄とはいえ、人を一人運ぶのは決して楽ではなかっただろう。
それに店を開けていればまだ売り上げがとれたかもしれないのに、自分が倒れてしまったせいで拓也に損をさせてしまった。怒って当然である。
震える声でアトラがそう伝えると、拓也は大きなため息をついた。
「全然違うな。俺は、アトラくんが体調悪いのを隠してたことに怒ってるんだよ」
拓也は先ほどよりいくらか柔らかい声で、言い聞かせるように続けた。
「もっと早く教えてくれたら、倒れる前に休ませてあげられたのに……。心配したじゃない」
拓也の優しい言葉に視界が潤む。
人間界に来てからというもの、幸せなのに泣いてばかりいる気がする。
「……ごめんなさい」
「俺ってそんなに頼りない?」
「そっ、そんなことないです!」
拓也は今まで会った誰よりも親切で、とても頼りがいのある人だ。
アトラが慌てて否定すると、拓也は小さく笑ってアトラの手を握った。
「それじゃあ、今度からは俺のこと頼ってほしいな」
「はい。本当にごめんなさ……」
アトラが三度目の謝罪を最後まで言い切ることはなかった。
拓也の大きな手におさまったアトラの手が、薄赤い色をしていたからだ。
一度意識を失ったことで魔法が途切れてしまったのだろう。
拓也に本来の姿を見られてしまったことに動揺し、全身からぶわりと嫌な汗が吹き出す。
「ねえ、アトラくん」
名前を呼ぶ声は聞こえているが、頭が真っ白になって返事ができない。
いったい今から何を言われるのだろうか。解雇の告知かもしれないし、これまで拓也を騙していたことに対する恨み言かもしれない。
むしろその程度で済めば良いほうだ。このまま身柄を拘束されて、なんらかの研究施設に差し出される可能性だってある。
「俺さ、昔アトラくんに会ったことあるわ」
しかし聞こえてきたのは、アトラの予想とはまったく異なるセリフだった。
「会った……?」
「覚えてない? アトラくんがまだめっちゃ小さかった頃」
拓也が「たしかこんくらいだったかな」と手で当時の背丈を示す。
「昔一度だけ、人間界に迷い込んじゃったことは覚えてます」
「そう。その時誰かに会わなかった?」
「会いました。学生っぽい服を着た、若い男の人……」
迷子のアトラを助けてくれた恩人というだけでなく、アトラが人間界を好きになるきっかけを与えてくれた人だ。忘れるはずがない。
「それ俺だわ」
「ええっ!?」
驚くあまり大きな声が出てしまった。
まさかあの時の青年が拓也だったなんて、にわかに信じられない。
「いや~、懐かしいね」
理解が追いつかず混乱するアトラに反して、拓也はしみじみと過去を偲ぶ。
「そっ、そんなことって……」
「俺けっこう見た目変わったから、気付かないのも無理ないよ」
「けっこうどころの騒ぎじゃないですよ!」
あの時は素朴な青年だったのに、今では街を歩けば通行人が道をあけるほどの柄の悪さだ。
拓也の人柄を知った今だからこそこうして普通に話せているが、そうでなければ萎縮して目も合わせられなかっただろう。
「それに、口調も今と違ったような……」
言いながら、記憶の中の拓也を思い返す。
さすがに細かいところまでは覚えていないが、少なくとも今のような話し方ではなかったはずだ。
「口調……? ああ、宮崎弁のこと?」
「宮崎弁?」
アトラが首をかしげると、拓也は少し照れたような表情で口を開いた。
「アトラくんが言いようとは、こげん喋り方んことやろ?」
「っそう、それです!」
懐かしい響きに当時の感情が呼び起こされ、アトラは思わず身を乗り出す。
「俺二十三の時に上京したんだけどさ、訛ってるのが恥ずかしくて標準語に直したのよ」
どうりで分からないはずだとアトラは額を押さえた。
せめて口調が同じなら手がかりになったかもしれないが、見た目が別人のようになったうえ話し方まで変わっていては気付かなくて当然である。
「まさかまた会えるなんて」
アトラが人間を好きになったきっかけである拓也と、人間界でふたたび会うことができた。これってまるで。
「運命みたい?」
「そっ、そんな大それたこと……!」
浮かれた考えを言い当てられ、挙動不審になりながら否定する。
「俺は思ったけどな」
そう言って拓也が微笑むものだから、アトラは火照った頬を隠すように俯いて黙り込むしかなかった。
「それで、アトラくんは人間じゃないんだよね?」
核心に迫る質問におそるおそる頷く。
見られてしまった以上隠しておくわけにはいかないが、アトラが淫魔だということを明かして拓也を不快な気持ちにさせてしまわないか不安だった。
「見た感じ悪魔、なのかな?」
「はい。その……僕、淫魔なんです」
アトラの正体を知って、拓也はどう思うだろうか。
わずかな沈黙すら耐え難くて、ちらりと上目遣いで様子をうかがう。すると、目を丸くした拓也と視線がぶつかった。
「淫魔ってあの、エッチなやつ……!?」
「うう、やっぱりそう思いますよね……」
拓也の言葉にがっくりとうなだれる。やはりそういう種族として認識されているのだ。
たしかに明け透けに言ってしまえばそのとおりなのだが、自分がそれであることを改めて思い知らされたようで情けなくなる。
「ごめん、すごい失礼なリアクションだったかも」
「いえ、いいんです。どうせ僕はエッチな種族ですから……」
「ごめんってば。意外だったからびっくりしたんだよ」
じめじめといじけるアトラに、拓也が苦笑しながら謝罪する。
「でも実際に、ほとんどの淫魔は拓也さんの想像どおりです。ただ、僕が周りに馴染めないだけで……」
「馴染めない?」
拓也が首をかしげる。
「周りの大人たちはみんな、人間のことを馬鹿にするんです。人間は欲に抗えない、搾取されるだけの愚かな生き物だって」
今まで耳にしてきた人間に対する侮蔑の言葉を思い出し、自然と声に力がこもった。
「淫魔から見た俺たち人間は、ただの食糧だってこと?」
「はい……。でも、僕はそうは思いません」
様々な技術や、娯楽に文化。人間界には、魔界にないものがたくさんある。
そしてそれらを作ったのは、ほかでもない人間たちなのだ。
拓也のように親切な人だっているし、人間界はとても素敵な場所だと思う。
しかし、魔界で胸を張ってそう主張することは許されなかった。
アトラがほかの淫魔たちから受けてきた仕打ちを話すと、拓也は嫌悪感をあらわにして眉をひそめた。
「ひどいな」
その声色は先ほどアトラを叱った時とは比べものにならないくらい明確な怒気を含んでいて、自分がいかに手加減されていたかがよく分かった。
「……拓也さんは、僕のこと嫌にならないんですか?」
「なんでそう思うの?」
ときどき怖くなるのだ。
拓也が優しすぎて、自分がだめになってしまうような感覚に陥る。
「だって、今まで拓也さんのこと騙してました」
「言えなかったのは仕方ないことだよ。騙されたなんて思ってない」
「それに、淫魔なんてはしたない種族だし」
「種族がどうであれ、アトラくんはアトラくんでしょ」
「うう……」
何を言っても即座に肯定で返されてしまって、アトラはついに口を噤んだ。
「……アトラくんさ、本当は人間界に住みたいんだよね?」
「は、はい」
唐突な質問に困惑しつつ頷く。
もちろん、できることならずっと人間界で暮らしていたい。
これはすべてが上手くいけばの話だが、いずれは魔界を出て人間界で生活していくのがアトラの密かな夢だった。
思いもよらない形ではあったけれど、黒木商店でのアルバイトはいわばその第一歩だったのだ。
「じゃあ、うちに住まない? ちょうど部屋余ってるんだよね」
住む? 拓也の家に?
最初はいったい何のジョークかと思ったが、拓也の目つきや口ぶりにふざけた様子はなく、どうやら真剣に提案しているようだった。
「こ、怖いです」
「えっ?」
「なんでそんなに優しくしてくれるんですか」
拓也がここまで親切にしてくれる理由がちっとも分からない。
過去に一度会っていたことが判明して、親近感を抱いてくれたのだろうか。アトラの成長した姿を見て、感慨深く思ったとか?
それにしたって住居まで提供するのはいくらなんでもやりすぎだと思うが、今はそれくらいしか納得できそうな理由が見当たらなかった。
「んー、そうだな……」
拓也は少し考えるような素振りを見せたあと、アトラの手にそっと自分の手を重ねた。
「アトラくんのことが好きだから」
好き。そのたった二文字に胸がどきりと跳ねる。
大人っぽくて、同性からも惚れられるほど魅力のある拓也が、アトラのように陰気で子供っぽい淫魔を好きになるなどありえない。
冷静に考えればそんなことすぐに分かるはずなのに、拓也のほうから指を絡められて、アトラの心臓はうるさいくらい鳴っていた。
アトラがぷしゅうと頭から湯気を出しそうになっていると、拓也が少し笑ってからぱっと手を離す。
「って、言ったらびっくりする?」
「~っ、もう! からかわないでください」
「あはは、可愛いね」
アトラが気を遣わないよう冗談で場を和ませてくれたのだろうが、アトラには刺激が強すぎた。恥ずかしいやらなんやらで拓也と目を合わせられない。
そして、拓也の言葉が冗談だったことにがっかりしている自分にも動揺していた。本当だったらよかったのに。確かにそう思ってしまったのだ。
たった今自覚したばかりの恋心にアトラが狼狽えていると、拓也がそれで、と話を切り出した。
「アトラくんさえよければ、今日から住んでもらって大丈夫なんだけど……。どうする?」
アトラにとっては願ってもない申し出だが、本当にそこまで甘えてしまっていいのだろうか。
今でも充分すぎるほどよくしてもらっているのに、そのうえ部屋まで提供してもらうなんて。
「一人暮らしって寂しいし、アトラくんがいてくれたら俺も嬉しいんだけど」
拓也がまるで口実を作るように言うものだから、アトラはついに悩むのをやめて小さく頷いた。
「ええと……。よ、よろしくお願いします」
アトラが深々とお辞儀をすると、拓也は嬉しそうに笑って「こちらこそ」とお辞儀を返した。
11
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
禁断の祈祷室
土岐ゆうば(金湯叶)
BL
リュアオス神を祀る神殿の神官長であるアメデアには専用の祈祷室があった。
アメデア以外は誰も入ることが許されない部屋には、神の像と燭台そして聖典があるだけ。窓もなにもなく、出入口は木の扉一つ。扉の前には護衛が待機しており、アメデア以外は誰もいない。
それなのに祈祷が終わると、アメデアの体には情交の痕がある。アメデアの聖痕は濃く輝き、その強力な神聖力によって人々を助ける。
救済のために神は神官を抱くのか。
それとも愛したがゆえに彼を抱くのか。
神×神官の許された神秘的な夜の話。
※小説家になろう(ムーンライトノベルズ)でも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる