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エピソード5

秘密の三ヶ月①

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「来れないんですか?」

「行けても多分終わりかけかな……もう時間的に微妙なら行かんかも。はい、砒素」

試薬を渡しながら答えたら、置いてけぼりをくらった子犬のように眉をさげた千夏。



「そうなんですね、福岡でしたっけ。間に合うといいのに……あ、あとアンチモンです」

「アンチ……あれ、ないな」

毒劇物金庫の奥を覗いても見つからない。しゃがみこむ俺の傍に千夏も寄ってきた。

定時時間内なのに、めずらしく距離が近い。

くりっとした大きな瞳で上目遣いで見つめられると、ここが職場だと忘れかけそうになる。



グッと体を寄せてきたかと思うと、耳元で囁くように言う。



「……めんたいこと通りもん買ってきて」



(甘えて寄ってくるのはそれか)



「通りもん?なにそれ」

「福岡の有名なお菓子、知らない?」

「知らない」



「食べたことあると思うよ?美味しいの」

「ふぅん?またラインいれといて」



「やったぁ」

そう言ったらあっさりと体を離した。

千夏は絶対、俺より食への思いの方が強いと思う。



明日は部の送別会で千夏も珍しく飲み会に参加する。俺は以前から福岡に研修の出張が決まっていた。今回は飛行機移動だから時間は短縮できるけど、向こうを出るのが17時くらいになるから何時に着くか。もう飲み会は終盤だろう。



「時間ギリギリでも来られたらいいですね、待ってます」

そう言ってくしゃっと笑う顔は部下と彼女の半々の顔。



(なんでこんな器用に両方の顔を作れるんだ?)



普段の仕事では部下として徹底した距離を取るくせに、二人になると気が緩むのか時折見せる彼女の顔。

俺を上司としてではなく、一人の男として見ているときの顔。その顔にハッキリ言って欲情している。



「……アンチ、ここにないなら在庫切れかもな」

木ノ下さんのいつもの雑な仕事の結果。ため息を吐くと、千夏が頭の上で笑った。



「聞いておきます。ないなら入荷されてからアンチだけ別に作ればいいだけだし」



「……俺が言おうか?」



「忙しい人が余計な心配も仕事も増やさなくていいです。私が聞きます、使うのは私なので」

そう言ってファイルに記帳している後ろ姿を見て思う。



(言い方といい……たまらんのだけど)



空気を読むところも、気遣いも、仕事への責任感も、俺のツボを突いてくる。



「はい、ファイルお願いします」

差し出されたファイルを受け取って金庫にしまうと鍵をかけた。千夏を見上げるとにこっと笑って首を傾げる。



(くそ、可愛いな)

ちょいちょいと手を招くと一瞬ためらうものの、遠慮がちにしゃがんでくる。



「な、なに?」

控えめな声に余計神経が震える。お互いの間にできた少しの距離は手をつけば一瞬で縮まるほどだ。



「ぅむんん!!」

勢いをつけてかぶりつくように唇にキスをした。



逃げようと後ろに引きかけたから腕を掴んで引っ張る。



「んん――!」

ちゅっ、と音が鳴ってくちびるを離したら、赤面した千夏の顔とぶつかった。



「なぁ……なん、なにして……」真っ赤になる千夏が可愛い。

「いやぁ、なんか……思わず?」

「お、お、思わず、することじゃないですからぁ!」誰かに見られたらどうするの!と小声で怒られた。



(別に俺はバレても全然いいんだけど)



上司と部下という直属の関係と、千夏の立場的なこと、一番は千夏自身の気持ちを尊重すると、社内で付き合いを隠すことも公にしないことも理解できる。その方が働きやすいことだってわかってる。

わかってはいるけれど、たまにどうでもよくなる時がある。



――千夏を独占したい。



最近やたら感じるこの気持ち。

付き合い始めたころは支配欲が強かったのに、秘密にすることで得だした独占欲が日に日に強くなっている。



簡単に他の奴が触れないように、わかりやすく縛れるなにかが欲しくなっていた。





――――――――――――――――――――





翌朝、正門をくぐるとき前からスーツを着た誠くんと出会って息をのんだ。



(うぉーい!スーツ姿、聞いてなーーい!!)



「お、おはようございます」

「おはよう、ちょうどよかった。これ、俺のデスクに置いておいてくれない?」置いてくるの忘れた、とピッチを渡される。



「はい……」

手渡されるピッチなんか見てられない、誠くんをガン見する。



「ん?」



「いえ、眼福です」

「なにそれ」笑われた。



「気を付けて……いってらっしゃい」

言いたいことはいっぱいあるけど、ここは職場、目の前にいるのは上司の久世さん。

せめて笑顔に込める。



(待ってるね)



「覗けるなら顔出すよ、飲み会」そう言って研修に行ってしまった。



(イケメンがスーツという武器を得たら歩くだけで人を殺せます!)



送別会は定刻に始まった。

誠くんからラインが入ったのは18時くらい。

【19時半に駅に着くから顔出せる】

誠くんからのメッセージに胸が踊った。

飲み会の席にいるからって誠くんと極力話すことはないし近くに座ることもそうないけれど、視界にいるというだけで嬉しい。



「なんか楽しそうだね、飲んでる?」



飲み会が始まってだんだんみんないい感じにほろ酔いな感じ。

声をかけてきたのはグループ違いの内田くん、通称ウッチー。歳が私の一つ上でみんなによく可愛がられるノリのいい人。入社してすぐ気さくに話しかけてくれてからずっと付き合いもあってフランクに接しられる数少ない人だ。



「楽しいよ。ウッチー結構酔ってる?」



「まだ大丈夫、とは思ってるけど、最近忙しかったから少し回るの早いかもしれん」

「大丈夫?お水取ってこようか?」



「んーん、いい。それよりぃ、最近どお?なんかさぁ、ちぃちゃん前より可愛くなったよね」



(だいぶ酔ってない?絡み方がおっさんみたい)



「ウッチー、それセクハラだよ」

高田さんが突っ込んでくれる。



「いや、これ、セクハラとは違いますって。なんでもかんでもセクハラにくくられるとなぁー。女の子に可愛いも言えない時代ってどうなんっすか!」



(絶対酔ってる)



ウッチーのこういうノリは昔からある。しかも酔ったところにこれならまともに返す必要もない。無視しようとテーブルに意識を向けた。

エビフライを手に取ってタルタルソースをつけて口に運ぼうとすると、ウッチーの肩がドンっとぶつかってタルタルソースがこぼれた。



「わ!ごめん!え、こぼれた?」タルタルソースが襟とカーディガンにぼたぼたと落ちてしまった。



「大丈夫、おしぼりこれもらっていい?」

「ほんとごめん!大丈夫?シミになるかな」



「大丈夫。ちょっとお手洗いで洗ってくるね」

トップスはさほど被害はないけれど、カーディガンの方が派手に落ちてしまったが、すぐに洗えばシミにはなりそうにない。席を立ってお手洗いに走っておしぼりを濡らして叩いていたらすぐに取れた。



(シミにならなくてよかった……この服一目ぼれで買ったところだったし)



襟元がフリルになったトップスは淡いクリーム色で可愛くて、試着したら胸が目立たなくて気に入って衝動買いした。五分袖くらいだけど、割とピタッとした生地感なのでこれ一枚だと体のラインが出やすい。だからカーディガンを羽織ったんだけど――。



(今これを羽織るのはちょっと冷たそうだなぁ……)

帰る頃には湿ってるくらいでいけるかなとハタハタしつつ席に戻ると誠くんが到着していた。



(あっ!)

と、思った気持ちを顔に出さないように平常心を心がける。



普段誠くんを敬遠しがちな女性社員たちもスーツ姿の誠くんを盗み見している。



(かっこいいよね、わかるよ。わかる)

うんうん、と彼女の立場として嫉妬してもいいところだけど、その気持ちがわかりすぎて広い心でそれを受け入れる。



(スーツだめだわぁ。スタイルもいいからもう着こなしすぎなんだよぉ!)

頭の中で身悶えていたら、ウッチーの声に現実に引き戻された。



「ちぃちゃん!ごめん、大丈夫だった?」

その声に誠くんの顔がこちらを向いて一瞬目が合う。



「あ、うん、平気。すぐ取れたし大丈夫、気にしないで」



「マジごめんー、クリーニング代請求して」

「オーバーだよ。じゃあ、今度コンビニでアイス買って」



「ハーゲンダッツ奢るわ」

「やった!」そんなたわいもないやり取りをして席についた。



誠くんは向かいのエリアでこちらには背中を向けている。

位置的に最高、全然人目を気にせず見れる位置、最高。



(20時前なら30分くらいは飲み食い出来そうかな。でももうご飯がないかも)



食べるものあるかな、とテーブルの前をチラチラ見てしまう。

「――って、聞いてる?ちぃちゃーん」



「え?ごめん、聞いてなかった」

「おい、聞けやー。だから、記念日大事派かって話!」



「……記念日?何の話?」

「菱田ちゃんはマメそうじゃない?記念日とか大事にしてそう」

高田さんの言葉にウッチー、あと会話に参加していた数人が一斉に私を見た。



(記念日って、恋人とのあれやこれや的な?)



「――え、私マメじゃないと思います。誕生日とかクリスマス以外に記念日って例えばなにがあるんですか?」

「うそ、そんな感じ?」ウッチーが声をあげる。



「ごめん、私こんなもんだよ。あんまり想像できない。何を記念にしたらいいの?」

乾いた笑いで誤魔化した。



「付き合った日とかさ、初めてなになにしたとか……細かい子って細かいっすよね?」

ウッチーが高田さんに同意を求める。



「そうだね~何かしら記念日作る子はいるよね。覚えてて欲しいんだろうけどね、自分との思い出?みたいなやつ」

「ほぉ……」心の底から声が出た。



「菱田ちゃんはしっかりそういうの覚えてるタイプと思ってたけどそうでもないんだ?」

高田さんに言われて頷く。



「全然そういうの疎いかもです。初めて付き合った日……絶対覚えてられない」

実際誠くんと付き合い出した日にちなんか覚えていない。



「彼氏がマメじゃなくても全然いい感じ?」

高田さんも今日は少し酔ってそうだ。あんまり人前で突っ込んでこないのに聞いてくる。



「誕生日とかイベントは楽しみたいけど。マメじゃなくて全然いいです。私だってマメじゃないし相手にだけ求められないです」



「いいな、ちぃちゃん、めっちゃいいな」

ウッチーがズイッと距離を詰めてきた。



「でもなんかしてくれたりしたら嬉しいでしょ?」

高田さんが聞いてくる。

「それは……もちろん。コンビニスイーツ買ってきてくれるだけで嬉しいです」



「コンビニ?コンビニスイーツなんかでいいの?」

ウッチーが前のめりになって寄ってくる。だんだん距離が近いなぁ、とは思うけど、飲み会の席だとこんなもんかなと気持ち体を引いて答える。



「コンビニとか行ってこれ好きって言ったの覚えてくれてて買ってきてくれたりとか……めっちゃうれしいけど」

「そんなことで?」

「そんなことだよ。そういう些細なこと、普段の会話とか生活の中の事覚えてくれてる方が嬉しいじゃん」



誠くんは私の何気ない会話をよく覚えていてくれる。自分で言ったことさえ忘れていることもたまに言われて驚くくらいだ。記憶力が単純にいいんだろうけど、聞いていないと覚えていないわけで。それを思うと、誠くんが私とする会話を片手間に聞いていないのだと感じて嬉しいしかない。



「普段のその人の生活の中で、何気ない時に私のこと考えたり、思い出してくれてるってことに愛を感じるもん」

そう言って周りがシンッとしてハッとした。



(あれ、私今なに言った?なんかおかしなこと言った?)



「やばぁ」ウッチーが言う。

「菱田ちゃん、今自分がどんな顔してるか分かってないよねー?」



「え?!」顔を手で覆った。



「やっぱ彼氏いるじゃん!なんで言ってくれないんだよ!」

「ええ?今そんな話してなくない?」



「してるだろ、めっちゃそういう話だろ!いつから?いないいない言うていてんじゃん、嘘つき!いつからだよぉ!」



「内田~しつこいぞ~」

「ウッチー、だからセクハララインこえてきてるよ、ちょっと落ち着いて」

「ウッチー、ちょ、近い!」腕を押し返していると、「内田!」という周りの窘める声にウッチーの動きも静止した。



席の中がわちゃわちゃしたところで幹事さんのラストオーダーの声かけになんとかその場の空気が変わって落ち着いた。

ウッチーはしつこく「ねぇねぇ」と聞いてきたけど鬼スルー。

最後のご飯を頬張って知らん顔を貫いた。

誠くんは大して飲み食いせずに終わっちゃうなと可哀想に思いながらその分私が食べようと食べることに集中した。



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