キリング・ライズ

相原伊織

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 にんにく・スパゲティーを食べ終え、玄関の扉を開け、いつもの通学路を学校に向かって歩いているとき、わたしは何の脈絡もなく「今日は学校を休もうか」と思い立った。こんなことは初めてで、生理になったからでも、いじめられるのがつらいから休みたいという理由でもなく、ただ言えることは文句のつけようもなく素晴らしい快晴の水曜日だったということだけだ。わたしはその衝動に抗うことをやめ、身を任せることにした。雲一つない透明な青色をした大空が落ちてきてわたしに被さり、そのままわたしまで透明になってしまいそうなくらい素晴らしい天気だった。
 わたしはお山のてっぺんで最近読んでいる長編小説を読むべく、きびすを返しお山の公園へと向かった。駅へと向かう朝早いサラリーマン達の波をかいくぐるようにして。わたしのお母さんはもうあと2、30分で家を出て仕事場へと向かうだろう。でもわたしは、お母さんがお山の公園を通らないことをちゃんと知っている。わたしは何の気兼ねもなく、お山のてっぺんでその海外文学を読むことができる。
 その本は、スペインの「フリオ・リャマサーレス」という作家の『黄色い雨』という長編小説の新訳だった。
 誰もに見捨てられた廃村にたった一人残された老人の物語だ。わたしはその本がまとっている退廃的な雰囲気に夢中になった。そしておそらく、翻訳も素晴らしいものだった。
 お山の公園に着くと、わたしは制服のスカートをまくり上げながら、お山のてっぺんへと登った。午前7時を過ぎたばかりのニュータウンには、会社へと急ぐサラリーマン達の他には誰の姿も見当たらない。お山の公園もわたしの貸切状態だ。わたしはお山のてっぺんを陣取り、その海外文学の本のページをった。
 「黄色い雨」というのは詰まるところ、黄色い銀杏いちょうの葉の雨のことだった。わたしは今の季節から、桜吹雪を連想した。淡いピンク色の雨…桃色の雨だ。そんな風景の中で何かが起きたら、それは素敵なことだろうなと思った。例えば、出逢い。わたしには友達がいないけれど、友達となる人との出逢いでもいい。将来旦那さんになる人との出逢いでもいい。わたしにとって必要なのは、そういう出逢いなんじゃないかと思った。『黄色い雨』の主人公の老人は妻にも先立たれた。首吊り自殺だった。そんな哀しいことはないんだろうな。わたしにはその枯葉の雨の中で老人の気持ちを推しはかることしかできない。でもわたしは桃色の雨の中で、新しい何かと出逢いたいのだ。その小説のページを繰りながら、わたしはそんなことを考えた。

 どれくらいの時間が経ったのかわからない、わたしが読書に夢中になっていると、聞き憶えのある声が「ユミ…?」と呼んだ。わたしのことだ。えっ…? と思って顔を上げあたりを見下ろすと、自転車にまたがったお母さんがこちらを見ていた。とっさに入学祝いにもらった腕時計に目をやると、時計の針は9時12分を指していた。お母さんが仕事場へ向かう時間にしては少し遅かったが、わたしは動揺して何も言い返せなかった。
「ユミ…。あなたこんなところで何してるの」
お母さんは言った。公園に自転車を乗り入れ停めると、わたしのほうへ向かって歩いてきた。わたしは本を閉じお母さんと視線を合わせたが、言うべき台詞が浮かんでこなかった。お母さんはお山のふもとへと歩み寄り、見上げるようにしてわたしに言った。
「ユミ。あなたこんなところで何してるの。学校は?」
わたしはそれに言い返せず、本を置いてたじろいだ。
「もしかして、いじめられているの?」
わたしの脇に嫌な汗が吹き出してきた。…?
「待ってて」
そう言うとお母さんはお山の後ろのほうへと回り込み、登ってきた。そしてわたしの隣へ体操座りで腰掛けると、わたしの肩をぎゅっと抱いた。
「あなたいじめられているんじゃないの」
わたしの目に涙が溢れ出てきた。それを止めることもできなかったし、うなずくことも、何か言葉を口にすることもできなかった。ただ泣いているわたしの肩を母は強く抱き寄せた。
「やっぱりね。なんとなくそう思っていたんだよ。あなたのバッシュ、あれはユミのやつじゃないよね? …気づいてあげられなくてごめんね」
わたしは母の胸に顔を押し当て、激しく泣いた。かろうじて「ごめんなさい」と何度も何度も口にした、それで精一杯だった。
「いいんだよ。ユミが悪いわけじゃない、いじめる連中が悪いんだ。無理に学校なんて行く必要もない。でも春休みが終わったらクラス替えだろう? それでいじめがなくなったりはしないかい?」
わたしには、何も答えられなかった。
「休んでもいい。クラス替えでどうにもならない問題なら、あたしが学校へ言ってやるよ。何も心配しなくていい。いいかいユミ、あんたがそうやって苦しむことは何もないんだ。大きく言ってしまえば、世界はあんたのもんだよ。苦しい時は、『世界はわたしのもの!!』って叫びなさい。あんたにはそういう気持ちが必要だよ。世界は自分のものだって、それくらいに考えなさい」

 お母さんはその日、仕事を少し遅刻したようだ。わたしはお山のてっぺんでお母さんと別れた後、一人で家に帰った。わたしは制服のまま布団にくるまって、お母さんに言われたことをずっと考えていた。「世界は、わたしのもの…?」と。
 夕方近くにお母さんが帰ってきても、わたしは起きて行かなかった。わたしの部屋のドアを開け、お母さんはただいまと言った。それ以上は何も言わなかった。わたしはお母さんの気持ちを考えると、涙が止まらなかった。わたしに友達の一人でもいたら相談できたんだろうなと考えた。でもわたしには友達の一人もいなかった。そのことがお母さんに対して申し訳なく、恥ずかしかった。

 明け方になっても眠ることができなかった。わたしは制服のまま、『黄色い雨』を持ってお山の公園へと向かった。街灯の灯りはお山のてっぺんまでは充分に届かず、暗い中で目を凝らしてページを繰っていった。残りわずかだったその本を読み終えページを閉じ、その瞬間にわたしは立ち上がった。そしてつい、叫んだ。「わーるどいずまいん!!」と。
世界はわたしのもの。そして、わたしの愛する人達のもの。わたしは、わたしの愛する者達がしいたげられることを許さない。シングルマザーとしてわたしをこれまで育ててくれたお母さんのことも、わたし自身のことも。でも、他に虐げられることを許さぬ人々の姿を思い浮かべることができなかった。わたしはふと下を見下ろす。公園の入り口のあたりに立っている男の人を見つける。いいわ。あなたでも。見られたんだから。きっとあなたも欲しいんでしょう? この世界が。わたしははっきりとその男性の目を見て、もう一度言う。
「ワールド・イズ・マイン」
 世界はわたしたちのもの。それが、わたしとヒロさんとの初めての出逢い。
 
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