相原伊織 掌編集

相原伊織

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美しい世界

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「お願い、もうよして! さあ、もう飲まないで。酒壜さかびんを返して。ねえ、さっきも言ったように私はずっと起きているし、飲みたくなったらその度に少しずつ飲ませてあげるから。あなただってこんな身体のまま家に帰りたくはないでしょ? だからもうよして。さあ、こちらにちょうだい。………じゃあ、半分だけ壜に残してあげる。ね、お願い。カーター先生だっておっしゃったじゃない。私が徹夜で付き添っていて、少しずつあなたに飲ませてあげるの。それが気に入らないんなら、少しだけ…そう、いくらか壜に残してあなたにあげるわ。…さあ、言うことを聞いて。私、もうくたくたよ。こんなことを一晩中続けているわけにはいかないでしょう? …そう、わかったわ。好きになさい。………好きなだけ飲んで、死んでしまいなさい」


       フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド
             『An Alcoholic Case / アルコールの中で』より
        




 写真の中の彼女は、いつも決まって穏やかだった。澄んだ湖の水面みなもに映った満月のように、まるで僕の心に呼応するように写真の中で彼女は脈打ち、揺れた。どこまでも美しく、そしてどこまでも若かった。隣に写る僕は知るよしもないのだ。隣で光を放つ太陽のような笑顔が永遠に失われることはないのだと、当たり前のように思い込んでいたあの頃の僕には。でも、すべてはもう終わってしまった。

 ある朝目覚めると、いつか僕が思い描いたとおりの美しい世界が広がっていた。鳥たちはさえずり、木々は瑞々みずみずしく朝露をしたたらせ、陽光はまるで数百年にわたって人々をきつけ続ける絵画かいがのように息をのむほど神秘的だった。湖面はその光を眩しく反射させて、僕の網膜に不思議な図形をちらつかせていた。

 でも、みんな知らないのだろうか。僕以外の誰も、ほんとうに知らないのだろうか? 世界がもう、終わってしまったということを。



            ✳︎



 アルコールの霧の中で、僕は何度も彼女を想った。毎日違う人生を生き直し、毎日違う成り行きで彼女と出逢い、そして同じように恋人同士になった。
 僕が何度人生を生き直そうとも、運命の巡り合わせによって必ず彼女と僕は出逢い、恋に落ちた。それは人知の及ばぬ力の導きによって、完全に決められていることのように思えた。

 彼女は、僕の目が好きだと言った。この一対いっついの瞳が好きだと。瞳に映る光の揺れ方、私を映し出す灰色の瞳が好きだと、そう言った。僕はその言葉が忘れられない。僕も同じことを思っていたからだ。彼女の瞳が好きだった。一対のエメラルドブルーの瞳と、その中に揺れる何色もの光と、そこに映し出された僕の像が。その像を通してのみ、僕は僕でいられた。そこに映る僕だけが、僕という人間のすべてだった。は要らなかった。彼女にとって必要な僕だけが、彼女が心から求める僕という存在だけが、僕にとってのすべてだった。それはまさに、宿命的な恋そのものだったのだ。

 別れは突然に訪れた。唐突に彼女は死に、僕だけがここに残った。その命を奪った原因は、おそらく誰の目から見ても理不尽なものだった。

 僕には彼女の死という事象じしょうがうまく理解できなかった。どうして彼女がこんな理不尽な死に方をしなければならないのか、僕には到底とうてい納得できなかった。しかし、それでも。彼女が死んでしまったことは動かしがたい事実だった。

 毎朝、鳥は新しい朝を告げて鳴いた。木々は相変わらずすこやかに緑色をしていて、陽光は昨日とーーーたぶん一億年前ですら、今とーーーまったく同じし方をしていた。湖面でさえ以前と変わらぬ表情でその無慈悲な陽光を無感動に反射していた。

 僕の網膜は湖に反射された陽光をとらえて、その内側に不思議な図形を描いていた。僕にはそれが彼女の居場所を指し示す地図のように見えた。しかしそれは瞬く間に繰り返しかたちを変え、決して彼女の正確な居場所を指し示してはくれなかった。

 また彼女の居ない無機質な朝がやってくる。明日も、その次も、そしてその翌日もさらに翌日も、僕が死なない限りは永遠に。

 また鳥が鳴いている。僕の心は泣いている。いくら酒を飲もうとも、楽になりはしない、彼女を取り戻せるわけでもない。会うことすらできない。

 どうして鳥は鳴くのだろう。なぜ木々は葉を落とすこともなくずっと緑色で、なぜ陽光は射すのだろう? どうして湖は豊かな水をたたえ、この先幾千年も命を育むのだろう? 僕にとっての大切な命はもうここにないというのに。

 それとも、みんなみんな、知らないのだろうか。この皮肉にも美しい世界で。実は世界はもう、終わってしまったのだということを。
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