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彼はわたしの心臓に土をかけるだろうか?
しおりを挟むこんな夢を見た。色のついた夢。夢…? 流れる時間の音までもが鮮明に映し出されーーーその流れは淀んだり速くなったりを不規則に繰り返し、わたしの三半規管を狂わせるーーー、耳の奥の奇妙な形をした器官に痛みが走る。時間の流れにうまく自分を馴染ませることができない。
わたしは草むらにいる。足首にも満たない高さの草がどこまでも広く密生している。月がわたしを照らしている。彼方には暗くぼんやりと山の稜線が見えるのみだ。他にはなにも無い。わたしはそこで、ただ月に照らされている。
ふと、自分が上半身裸で立っていることに気づく。次の瞬間、わたしの胸はぱっくりときれいに切り開かれ、心臓が地面に落ちてしまった。
わたしは胸の穴を眺め、足もとに落ちたものに視線を移した。痛みは無い。それはわたしの足もとで、一番太い血管の断面から黒く粘りけのありそうな液体を苦しそうに吐き出している。痛みは無い。
「これはわたしの心臓なのだろうか?」と、わたしは思う。月光がわたしの心臓から個性を奪っているのだ。月光はすべてを蒼白く染めあげ、あらゆる価値観を変容させてしまう。現にわたしの心臓はわたしの足もとで、わたしの心臓らしさを失っている。
わたしは月を見上げ、月に照らされたわたしの心臓を見下ろす。その心臓には、おびただしい数の蟻が群がり始めている。
「地面に心臓が落ちてしまったのだ…!」
時間の流れが乱れ始めるのを感じる。耳の奥に鋭い痛みが走る。わたしは感じる。このままでは、もっと酷いことが起こると。なんとかしなければならない。
このままでは、わたしの心臓は草むらに埋められてしまう。
でも、どうすればよいのだろう。
「なにかが間違っている…」と、わたしは思う。
月光はわたしの心臓から個性を奪い続ける。
わたしの心臓は黒い液体を吐き出し続ける。
時の流れが間違った方向へと加速してゆくのがわかる。だれかがわたしの心臓に土をかけてしまう…、時間が無い。
わたしのからだは凍りついたように動かない。かろうじて動かせるのは首だけだ。月と、胸の穴と、足もとに転がったものを見ることしかできない。わたしは声を出そうと試みる。しかし、喉はまるで布袋に捕らえられた巨大な蜘蛛のように、ただ不気味に蠢くばかりだ。
だれかの悪意が近づいてくるのを感じる。わたしの心臓を草むらに埋めようとしている。わたしはなにかを失いかけているのだ。そして、いまという時間がわたしを失いかけてもいる。
わたしがそのなにかを失うとき、だれかがわたしを失うのだ。
しかしなにから、時間の他になにからわたしは失われるのだろうか? いったいだれが、わたしを失うのだ?
近づいてくるのはほんとうに悪意なのだろうか。時間は無い。だが、そのだれかがこの場所に辿り着くまでは、時間が終わらないことがわたしにはわかっている。これはわたしの夢なのだから。
そう、これはわたしが見る夢なのだ。登場人物のいない、わたしの夢。ある意味では、この場所でわたしはわたしで在り、すでにわたしから失われてしまったあらゆる者で在るのだ。そして間も無くここに辿り着くだれかーーーわたしの心臓に土をかけるかも知れないーーー、そのだれかが、唯一わたし以外のこの夢の登場人物なのだ。その登場のあとで時間は終わる。この月明かりに照らされた草むらでの時間は尽きて、死に絶えて、わたしを失う。そしてほんとうは、わたしはそのだれかが、だれであるのかを知っている…。
いま、わたしは夢の中で草むらにいる。わたしの足もとで、心臓が月に照らされている。他には遥か彼方、暗くぼんやりと山の稜線が見えるのみだ。わたしは月に照らされながら、ある人物を待っている。
そのだれかは、わたしの心臓を草むらに埋めるためにやってくるのだろうか?
そのだれかは、わたしの胸にあいた穴に気づくだろうか?
やはりそのだれかは、わたしの心臓に真っ先に土をかけてーーーあるいは地面を深く掘るのが先かも知れないーーー、理不尽にこの夢を終わらせるのだろうか? この胸にぽっかりとあいた穴にも気づかずに…?
時間の流れる音の中に別の音を聴き取ろうと、わたしは耳をそばだてた。やがて背後から近づいてくるその足音が少しずつ大きくなるにつれて、時間のせせらぎはそれに呑み込まれるように衰弱してゆく。時が死にゆくのを感じる。足音が止む。わたしは目を開け、胸の穴に視線を落とし、そっとまた瞼を閉じる。
もし、彼が心臓を埋める前にこの胸の穴に気づいたなら、目覚めた時わたしは………。
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