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事故物件
しおりを挟むもうかれこれ十年ほど前のことになるだろうか。当時僕の住んでいたアパートには、女の幽霊が出た。
彼女はきちんと自分が死んでいることを認めたうえで、自身が幽霊であるという認識を自ら持って僕の前に現れた。初めて彼女が現れた時、小さくぼそぼそと喋るその声が聞き取れなくて、僕は彼女に聞き返した。失礼、もう一度よろしいでしょうか?
彼女は律儀にも、先ほどよりもはっきりと「うらめしや」と発音した。よほど誰かがうらめしかったのだろう、彼女はぽろぽろと涙を流し泣いていた。
「大丈夫ですか?」と僕は声をかけた。彼女はこくこくと頷き、どうぞ続けて、と僕に食事の続きをとるようその身振りで促した。
僕にとって幽霊との遭遇が珍しくなかったわけではない。実のところ幽霊に出遭ったのは生まれて初めての体験だった。しかし彼女が、なんというかあまりにもステレオタイプな女幽霊であったので、驚きとか恐怖心といった感情を抱く余地がなかったのである。
彼女は幽霊という概念に対して日本人が昔から持っている固定観念の、まさに標本のような存在だった。
第一声が「うらめしや」であったり、もちろん白装束であり、額には白い小さな三角の布をつけてさえいた。西暦二〇二二年にあっては絶滅危惧種に指定されるのではないかというほどの、実に潔の良い幽霊っぷりだった。
彼女とは毎日顔を合わせた。同じ部屋に住んでいるのだ、当然といえば当然のことだ。ただ、彼女は基本的には眠らず、トイレにも行かないし食事も摂らないので、生活リズムが僕と同じというわけではなかった。彼女は彼女で部屋の中をただうろつき回ったり、TVに夢中になったり、急に雨が降り出した時には外に干した洗濯物を取り込むよう教えてくれたりもした。食事中や睡眠時に無駄に驚かそうとしない、トイレや風呂にはついてこない、といったように、デリカシーも持ち合わせた女性だった。
秋晴れの日曜日には、僕は彼女と、ベランダに隣り合わせて二脚ある雨ざらしの小さなデッキチェアに二人で並んで腰掛け、突き抜けるように高く雲一つ無い秋空を見上げたものだ。金木犀の匂いが鼻を突いた。彼女の横顔が今でも忘れられない。かつては彼女にもきっと、生者としての人生があったのだろう。僕と同い年くらいのまだ若い女性だったから、やはり若くして亡くなったのかも知れない。僕は秋空の下で、彼女の死を密かに悼んだ。
それなりに楽しい毎日を送っていた僕たちだが、然るべき時がきて、僕はとうとうそのアパートを出ることになった。
一緒にこないかと訊ねてはみたけれど、彼女の目は「持ち場を離れることはできないの」と僕に語っていた。少し残念ではあったが、彼女には彼女の幽霊人生がある。僕はそれを応援したいと思った。
僕たちはそのアパートでの最後の夜、ささやかな贅沢とでも呼ぶべき食事の時間を共に過ごした。僕の門出を祝い、彼女のこれからの益々の活躍と健勝、多幸を祈って。
その後新しい住人とは仲良くやれているだろうか。そもそもちゃんと、その住人に目視され、認知されることが彼女なりにできているのだろうか。僕は今でも時々彼女のことと、自分自身がその女幽霊と暮らした奇妙な日々を思い出す。
今あの部屋には、いったいどんな人が住んでいるんだろう?
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