十五分

相原伊織

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 待ち合わせの時間まで十五分。僕は時計台の下に立ち、腕時計で時間を確認した。JR線の田端駅の改札を出て右に折れると、すぐに小さな時計台が見える。僕はそこを彼女との待ち合わせ場所に指定した。彼女はまだ姿を見せない。僕は腕時計を眺めることと、ネクタイの結び目を確かめる動作をせわしなく交互に繰り返した。
 時計台の下で腕時計に目をやるというのも妙なものだな、と僕は思った。高価なものではないけれど気に入っている腕時計。でつけていたロレックスなんかよりずっと僕の好みに合っている、押し付けがましさが微塵もない古いハミルトンの手巻き式だ。僕は持っている中で一番上等な細身の背広をまとい(これも以前で袖を通していたものじゃない、僕の好みに合ったプライベート用のスーツだ)、自分で書き上げた新しい小説と一輪のガーベラを手にそこに立っていた。ここに来る途中、恵比寿の花屋で買ったものだ。僕の敬愛する作家のフィッツジェラルドなら、あるいは彼女の年齢と同じ本数のバラの花束でも用意したかも知れない。でも僕にはこれが相応だった。バラは高すぎるし、僕には似合わない。彼女にはよく似合っただろう…でも彼女にはガーベラだって同じくらいよく似合うはずだ、おそらく。そして、僕はバラの花束よりは一輪のガーベラのほうがずっと好きだ。
 九月の木曜日の空は高く青く、魚の群れを思わせるわずかばかりの雲が午前九時四十五分の光を弾くように浮かんでいる。彼女の誕生日にふさわしい、清々しい朝だった。でもまず断っておくと、彼女は僕の恋人でもなんでもない。一度だけ二人で酒を飲んだことがあるだけで、後にも先にも面識と呼べるようなものはほとんどない。僕は知人の女の子が働いているスポーツ・バーへ、誘われて一度だけ足を運んだ。彼女はその店の従業員だった。すぐ後で、僕をその店に誘った知人を介して我々は二人きりで会うことになった。ただ、別に彼女のほうが僕のことを気に留めてくれたわけでもないし、かといって僕のほうからがっついて紹介を乞うたわけでもなかった(もっとも僕はその後で、本当に彼女に恋してしまうことになるのだが)。でもとにかく僕たちは二人で酒を飲むことになった。まあよくある話だ。
 彼女は僕よりも四つか五つ年下で、純粋な日本人なのだがデビューしたばかりの頃のヒラリー・ダフによく似ていた。働いているときの彼女はとても物静かな印象だったけれど、実際に会ってみると想像していたよりずっとバイタリティーに満ちた活発な女性だった。…まあ、そんなことはどうでもいいのだ。、我々はその日二人で酒を飲んだ。、僕はその日のことを後悔している。彼女は今日、ここに来てくれるだろうか? 腕時計に目をやる…待ち合わせの時間まで、十五分。

             ❇︎

 彼女はかなり酒が飲める人だと聞いていたし変に気をつかわせたくなかったので、まず大衆酒場で好きなだけ飲んでから、僕行きつけのバーに連れて行くことにした。というわけでその日の夕方我々は駅の改札で落ち合い、お互いに自己紹介のようなやり取りをしながら近くの居酒屋に向かって駅の階段を下りた。考えてみれば口をきいたこともないのだし、本当に初対面のようなものなのだ。そこで僕は初めて彼女の年齢を知り、想像していたよりずっと明るい気さくな女性だということも知った(その時点で僕は彼女に強く惹かれ始めていた)。店に着くと我々はまず、一杯目の飲み物と適当なつまみを何品か注文した。
 そう、ここまでは別に何の問題もない。もちろん最初のうちは緊張のしすぎで幾分ぎこちなくはあったけれど、誰だって初対面の相手と二人きりで会えば緊張するだろう。相手が綺麗な女の子ならなおさらだ。それはいい。問題はこの後だ。そこには僕の見当違いな積極性があり、軌道を外したスペースシップの如き暴走があり、目を覆いたくなるような滑稽さがあった。それは誰の目にも彼女を口説き落とそうと必死になっている痛々しい男の姿に映ったはずだ。僕はここ五年あまり、ただの一度も人を好きになったことがなかった。本物の恋愛に発展するかも知れない場面で、その相手にどう接すればいいのか、僕にはもはやわからなくなっていたのだ。夜の世界に置いてきたはずの自分の影が、亡霊のようにまだ僕にまとわりついていた。


 僕(あるいは僕の影)はその世界できわめて事務的に酒を飲み、きわめて無感動に女性を抱いてきた。その頃、それは文字通り生き残るための行為であり職務だった。その世界における僕のスタイルーーーまずは謙虚に物腰柔らかく接する。相手との距離感を確実に把握し、こちら側に手繰り寄せる。退屈させてはいけない。主導権は常に僕が握る。相手が境界線をこちら側にまたいだことを感知した時点で、僕はある種の傲慢さを水しぶきのように撒き散らしながら泳ぐように夜を越える…。彼女たちは逃れられないーーーなぜならそれを求めているから。もちろん臨機応変さを欠くことはできない。だが、おおまかに言えば彼女たちの求めているものは同じだ。要はそれを与えてやるまでの過程が異なるにすぎない。目的地なりゴールが解っているというのは実に素晴らしいことであるーーー色々な道筋を心得ていればそこに辿り着けるのだ、一晩のうちにでも。
 僕(あるいは本来の僕)はその眠らない街で、眠るようにして日々を送った。意識の回路を遮断し、あらゆる感情を自分の外側へと追いやって過ごした。仕事はうまくいき過ぎているくらいうまくいっていた。幾人もの顧客を抱え、売り上げのうちのかなりの額が僕の懐にも入ってきたーーーそしてそれは本来の僕が眠り込み、あらゆる感覚を閉ざしていたからに他ならない。

 五年だ。五年間そのようにして暮らした。短い歳月ではない。僕にはその五年間は無限に引き伸ばされた袋小路のように思えたが、気がついたときそれは終わっていた。僕は五年ぶん年をとり、本来の僕には似つかわしくない額にまで膨らんだ銀行口座と共に昼の世界に放り出されていたーーー夜が終わると朝が来て、夜が始まると多くの人々が家族の待つ自分の家に帰ってゆく、そんな世界に。


 その日最も致命的だったのは、「僕の影」でも「本来の僕」でもない、「それら二つをないまぜにしたような自分」で彼女と接したことだった。
 僕の影ーーー彼女は騙されなかっただろうし、そんな風に彼女をものにしようなんてどう考えても馬鹿げてる。でも、納得できるもっとマシな嫌われ方ができたはずじゃないか?
 本来の僕ーーーまだそれをうまく思い出せない…あまりにも長くあの世界に留まり過ぎた。でも、何も飾らなければそれでよかったんだ…今となってはそう思えるがもう遅い。
 そして、ないまぜの僕ーーー こいつはもうほとんど災厄だ。あまりにも酷い…。傲慢な部分だけが前者に似ていて、女の子を前に緊張する部分だけが後者に似ている。自分がもし彼女だったら二度と会うのは願い下げだ。
 しかし残念なことに、僕はこういう自分として彼女に会った。

             ❇︎

 彼女は大学でドイツ語を学んでいて、将来は通訳の仕事がしたいのだと話してくれた。
「ドイツが好きなんです」
そう言った後で彼女は一杯目に注文したビールを口に含んだ。
「ドイツか…。俺もドイツは好きだよ。ビールは美味いし、優れた音楽家や作家も多い。さすがに原文では読めないけどね(笑)。フランツ・カフカやトーマス・マンを読んだことは?」
僕は四杯目に頼んだジム・ビームのオン・ザ・ロックを飲み干しながら五杯目のビールを待っているところだった。
【読者に:(笑)といういかにも稚拙な文章表現を用いた理由は他でもない、どこまでもふざけ倒したこの「ないまぜの男」の滑稽さ、そして稚拙さを正確に描写するにあたり適切だと判断したからである】
「ないです」彼女は少し困ったように笑った(親切な人なのだ)。「でも本は読みますよ。高校の頃は部活ですごく忙しかったんですけど、それでも気に入った本は何度も読み返しました。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』って本。知ってますか?」
「うん、知ってるよ! 俺も何度も読み返した! ところで部活って、何やってたの?」
「サッカー部のマネージャーです。あたしがそう言うとみんな誤解するんですけど…ほら、サッカー部の男たちに囲まれてて、遊んでそうとか。だけどうちの学校ってほんとに強豪校だったから、忙しすぎてそういうのないんです。ビッチじゃないですよ」
彼女の選ぶ言葉は時折パンキッシュで、しかも彼女自身の持つ雰囲気はフェミニンだった。僕はそういう不思議なバランス感覚というか…重心の保たれ方のようなものに心を奪われた。
「そうなんだ! じゃあユーロ選手権のドイツ対ギリシャ戦観た? すげーんだわ、エジルがさ……」
彼女はまたほんの少し困ったように微笑んで、答えた。
「観ました! あたし海外のサッカー観るようになったの割と最近で、選手のこととかそこまで詳しくわからないんですけど…でも、ドイツは応援してますよ! 好きな選手を応援してるっていうんじゃなくて、チームを応援してます。マネージャー時代にスコア取ったりとかもしてたから…あたし、サッカーって全体を観ちゃうんです。試合の流れだったり。そういうの、すごい楽しいです」
彼女は今度はさっきよりもずっと楽しそうに笑った。素敵な笑顔だった。

 お手洗いに行くと言って彼女が席を立ったとき(彼女ももう結構な量の酒を飲んでいた)、僕はふと我に返った。
「『ねじまき鳥クロニクル』…?」
 ハルキ・ムラカミの長編小説、『ねじまき鳥クロニクル』。彼女が生まれるより少し前に出版された小説だが、それが当時世間的にどういう評価を受けていたのかを僕は知らない(たぶんかなり売れたのだろう)。しかしそんなことよりもずっと判然とした事実として、それは僕にとって特別な意味を持つ小説だった。「これは自分のための小説なんだ」と僕は思った。息を呑むばかりに生々しい暴力の描写、まるで深く沈み込むようにして描かれた個人の内的世界、人の孤独、心の闇…、つながり。そしてあらゆる細部ディテイルを鮮明に浮かび上がらせる映像的な文章。それらは見事なまでに入り組んだ小宇宙を形成している。そこでは語られるべき物語ナラティブが正しい言葉ヴォイスで語られ、僕たちに開かれているーーーただ、作品としての成功や技術的な良し悪しとは関係ない理由で、僕はこの物語を特別なものだと感じていたのだ。そこは僕の秘密の世界であり、同時に他の誰かの秘密の世界であるかも知れなかった。

?」

 僕のまわりの空気が全く別の空気と入れ替わったような感覚があった。「話したい…」。これまでに僕は、自らの読書体験を誰かと分かち合うという行為をほとんど経験したことがなかった。好きな小説について語り合う…それは批評とも討論とも違う、むしろ共感シンパシーに近い親密な行為であるはずだ。胸が心地よく締めつけられ、鼓動が熱く高まるのが感じられた。もうすぐ僕の前に戻ってくる少女は、あの物語をどのように読み解いたのだろう? きっとそこには古い光の陽だまりのような暖かな秘密が満ちているに違いない。僕はそれを知りたいと思った。同じように彼女にも聞いて欲しいと思ったーーー異国の教会の朝のような、やわらかな厳粛さと静謐に満ちた僕の秘密をーーー。それらを語り終えたとき、あるいは僕たちは今よりもずっと深いところまでわかり合えるかも知れない。

 思えばこの場面が、僕にとってあの日を決定づけるポイントだった。このとき身の内に湧き上がってきた衝動そのものこそが本来の僕だったのだ。


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