1 / 9
Ⅰ
しおりを挟む
叶えられなかった祈りより、叶えられた祈りのうえにより多くの涙が流されるーーーーーアヴィラの聖テレサ
(トルーマン・カポーティ『叶えられた祈り』より)
ボストンのスローカム・ロードにある古びた一軒屋に、老人と少女が住んでいた。老人は六十半ばくらいの肌の白い痩せた男で、背丈は五フィートと七インチばかり、くるくるの真っ白な巻き毛とセルロイド縁の茶色い眼鏡が特徴的だ。その眼鏡の奥に覗く瞳の光はどこか物憂げで、彼の薄い唇と相俟ってこの人物の繊細さと気難しさを窺わせる。一方、少女の年は九つか十といったあたり、老人とは対照的なさらさらと美しい黒髪を持っていた。額に落ちた前髪は少女の肌の白さをより一層ひき立ててはいたが、老人のそれのような不健康さは微塵も感じさせず、その頰は仄かな赤みをたたえ、自然なピンク色をした唇は艶やかに光沢を放ち、さながらつい先程出来上がったばかりの人形といった様相である。そして彼女の髪と同じように黒々とした大きな瞳は生気に満ち満ちて輝き、この少女の聡明さとあどけなさを、見る者に同時に印象づける。ただ、件の艶やかな唇だけがこの年にして色香を帯び始め、女の完成へと向かう梯子に早くも手を掛けたといったところだ。
この美しい少女と孤独な老人は共に一つ屋根の下で暮らしてこそいるが、家族ではない。つまり、孫と祖父でも娘と父親でも姪と伯父でもなく、まして敬虔な信徒と慈悲深い司祭でも、愛し合う恋人同士でも、内縁の夫婦でももちろんない。ただ、二人は友達なのだ。それも、お互いにとってほとんど唯一の、親友であった。
「ヘルター、起きて。今年こそ雪が積もる前に、薪を集めに行かなくっちゃ。今朝一緒に行く約束でしょう?」
綺麗な黒髪を後ろで束ねた少女が、老人の寝室に顔だけ覗かせながら言った。彼の寝室のドアはもともと建て付けが悪く、三日前に取り外して以来そのままだった。
「ん…、そうだったかな。今起きるよ」
朝食の卵を焼く匂いと香ばしいコーヒーの薫りが、細かな粒子となって彼のベッドまで漂ってきた。ドアがないのもいいものだな…とぼんやり考えていたが、チャーリーが一人で朝食の支度をしていることに気がついて老人は飛び起きた。朝食はいつも二人で作るのだが、昨晩は遅くまで本を読んでいて寝坊してしまった。彼の粗末なベッドの枕元には、表紙がぼろぼろになったチェーホフの短編集がそっと置かれている。
台所へ起きていくと、チーク材のキッチンテーブルの上にはすでに二人分の朝食が湯気を立てて並んでいた。
「おはようチャーリー、ごめんよ」
「おはようヘルター。いいのよ。でも、お珍しいわね。あなたが寝坊するなんて、初めてじゃないかしら」
「夜更かししてしまったんだ。本を読んでいてね…」ヘルターはきまりが悪そうにもじもじしながら席に着いた。「頂くよ、……ん、…君は相変わらずコーヒーを淹れるのがとても上手だね、美味しいよ」
今度はチャーリーが照れる番だった。「卵も上手に焼けたのよ、召し上がって」
ヘルターというのは老人の本当の名前ではない。というか、本当の名前は誰も知らなかった。二人が出逢った頃、チャーリーが彼の巻き毛をヘルタースケルターみたいと面白がって言ったことからこのあだ名がついた。もっとも、そのあだ名で呼ぶ者はチャーリーしかいないし、どんな呼び名ででも彼のことを呼ぶ者は他に誰一人としていなかった。スローカム・ロードに住む人々は彼を無口で愛想の悪い変わり者と見做していたし、彼のほうもそういった馴れ合いのコミュニティにすすんで関わり合おうとはしなかった。人づきあいが苦手な彼には友達もおらず、チャーリーと出逢うまでの彼はあらゆる時計のように孤独だった。
友達になりたての頃、チャーリーはよくこの老人に質問を浴びせかけたものだった。彼の過去のこと、本当の名前は? 年はいくつ? 誰かを好きになったことってある? 奥さんはいる? パパとママはどこにいるの? …でもそれもほんの最初のうちだけで、チャーリーのほうから色々と詮索するのはやめてしまった。こんな質問を浴びせるたびに、ヘルターは悲しそうな目をして黙り込んでしまったから。そして、しばらく後でこう言う。
「ぼくの名前は今のところヘルターで、今のところ君よりもずっと年上で、今のところ男だ。君と会う前のことは、忘れてしまった」…それだけ言ってしまうと、またひとしきり黙り込んだ。〝今のところ〟というのが彼の口癖であるらしかった。
そんな彼でもチャーリーの前では、好きなことの話題になると不思議な程よくしゃべった。
「ぼくは、チェーホフやディッケンズの本と、コーヒーと、クリスマスが好きだ。君は?」
「わたしは…絵を描くことと、熱い紅茶と、猫が好き。コーヒーは飲めないわ……でも、クリスマスはね、大好き!」
「ほんとうかい! ぼくも猫は好きだよ。うちに年とった雄猫がいるんだ。彼には生まれたときから名前があってね、ニコライ三世っていうんだ。ぼくにとって三代目の猫でね。彼もクリスマスは大好きだ。ボストンの新鮮な魚を丸々一匹貰えるからね。一年に一度しか買ってやれないんだけれど…」
「素敵な名前ね! ねぇ、ヘルター…、あなたのおうちに行きたいわ、その猫さんとも会いたいし…行ってもいいかしら?」
そのようにして彼らは友達になった。三年前、ボストンに雪が降り始める直前の出来事だ。
(トルーマン・カポーティ『叶えられた祈り』より)
ボストンのスローカム・ロードにある古びた一軒屋に、老人と少女が住んでいた。老人は六十半ばくらいの肌の白い痩せた男で、背丈は五フィートと七インチばかり、くるくるの真っ白な巻き毛とセルロイド縁の茶色い眼鏡が特徴的だ。その眼鏡の奥に覗く瞳の光はどこか物憂げで、彼の薄い唇と相俟ってこの人物の繊細さと気難しさを窺わせる。一方、少女の年は九つか十といったあたり、老人とは対照的なさらさらと美しい黒髪を持っていた。額に落ちた前髪は少女の肌の白さをより一層ひき立ててはいたが、老人のそれのような不健康さは微塵も感じさせず、その頰は仄かな赤みをたたえ、自然なピンク色をした唇は艶やかに光沢を放ち、さながらつい先程出来上がったばかりの人形といった様相である。そして彼女の髪と同じように黒々とした大きな瞳は生気に満ち満ちて輝き、この少女の聡明さとあどけなさを、見る者に同時に印象づける。ただ、件の艶やかな唇だけがこの年にして色香を帯び始め、女の完成へと向かう梯子に早くも手を掛けたといったところだ。
この美しい少女と孤独な老人は共に一つ屋根の下で暮らしてこそいるが、家族ではない。つまり、孫と祖父でも娘と父親でも姪と伯父でもなく、まして敬虔な信徒と慈悲深い司祭でも、愛し合う恋人同士でも、内縁の夫婦でももちろんない。ただ、二人は友達なのだ。それも、お互いにとってほとんど唯一の、親友であった。
「ヘルター、起きて。今年こそ雪が積もる前に、薪を集めに行かなくっちゃ。今朝一緒に行く約束でしょう?」
綺麗な黒髪を後ろで束ねた少女が、老人の寝室に顔だけ覗かせながら言った。彼の寝室のドアはもともと建て付けが悪く、三日前に取り外して以来そのままだった。
「ん…、そうだったかな。今起きるよ」
朝食の卵を焼く匂いと香ばしいコーヒーの薫りが、細かな粒子となって彼のベッドまで漂ってきた。ドアがないのもいいものだな…とぼんやり考えていたが、チャーリーが一人で朝食の支度をしていることに気がついて老人は飛び起きた。朝食はいつも二人で作るのだが、昨晩は遅くまで本を読んでいて寝坊してしまった。彼の粗末なベッドの枕元には、表紙がぼろぼろになったチェーホフの短編集がそっと置かれている。
台所へ起きていくと、チーク材のキッチンテーブルの上にはすでに二人分の朝食が湯気を立てて並んでいた。
「おはようチャーリー、ごめんよ」
「おはようヘルター。いいのよ。でも、お珍しいわね。あなたが寝坊するなんて、初めてじゃないかしら」
「夜更かししてしまったんだ。本を読んでいてね…」ヘルターはきまりが悪そうにもじもじしながら席に着いた。「頂くよ、……ん、…君は相変わらずコーヒーを淹れるのがとても上手だね、美味しいよ」
今度はチャーリーが照れる番だった。「卵も上手に焼けたのよ、召し上がって」
ヘルターというのは老人の本当の名前ではない。というか、本当の名前は誰も知らなかった。二人が出逢った頃、チャーリーが彼の巻き毛をヘルタースケルターみたいと面白がって言ったことからこのあだ名がついた。もっとも、そのあだ名で呼ぶ者はチャーリーしかいないし、どんな呼び名ででも彼のことを呼ぶ者は他に誰一人としていなかった。スローカム・ロードに住む人々は彼を無口で愛想の悪い変わり者と見做していたし、彼のほうもそういった馴れ合いのコミュニティにすすんで関わり合おうとはしなかった。人づきあいが苦手な彼には友達もおらず、チャーリーと出逢うまでの彼はあらゆる時計のように孤独だった。
友達になりたての頃、チャーリーはよくこの老人に質問を浴びせかけたものだった。彼の過去のこと、本当の名前は? 年はいくつ? 誰かを好きになったことってある? 奥さんはいる? パパとママはどこにいるの? …でもそれもほんの最初のうちだけで、チャーリーのほうから色々と詮索するのはやめてしまった。こんな質問を浴びせるたびに、ヘルターは悲しそうな目をして黙り込んでしまったから。そして、しばらく後でこう言う。
「ぼくの名前は今のところヘルターで、今のところ君よりもずっと年上で、今のところ男だ。君と会う前のことは、忘れてしまった」…それだけ言ってしまうと、またひとしきり黙り込んだ。〝今のところ〟というのが彼の口癖であるらしかった。
そんな彼でもチャーリーの前では、好きなことの話題になると不思議な程よくしゃべった。
「ぼくは、チェーホフやディッケンズの本と、コーヒーと、クリスマスが好きだ。君は?」
「わたしは…絵を描くことと、熱い紅茶と、猫が好き。コーヒーは飲めないわ……でも、クリスマスはね、大好き!」
「ほんとうかい! ぼくも猫は好きだよ。うちに年とった雄猫がいるんだ。彼には生まれたときから名前があってね、ニコライ三世っていうんだ。ぼくにとって三代目の猫でね。彼もクリスマスは大好きだ。ボストンの新鮮な魚を丸々一匹貰えるからね。一年に一度しか買ってやれないんだけれど…」
「素敵な名前ね! ねぇ、ヘルター…、あなたのおうちに行きたいわ、その猫さんとも会いたいし…行ってもいいかしら?」
そのようにして彼らは友達になった。三年前、ボストンに雪が降り始める直前の出来事だ。
0
あなたにおすすめの小説
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
夫に愛想が尽きたので離婚します
しゃーりん
恋愛
次期侯爵のエステルは、3年前に結婚した夫マークとの離婚を決意した。
マークは優しいがお人好しで、度々エステルを困らせたが我慢の限界となった。
このままマークがそばに居れば侯爵家が馬鹿にされる。
夫を捨ててスッキリしたお話です。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる