あるクリスマスの風景

相原伊織

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       Ⅰ

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 叶えられなかった祈りより、叶えられた祈りのうえにより多くの涙が流されるーーーーーアヴィラの聖テレサ

 (トルーマン・カポーティ『叶えられた祈り』より)



 ボストンのスローカム・ロードにある古びた一軒屋に、老人と少女が住んでいた。老人は六十半ばくらいの肌の白い痩せた男で、背丈は五フィートと七インチばかり、くるくるの真っ白な巻き毛とセルロイドぶちの茶色い眼鏡が特徴的だ。その眼鏡の奥にのぞく瞳の光はどこか物憂げで、彼の薄い唇と相俟あいまってこの人物の繊細さと気難しさをうかがわせる。一方、少女の年は九つかとおといったあたり、老人とは対照的なさらさらと美しい黒髪を持っていた。ひたいに落ちた前髪は少女の肌の白さをより一層ひき立ててはいたが、老人のそれのような不健康さは微塵みじんも感じさせず、そのほおほのかな赤みをたたえ、自然なピンク色をした唇はつややかに光沢を放ち、さながらつい先程出来上がったばかりの人形といった様相である。そして彼女の髪と同じように黒々とした大きな瞳は生気に満ち満ちて輝き、この少女の聡明そうめいさとあどけなさを、見る者に同時に印象づける。ただ、くだんの艶やかな唇だけがこの年にして色香いろかを帯び始め、女の完成へと向かう梯子はしごに早くも手を掛けたといったところだ。
 この美しい少女と孤独な老人は共に一つ屋根の下で暮らしてこそいるが、家族ではない。つまり、孫と祖父でも娘と父親でも姪と伯父でもなく、まして敬虔けいけんな信徒と慈悲深い司祭でも、愛し合う恋人同士でも、内縁の夫婦でももちろんない。ただ、二人は友達なのだ。それも、お互いにとってほとんど唯一の、親友であった。


「ヘルター、起きて。今年こそ雪が積もる前に、まきを集めに行かなくっちゃ。今朝一緒に行く約束でしょう?」
綺麗な黒髪を後ろで束ねた少女が、老人の寝室に顔だけ覗かせながら言った。彼の寝室のドアはもともと建て付けが悪く、三日前に取り外して以来そのままだった。
「ん…、そうだったかな。今起きるよ」
朝食の卵を焼く匂いと香ばしいコーヒーの薫りが、細かな粒子となって彼のベッドまで漂ってきた。ドアがないのもいいものだな…とぼんやり考えていたが、チャーリーが一人で朝食の支度をしていることに気がついて老人は飛び起きた。朝食はいつも二人で作るのだが、昨晩は遅くまで本を読んでいて寝坊してしまった。彼の粗末なベッドの枕元には、表紙がぼろぼろになったチェーホフの短編集がそっと置かれている。
 台所へ起きていくと、チーク材のキッチンテーブルの上にはすでに二人分の朝食が湯気を立てて並んでいた。
「おはようチャーリー、ごめんよ」
「おはようヘルター。いいのよ。でも、お珍しいわね。あなたが寝坊するなんて、初めてじゃないかしら」
「夜更かししてしまったんだ。本を読んでいてね…」ヘルターはきまりが悪そうにもじもじしながら席に着いた。「頂くよ、……ん、…君は相変わらずコーヒーをれるのがとても上手だね、美味しいよ」
今度はチャーリーが照れる番だった。「卵も上手に焼けたのよ、召し上がって」


 ヘルターというのは老人の本当の名前ではない。というか、本当の名前は誰も知らなかった。二人が出逢った頃、チャーリーが彼の巻き毛をヘルタースケルターみたいと面白がって言ったことからこのあだ名がついた。もっとも、そのあだ名で呼ぶ者はチャーリーしかいないし、どんな呼び名ででも彼のことを呼ぶ者は他に誰一人としていなかった。スローカム・ロードに住む人々は彼を無口で愛想の悪い変わり者と見做みなしていたし、彼のほうもそういった馴れ合いのコミュニティにすすんで関わり合おうとはしなかった。人づきあいが苦手な彼には友達もおらず、チャーリーと出逢うまでの彼はあらゆる時計のように孤独だった。
 友達になりたての頃、チャーリーはよくこの老人に質問を浴びせかけたものだった。彼の過去のこと、本当の名前は? 年はいくつ? 誰かを好きになったことってある? 奥さんはいる? パパとママはどこにいるの? …でもそれもほんの最初のうちだけで、チャーリーのほうから色々と詮索せんさくするのはやめてしまった。こんな質問を浴びせるたびに、ヘルターは悲しそうな目をして黙り込んでしまったから。そして、しばらく後でこう言う。
「ぼくの名前は今のところヘルターで、今のところ君よりもずっと年上で、今のところ男だ。君と会う前のことは、忘れてしまった」…それだけ言ってしまうと、またひとしきり黙り込んだ。〝今のところ〟というのが彼の口癖であるらしかった。
 そんな彼でもチャーリーの前では、好きなことの話題になると不思議な程よくしゃべった。
「ぼくは、チェーホフやディッケンズの本と、コーヒーと、クリスマスが好きだ。君は?」
「わたしは…絵を描くことと、熱い紅茶と、猫が好き。コーヒーは飲めないわ……でも、クリスマスはね、大好き!」
「ほんとうかい! ぼくも猫は好きだよ。うちに年とった雄猫がいるんだ。生まれたときから名前があってね、ニコライ三世っていうんだ。ぼくにとって三代目の猫でね。彼もクリスマスは大好きだ。ボストンの新鮮な魚を丸々一匹貰えるからね。一年に一度しか買ってやれないんだけれど…」
「素敵な名前ね! ねぇ、ヘルター…、あなたのおうちに行きたいわ、その猫さんとも会いたいし…行ってもいいかしら?」
そのようにして彼らは友達になった。三年前、ボストンに雪が降り始める直前の出来事だ。

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