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3.蒼のまなざし
しおりを挟む私室で少ない荷をほどいていた頃だった。
外で馬のいななきがし、土の匂いをまとった風が窓を揺らす。
ほどなくして、廊下がざわ、と小さく動いた。
(……誰か、戻ってきた?)
扉の外でイリアが控え、静かに頭を下げる。
「ルーチェ様。辺境伯様がお戻りです」
胸がきゅっと高鳴った。 ついに、初めてのお顔合わせ――
(どのような方なのだろう)
私は深呼吸をし、イリアに案内されて広間へと向かった。
その扉が開いた瞬間、空気が変わった。
そこに立っていたのは、戦場の埃をまとった、みすぼらしい格好の男性。
外套はこびりついた泥と古い血の汚れにまみれ、袖には焦げ跡。あちこちにつぎはぎの跡も見える。
けれど――その髪は、陽の落ちた広間でさえ銀の刃のように強く輝き、蒼い瞳は深い湖の底のように冷たく、美しかった。
質素な装いでも堂々と立つその姿は、息を呑むような威厳がある。
(……この方が……ダリウス・ヴァルト辺境伯様……)
「……ルーチェ・シェリフォード嬢だな」
低く落ち着いた声に、広間全体の空気が引き締まるように感じた。
「は、はい。辺境伯様。シェリフォード公爵家の娘の、ルーチェ・シェリフォードでございます。このたびは私のような者をお引き受けくださり、ご面倒をおかけ致します」
モゴモゴ言う私に、辺境伯様は一歩こちらに歩み寄る。しっかりとした歩き方だった。
「遅くなった。備蓄庫を見回っていた。……迎えなかった点は許してほしい」
その言い方は、無駄がなく、きっぱりしていて。
けれど冷たくはなく、むしろ誠実だった。
「いえ……お気遣い、恐れ入ります。辺境伯様」
「……」
「……」
広間に、沈黙が落ちた。
「……夕餉にする。腹は減っているだろう。来てくれ」
「はい」
案内された食堂のテーブルには、素朴な料理が並んでいた。
野菜と豆のスープ、香草で焼かれた鶏肉、地元で取れたであろう芋。
王都の豪奢な食卓を知る令嬢なら、物足りないと不満を漏らしそうな献立だ。
けれど私は、一口食べて思わず目を伏せる。
(……おいしい……)
味付けは控えめなのに、野菜の甘さや肉の旨みがしっかりしていて、体がじんと温まっていく。
それに、これは豪華な食事の冷たい残り物じゃない。
私のために、用意してくださったあたたかい料理……
「合わないか」 辺境伯様が問いかける。
「いえ、とても……おいしいです」
その瞬間、彼の蒼い瞳がわずかに柔らいだ。
「そうか。それなら良い」
短く、それだけ。 けれど、胸の奥がふわりと温かくなる。
(“良い”と……そう言ってくださるのね)
やがて、辺境伯様はまっすぐに私を見て、生活の決まり事を簡潔に告げ始めた。
「さて、ルーチェ嬢。あなたは邸内では自由に過ごしていい。外出も、行動を制限する気はない。ただし、残念ながら王都より警備体制の行き届いていない地であることに留意して行動してくれ」
「承知しました」
「支度金の範囲であれば、報告なく金を使って構わない。判断に迷うときは執事のカイネに相談しろ」
「はい、辺境伯様」
きっぱりとした言い切りなのに、強制ではなく“確認”のように聞こえるのが不思議だった。
ちら、と見ると、辺境伯様の背後にいる赤髪の男が軽く手を振っている。出迎えの時に話した方だった。
まだ若いのに、やはり執事だったのだとわかる。
「結婚式についてだが――金銭面の問題がある。式は行わず、神官を呼んで申請を済ませるだけにする。……理解してくれ」
「もちろんです。私には、十分すぎるほどです」
辺境伯様は黙ってひとつ頷く。
その仕草すら簡潔で、無駄な動きがひとつもない。
(……この人は、必要なことだけを話す方なのね。でも……冷たさはないわ)
彼の無口さは、拒絶ではなく誠実さから来るもの――そんな気がした。
(でも……こんなに自由でいいの? こんなに丁寧に扱われていいの?)
倉庫暮らしをしてきた私にとって、 「邸内は好きに過ごせ」「金も自由に」などという扱いは、もはや夢物語のようだった。おまけに、この領地の経営状況が余裕のあるものではないことも知っている。
思わず手が止まる。
それを見た辺境伯様が、少しだけ眉を寄せた。
「……不満か」
「い、いえ! 滅相もございません、辺境伯様。その……あまり、良くしてくださるので、驚いてしまって……」
私は思わず深く頭を下げる。
「感謝申し上げます」
言い切ると、辺境伯様はわずかに目を瞬かせた。
その後、短い吐息とともに椅子の背にもたれる。
「……あなたは不平を言うと思っていた。王都の令嬢、それもあなたはあの公爵家の出身だろう。裕福な生活から、一転窮屈で質素な暮らしになる。おまけに一生に一度の結婚式もドレスもないのだから」
「そんな……とんでもございません」
本心だった。 倉庫に隠れて息を潜める生活と比べれば、この邸はどこも温かく、優しい。
(本当に……贅沢すぎるくらい)
「……辺境伯様。「厄災の烙印」を持つ私が、この邸に存在して……本当に、本当に、よろしいのですか?」
「問題ない。俺は、そういう迷信は信じない」
ほとんど間を置かずに答えが返ってきた。
事務的でも、突き放すでもない。
ただ淡々と、しかし力強く。
「無論、警戒はしている。しかし「厄災」やらの内容は曖昧だ。不運など偶然の積み重ねだし、厄災が起こったとして、烙印持ちがその中心点になるかも分からない」
「……調べて、くださったのですか?」
「ああ。過去の記録もすべて見た。だが信頼に足る記述は一つもなかった。確かに厄災があったという記録もある。だがそれは、烙印持ちのいた世でも、いない世でも、賢王の世でも乱王の世でも……災害発生の確率としては同じことだ。連関は見出せず、迷信に近い。……と、俺は考えた」
「……」
(私と同じように、厄災について調べてくださった方がいらしたんだ)
蒼い瞳が、まっすぐに私を見つめる。
その視線は冷たく見えて、実際は驚くほど誠実だった。
「それにーー」
辺境伯様は少しだけ言葉を区切る。
それから、自嘲気味に溜め息をついた。
「あなたに添えられた多額の持参金は、俺にとって非常に魅力的だった」
「……お金」
「そうだな。「厄災」の危険性と天秤にかけて、文字通りお釣りがくる、と考えた。……だから、悪いが活用させてもらうつもりだ。ここは金が必要だからな。遠慮はしない」
あまりに真正面からの言い方に、私は瞬きした。
「愛ある結婚ではないのだから、互いに探り合う必要もないだろう。あなたも自由に過ごしてくれ。ただ、公爵家とは「厄災」を引き受けることを約束している。婚約不履行と文句をつけられない程度の体面は保ちたいものだ。お互いのためにな」
言い聞かせるような、警戒するような物言い。
でも――
(……こんなに、正直に言ってくださるのね)
どこか、ふっと心が軽くなる。 打算でも偽りでもない、ありのままの言葉。
「ありがとうございます、辺境伯様。持参金のことは、もちろん……お役に立つのでしたら。嬉しいです。契約は守ります、逃げたりもしません。……私は、毎日の食事と寝床が頂ければ、それで。身に余るお取り扱いです」
頭を下げると、彼の蒼い瞳が静かに細まった。
「……そう言ってくれるならこちらは助かるが」
その声音は変わらず低くきっぱりとしているのに、ほんのわずか、心配が混じっているように聞こえた。
「……俺の考えは今言った通りだ。しかし、妻として、それ以上望むことはないのか。あなたは」
「いえ……何も。これ以上は何も望みません。」
(辺境伯様は……少なくとも、私のことを、怖がっていないんだわ)
頭を下げた私に、彼はわずかに目を伏せた。
銀の髪が揺れ、蒼い瞳が蝋燭の炎を映して静かに光った。
「それと、部屋についてだが。俺は遠出して帰らない日も多いし時間も不安定だ。あなたは案内した客間を使ってくれ。……古く狭い部屋ですまないが」
少しだけ間があった。 その声音は、突き放すでもなく、引き寄せるでもなかった。
まるで必要事項の確認のように、淡々としていた。
「ありがとうございます。……あのお部屋、私はとても、好ましく思っております」
自然とそう答えていた。
礼儀ではなく、本音から出た言葉だった。
それに、部屋を分けることの意味。ここに来る前、考えないわけがなかった。
婚姻。夫婦の義務。夜——。
彼は私を求めもしないが、強いることもなかった。
(言われた通り、愛のある結婚じゃない。形だけの妻)
やっぱり、私がここにいるのは、愛情でも期待でもない。
王命とお金。お飾りの妻として置くことで得られる、何かしらの利得。
必要だから迎えただけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
(そうよね。私には……元から値打ちなんてないもの)
十四歳で「厄災」の烙印を押されて以来、望まれることも、求められることもなかった。
誰かに触れられないことは、むしろ救いでさえある。
(それに、厄介払いされた娘だからと軽んじて乱暴なことをする方でなくて、本当によかったわ。寧ろ、身に余る礼節を頂いてる……)
そう思う自分が、どこか惨めで、おかしかったけれど、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
銀器が触れあう音だけが、広い食堂に響いた。
私たちはそれ以上、言葉を交わさなかった。
けれど、沈黙は不快ではなかった。
検分するような視線も、値踏みするような侮蔑も、そこにはなかった。
(愛されることとは、一生縁がないのでしょうね)
けれど、それでもいい。
ここで静かに生きていけるなら—— 誰も傷つけずに済むのなら、それで十分だと思った。
「私のようなものを受け入れてくださり、ありがとうございます。辺境伯様。できる限り静かに、ご迷惑にならぬよう努めます」
「……」
辺境伯様は、その言葉には答えなかった。
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