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4.信頼と不信
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夕食が終わった後。
「……道中、疲れただろう。今日は休むといい。何か困れば、遠慮なく言ってくれ。イリアにでも構わない」
その言葉の端々に、乱暴さも、見栄もなかった。
ただ、相手を思いやるために必要な最低限の言葉だけを、まっすぐに向けてくれる――
そういう人なのだと、分かった。
「ありがとうございます、辺境伯様。様々のお心遣いに深く感謝申し上げます」
辺境伯様は席を立つとすぐ、控えていたカイネと短く言葉を交わし、まっすぐ執務室の方へ歩いていった。
「カイネ。報告の続きだ。魔晶石の搬入の件、すぐに確認したい」
「了解しました、旦那様」
ふたりの声音は低く、早く、張り詰めていた。
その背が扉の向こうに消えるまで、私は動けなかった。
(戻ったばかりなのに、まだ休まれないのね)
本当に、息をつく暇さえないのだろう。恐らく今の時間も、私と顔をあわせるために捻り出したのだと想像した。
最前線を指揮し、領の行政まで抱え、さらに王都との折衝もある。
辺境伯様の背負うものの重さに思いを巡らせると、胸が締めつけられた。
(この領地は……そこまで逼迫しているのかしら)
「厄災」の私さえ受け入れるほどに。
この国は一夫一妻制だ。辺境伯様は、私と結婚してしまえば、離縁しない限り妻は迎えられなくなる。
婚姻の負担を覚悟してまで、助けが必要なのだろうか。
「ルーチェ様、こちらへ。お部屋にご案内します」
控えていたイリアが、静かに声をかけてくれた。
石造りの廊下を歩く。
夜の城館は驚くほど静かだった。
「……あの、イリア」
「はい」
「辺境伯様は、いつもあのように休まず働かれているの」
「ええ。寝るより書類を追われて、休むより鍛錬と戦いを優先されて……もっとも、今の時期は領地の冬支度もありますし、特にお忙しいとも言えます。もう少し冬が深まり安定してくれば、余裕も出るかと」
さらりと言うが、それは明らかに尋常ではない働き方だった。
私の想像よりずっと、この地は厳しい。
(私の持参金は、きっと、本当に必要だったのだ)
少しだけ背筋が伸びた。
無駄であってはならない。
せめて足手まといにはならないように、と強く思った。
寝室へ案内してくれたイリアに、私は胸に手を当て、思い切ってお願いを口にした。
「……イリア。もしよければ、辺境伯様のこと……それに、この辺境伯領のことも……もっと教えてほしいの。私は何も知らずにのこのこやって来て、失礼をしてしまって……」
無知を責められるのではと、少し身構えていた。
だが、イリアは表情を変えないまま、静かに口を開いた。
「では、簡単にご説明いたしますね」
イリアは淡々と、しかし丁寧に語り始めた。
「ヴァルト辺境伯領は、魔獣の大量発生に悩まされていました。その戦いの最中に飢饉と疫病が起こり、先代──旦那様のお父上様が急逝され……旦那様が急遽、すべてを継ぐことになったのです。それが十一年前ですから……まだ旦那様は十七歳になったばかりでいらっしゃいました」
私は息を呑んだ。
(そんな……若くして、そんな状況を背負われたなんて)
「もっとも、この領地の慢性的な借金問題は、それ以前から変わりません」
「……」
「爵位を継がれて以来、旦那様は先頭に立って戦場を走り、辺境伯家のなけなしの財産を切り売りされ、復興に奔走されていました。王都にも支援を求めましたが充分ではなく……旦那様の質素な生活はその頃から変わりません。お陰で領は近年どうにか小康を得ましたが、経済状況は依然として苦しいままです」
「……だから、結婚を……」
私は、「だから「厄災」との婚姻なんて引き受けたのね」、というつもりだったのだが、イリアはそれを「結婚式をしないつもりだ」という意味だと取ったらしい。
「はい。厳寒期には雪に閉ざされ、移動もままならない痩せた土地です。華やかな結婚式を行えば、領民たちは寧ろ喜ぶのではないかと、カイネも私も進言はしたのですが。やはり、旦那様は自らに関わることは差し控えると……領主が領民より良いものを身につけるわけにはいかない、とまで仰る方なのです。どうか、ご理解くださいませ」
イリアは少しだけ眉を下げた。
その仕草は控えめで、誠実さが滲んでいた。
「もちろんです。むしろ……そんな状況で私を迎えてくださったことの方が、あまりにも……」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
(私なんかを……烙印ひとつで避けられてきた私を……)
イリアは、私の表情を見て、淡く微笑んだ。
「ルーチェ様は丁寧なお方ですね。旦那様も……きっと悪いようにはなさいません」
その言い方が妙に確信めいていて、胸がさらに熱くなる。
「……ありがとう、イリア」
「差し出がましいことを申しました。では──そろそろお休みの支度をいたしましょう」
イリアに背中を押されるように、私はベッドへ向かう。
怖さよりも、静かに満ちる安心が深かった。
「……おやすみなさいませ、ルーチェ様」
「ええ。イリアも……おやすみなさい」
扉が静かに閉まり、部屋にひとりきりになる。
遠く、風が山肌を渡る音がかすかに聞こえる。
(……あたたかい。なんて、穏やかな夜だろう)
私はそっと枕に頬を押し当て、深く息を吸った。
◆
深夜のヴァルト辺境伯邸。
静まり返った廊下の奥、執務室にはランプの灯りだけが揺れていた。
書類をめくる音が淡々と響く。
銀髪は夜でも光を帯び、澄み渡った蒼い瞳は疲れを見せない。
彼の近くには、執事カイネと、遅れてやって来た侍女イリアが控えている。
やがてダリウスがペンを止めると、カイネが静かに声を落とした。
「……何か気がかりでございますか?」
カイネがそっと問う。
ダリウスは机に肘をつき、短く答えた。
「ルーチェ嬢のことだ」
イリアのまぶたがわずかに動く。
「……やはりお気にかかりますか」
「気にかけていないと言えば嘘になる。……仮にも、妻になる令嬢だ」
「旦那様が婚姻の権利を売るって言い出した時は何事かと思いましたからね、俺らも。……まあでも、我儘そうな方でなくて何よりでした。俺、結構無礼にしてみたつもりなんですけど、全然反応がなくて。公爵令嬢なら怒るかと思ったんですけどね」
「……勝手なことを」
「すみません。でも、旦那様だって随分はっきり「金のため」って念押ししてたじゃないですか」
カイネの言葉に、ダリウスはペンを置いた。
ルーチェのもたらす持参金をどう配分すべきか、練り上げられた計画が書類に記載され、そこにはサインが入っている。
「それは事実だからな」
「そうですけど」
「……そうだな、だが、確かに想像していた「厄災」とは、ずいぶん違った。控えめで、丁寧すぎる……あれほど礼節をわきまえた令嬢は珍しいな。当家のありさまに文句のひとつくらいは言うだろうと思っていたが」
ダリウスはイリアに視線をやる。
「侍女としてはどう見た。私室での様子は」
「……」
イリアは、少しだけ躊躇し、しかし職務として報告を始めた。
「お支度をお手伝いした時……ルーチェ様は、旦那様の仰る通り丁寧で、そして……」
「……」
「とても、怯えておられるのだと、思いました」
イリアはぐっと拳を握っている。
「私のような使用人にまで、何かとすぐに謝られて、感謝を示されて……正直なところ、旦那様やこの領地を軽んじる様子が見られるのではないかと危惧していました。ですが、そんな様子もなく……ましてや、「厄災」らしい様子など、一片もありません」
「それはこちらも理解している」 ダリウスは伏せていた視線をあげ、静かに言った。
「不運を呼ぼうと企む者の目ではなかった。むしろ──だが、烙印の効果は未知数だ。俺は無意味だとは考えたが……」
「厄災」を引き取ってくれるのならと示された持参金の額。
それだけあれば領内の施設を幾つ建て直せるかと考えたダリウスは、「厄災」の危険を調査した上でルーチェを受け入れたのだ。
「私が以前、王都の知り合いに聞いた話では……ルーチェ様に品を贈った商家が、その翌月に倒産したと。また、ルーチェ様に茶会の招待状を送った伯爵家で火事が起こり……“あの娘が笑うと、誰かが不幸になる”とまで囁かれていました」
イリアは胸を痛めているようでもあった。カイネも続ける。
「王都に疫病が広がった折、たまたまルーチェ様が祈っておられた直後だったため……“祈りが災厄を呼んだ”などという酷い噂まで。挙げ句の果てには──“あの令嬢と目を合わせた騎士が戦場で討たれる”などという、根も葉もない世迷言もあったとか。近年の公爵領の不作も、ルーチェ様が原因だと」
ダリウスの蒼い瞳が、わずかに鋭くなった。
「……馬鹿げた話ばかりだ」
「はい。ですが、王都では信じられていました。公爵家のご家族でさえ……」
イリアの声が少しだけ揺れた。
「……そのお噂を、受け入れておられたようで」
「本当だとすれば、惨い話です」 カイネがわずかに顔を歪める。
ダリウスは短く頷いた。
「まったく信じるに値しない。魔物一匹いない、お綺麗な王都貴族に相応しい純朴さだな。もし不運や災害と烙印持ちの動きが逐一連動しているのなら、この領地には烙印持ちが百人はいないと辻褄が合わないだろうが」
舌打ちしして足を組んだダリウスに、「旦那様、お気持ちはわかりますが」とカイネが咳払いした。
(あれほど礼を尽くすようになるまで、どれほど追い詰めたのか……)
彼の胸に浮かんだのは、夕食の席で見せたルーチェの控えめな笑顔。
やわらかなブルネットの髪と、思慮深そうな翠の瞳が印象的だった。
確かに、あの瞳の奥には資料でも目にした「厄災の烙印」が見つけられるが――とても、信じられない。
しかし……
「……俺は、迷信は信じない。だが、領民の生命が最優先だ。もし噂が現実と結びつくような“兆し”が見えたなら──ルーチェ嬢はこの地から引き離す」
「承知致しました」
イリアが深く頭を下げる。
「ですが……旦那様」
カイネが口を開く。
「僭越ながら──我々一同、旦那様には幸せなご結婚をしていただきたく存じます」
イリアも深く頭を下げた。
「どうか……結論を急ぎすぎず、お心のままに」
ダリウスは少し驚いたように瞬き、そして小さく苦笑した。
「……どうなるかはまだ分からん。だが、あの令嬢が静かに暮らせる環境だけは、確保するつもりだ。互いのためにな」
使用人たちは顔を上げ、安堵の色を浮かべた。
「……道中、疲れただろう。今日は休むといい。何か困れば、遠慮なく言ってくれ。イリアにでも構わない」
その言葉の端々に、乱暴さも、見栄もなかった。
ただ、相手を思いやるために必要な最低限の言葉だけを、まっすぐに向けてくれる――
そういう人なのだと、分かった。
「ありがとうございます、辺境伯様。様々のお心遣いに深く感謝申し上げます」
辺境伯様は席を立つとすぐ、控えていたカイネと短く言葉を交わし、まっすぐ執務室の方へ歩いていった。
「カイネ。報告の続きだ。魔晶石の搬入の件、すぐに確認したい」
「了解しました、旦那様」
ふたりの声音は低く、早く、張り詰めていた。
その背が扉の向こうに消えるまで、私は動けなかった。
(戻ったばかりなのに、まだ休まれないのね)
本当に、息をつく暇さえないのだろう。恐らく今の時間も、私と顔をあわせるために捻り出したのだと想像した。
最前線を指揮し、領の行政まで抱え、さらに王都との折衝もある。
辺境伯様の背負うものの重さに思いを巡らせると、胸が締めつけられた。
(この領地は……そこまで逼迫しているのかしら)
「厄災」の私さえ受け入れるほどに。
この国は一夫一妻制だ。辺境伯様は、私と結婚してしまえば、離縁しない限り妻は迎えられなくなる。
婚姻の負担を覚悟してまで、助けが必要なのだろうか。
「ルーチェ様、こちらへ。お部屋にご案内します」
控えていたイリアが、静かに声をかけてくれた。
石造りの廊下を歩く。
夜の城館は驚くほど静かだった。
「……あの、イリア」
「はい」
「辺境伯様は、いつもあのように休まず働かれているの」
「ええ。寝るより書類を追われて、休むより鍛錬と戦いを優先されて……もっとも、今の時期は領地の冬支度もありますし、特にお忙しいとも言えます。もう少し冬が深まり安定してくれば、余裕も出るかと」
さらりと言うが、それは明らかに尋常ではない働き方だった。
私の想像よりずっと、この地は厳しい。
(私の持参金は、きっと、本当に必要だったのだ)
少しだけ背筋が伸びた。
無駄であってはならない。
せめて足手まといにはならないように、と強く思った。
寝室へ案内してくれたイリアに、私は胸に手を当て、思い切ってお願いを口にした。
「……イリア。もしよければ、辺境伯様のこと……それに、この辺境伯領のことも……もっと教えてほしいの。私は何も知らずにのこのこやって来て、失礼をしてしまって……」
無知を責められるのではと、少し身構えていた。
だが、イリアは表情を変えないまま、静かに口を開いた。
「では、簡単にご説明いたしますね」
イリアは淡々と、しかし丁寧に語り始めた。
「ヴァルト辺境伯領は、魔獣の大量発生に悩まされていました。その戦いの最中に飢饉と疫病が起こり、先代──旦那様のお父上様が急逝され……旦那様が急遽、すべてを継ぐことになったのです。それが十一年前ですから……まだ旦那様は十七歳になったばかりでいらっしゃいました」
私は息を呑んだ。
(そんな……若くして、そんな状況を背負われたなんて)
「もっとも、この領地の慢性的な借金問題は、それ以前から変わりません」
「……」
「爵位を継がれて以来、旦那様は先頭に立って戦場を走り、辺境伯家のなけなしの財産を切り売りされ、復興に奔走されていました。王都にも支援を求めましたが充分ではなく……旦那様の質素な生活はその頃から変わりません。お陰で領は近年どうにか小康を得ましたが、経済状況は依然として苦しいままです」
「……だから、結婚を……」
私は、「だから「厄災」との婚姻なんて引き受けたのね」、というつもりだったのだが、イリアはそれを「結婚式をしないつもりだ」という意味だと取ったらしい。
「はい。厳寒期には雪に閉ざされ、移動もままならない痩せた土地です。華やかな結婚式を行えば、領民たちは寧ろ喜ぶのではないかと、カイネも私も進言はしたのですが。やはり、旦那様は自らに関わることは差し控えると……領主が領民より良いものを身につけるわけにはいかない、とまで仰る方なのです。どうか、ご理解くださいませ」
イリアは少しだけ眉を下げた。
その仕草は控えめで、誠実さが滲んでいた。
「もちろんです。むしろ……そんな状況で私を迎えてくださったことの方が、あまりにも……」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
(私なんかを……烙印ひとつで避けられてきた私を……)
イリアは、私の表情を見て、淡く微笑んだ。
「ルーチェ様は丁寧なお方ですね。旦那様も……きっと悪いようにはなさいません」
その言い方が妙に確信めいていて、胸がさらに熱くなる。
「……ありがとう、イリア」
「差し出がましいことを申しました。では──そろそろお休みの支度をいたしましょう」
イリアに背中を押されるように、私はベッドへ向かう。
怖さよりも、静かに満ちる安心が深かった。
「……おやすみなさいませ、ルーチェ様」
「ええ。イリアも……おやすみなさい」
扉が静かに閉まり、部屋にひとりきりになる。
遠く、風が山肌を渡る音がかすかに聞こえる。
(……あたたかい。なんて、穏やかな夜だろう)
私はそっと枕に頬を押し当て、深く息を吸った。
◆
深夜のヴァルト辺境伯邸。
静まり返った廊下の奥、執務室にはランプの灯りだけが揺れていた。
書類をめくる音が淡々と響く。
銀髪は夜でも光を帯び、澄み渡った蒼い瞳は疲れを見せない。
彼の近くには、執事カイネと、遅れてやって来た侍女イリアが控えている。
やがてダリウスがペンを止めると、カイネが静かに声を落とした。
「……何か気がかりでございますか?」
カイネがそっと問う。
ダリウスは机に肘をつき、短く答えた。
「ルーチェ嬢のことだ」
イリアのまぶたがわずかに動く。
「……やはりお気にかかりますか」
「気にかけていないと言えば嘘になる。……仮にも、妻になる令嬢だ」
「旦那様が婚姻の権利を売るって言い出した時は何事かと思いましたからね、俺らも。……まあでも、我儘そうな方でなくて何よりでした。俺、結構無礼にしてみたつもりなんですけど、全然反応がなくて。公爵令嬢なら怒るかと思ったんですけどね」
「……勝手なことを」
「すみません。でも、旦那様だって随分はっきり「金のため」って念押ししてたじゃないですか」
カイネの言葉に、ダリウスはペンを置いた。
ルーチェのもたらす持参金をどう配分すべきか、練り上げられた計画が書類に記載され、そこにはサインが入っている。
「それは事実だからな」
「そうですけど」
「……そうだな、だが、確かに想像していた「厄災」とは、ずいぶん違った。控えめで、丁寧すぎる……あれほど礼節をわきまえた令嬢は珍しいな。当家のありさまに文句のひとつくらいは言うだろうと思っていたが」
ダリウスはイリアに視線をやる。
「侍女としてはどう見た。私室での様子は」
「……」
イリアは、少しだけ躊躇し、しかし職務として報告を始めた。
「お支度をお手伝いした時……ルーチェ様は、旦那様の仰る通り丁寧で、そして……」
「……」
「とても、怯えておられるのだと、思いました」
イリアはぐっと拳を握っている。
「私のような使用人にまで、何かとすぐに謝られて、感謝を示されて……正直なところ、旦那様やこの領地を軽んじる様子が見られるのではないかと危惧していました。ですが、そんな様子もなく……ましてや、「厄災」らしい様子など、一片もありません」
「それはこちらも理解している」 ダリウスは伏せていた視線をあげ、静かに言った。
「不運を呼ぼうと企む者の目ではなかった。むしろ──だが、烙印の効果は未知数だ。俺は無意味だとは考えたが……」
「厄災」を引き取ってくれるのならと示された持参金の額。
それだけあれば領内の施設を幾つ建て直せるかと考えたダリウスは、「厄災」の危険を調査した上でルーチェを受け入れたのだ。
「私が以前、王都の知り合いに聞いた話では……ルーチェ様に品を贈った商家が、その翌月に倒産したと。また、ルーチェ様に茶会の招待状を送った伯爵家で火事が起こり……“あの娘が笑うと、誰かが不幸になる”とまで囁かれていました」
イリアは胸を痛めているようでもあった。カイネも続ける。
「王都に疫病が広がった折、たまたまルーチェ様が祈っておられた直後だったため……“祈りが災厄を呼んだ”などという酷い噂まで。挙げ句の果てには──“あの令嬢と目を合わせた騎士が戦場で討たれる”などという、根も葉もない世迷言もあったとか。近年の公爵領の不作も、ルーチェ様が原因だと」
ダリウスの蒼い瞳が、わずかに鋭くなった。
「……馬鹿げた話ばかりだ」
「はい。ですが、王都では信じられていました。公爵家のご家族でさえ……」
イリアの声が少しだけ揺れた。
「……そのお噂を、受け入れておられたようで」
「本当だとすれば、惨い話です」 カイネがわずかに顔を歪める。
ダリウスは短く頷いた。
「まったく信じるに値しない。魔物一匹いない、お綺麗な王都貴族に相応しい純朴さだな。もし不運や災害と烙印持ちの動きが逐一連動しているのなら、この領地には烙印持ちが百人はいないと辻褄が合わないだろうが」
舌打ちしして足を組んだダリウスに、「旦那様、お気持ちはわかりますが」とカイネが咳払いした。
(あれほど礼を尽くすようになるまで、どれほど追い詰めたのか……)
彼の胸に浮かんだのは、夕食の席で見せたルーチェの控えめな笑顔。
やわらかなブルネットの髪と、思慮深そうな翠の瞳が印象的だった。
確かに、あの瞳の奥には資料でも目にした「厄災の烙印」が見つけられるが――とても、信じられない。
しかし……
「……俺は、迷信は信じない。だが、領民の生命が最優先だ。もし噂が現実と結びつくような“兆し”が見えたなら──ルーチェ嬢はこの地から引き離す」
「承知致しました」
イリアが深く頭を下げる。
「ですが……旦那様」
カイネが口を開く。
「僭越ながら──我々一同、旦那様には幸せなご結婚をしていただきたく存じます」
イリアも深く頭を下げた。
「どうか……結論を急ぎすぎず、お心のままに」
ダリウスは少し驚いたように瞬き、そして小さく苦笑した。
「……どうなるかはまだ分からん。だが、あの令嬢が静かに暮らせる環境だけは、確保するつもりだ。互いのためにな」
使用人たちは顔を上げ、安堵の色を浮かべた。
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