【本編完結】厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです

あおまる三行

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埋もれた祈りを秘める雪の章

7.冬の街へ

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 翌朝、カイネに呼び止められた。

 廊下で足を止めた私に、彼は声を低く落として言った。
「旦那様を、街へお連れいただけませんか。働き詰めでして、少し休ませたいのです。護衛もつきますので、ご心配なく。騎士団からセレスをつけましょう」
 思わず瞬きをした。
「私が、お誘いするの……?」
「ええ。旦那様は、我々が休めと言っても休みませんので。婚約者のルーチェ様の頼みなら聞いてくださるかと。苦肉の策でございまして」
 カイネは演技めいた仕草で大袈裟に嘆いてみせるが、真剣なのだろう。
 そんな大それた、と口を開きかけたけれど、頼ってもらえたことも、私にできることがあるかもしれないという事実も、嬉しかった。
「わかりました。やってはみます」
 カイネはほっとしたように微笑んだ。
「助かります」
 その言い方がとても穏やかで、嬉しかった。


 ◆

 
 その日の午後、私は執務室を訪れた。

 辺境伯様はまだ書類に向かっていた。

 声をかけると、彼は顔を上げ、意外そうに目を瞬かせた。
「外出か」
「はい。もしお時間が許すなら、ご一緒いただければ……嬉しい、です。とても……」
 ほんの少しだけ、うつむきながら言った。

 拒まれても仕方ないと思った。私が願い出ることなど、おこがましいのかもしれない。

 けれど、彼はペンを置き、考える間もなく「行こう」と席を立った。
「少し驚いた。あなたが俺と外へ出たいと言うとは思わなかった」
「……誰かと外出するのは、成人してから、初めてなのです」
 私の言葉に、彼は本当に驚いた顔をした。
「初めて……?」
「はい」
 短い沈黙。
「わかった。今日は俺が案内しよう」
 その声が、少しだけ柔らかかった。


 目立たない外套を借り、二人で城下町へ向かった。
 部下を連れた女性騎士のセレスは、会話が聞こえないくらいの距離まで離れて、そっとついて来てくれる。


 冬支度を進める人々の声が混ざり合う。

 小さな店が並び、木製の看板がきしむ音、革靴を打つ職人の槌、干し肉と焼いた麦の香ばしい匂い。

 目に映るすべてが新鮮だった。
「この街は、王都の方面に向かう街道の手前にある。領内ではそれなりに大きな交易拠点ではあるが、厳寒期は基本的に孤立する」
「備蓄を重んじる造りなのですね」
 辺境伯様の説明に頷く。誰かに街を案内してもらうなんて初めてで、胸が高鳴った。
「話が早いな」
「倉庫が道沿いに多くあるので……それに、住まいは内側に寄せて、暖炉を共有できる形だから。温熱の魔晶石を節約できる構造にしているのではないかと……」
「気づいたのか。よく見ている」
「……ほ、本で、読んだだけで。実際に見られて、その……嬉しい、です」
「そうか」
 褒められて息が詰まった。

 嬉しくて、苦しくて、上手く言葉が出なかった。
 
 通りを歩くうち、辺境伯様がふと足を止めた。

 素朴な屋台。小さな鍋から、甘い香りが漂っていた。

 麦を煮詰め、雪のように粉砂糖を少しだけまぶした焼き菓子。

 庶民の子どもたちが楽しそうに並んでいる。
 辺境伯様はほんの少しだけ目を細めた。

 その表情を初めて見た気がする。

 淡い灯のような、静かな温度の笑顔だった。
 
 領民を何より大切にされる方だもの、子供たちの笑顔もお好きなのだろう。
「……お好きなのですか?」
 尋ねると、彼はわずかに肩をすくめた。
「昔、子供の時分には、よく食べたな」
(あ……お菓子のことだと、思われたのね)
 素っ気ない答え。
 でも、その横顔を見て胸があたたかくなった。
 彼がひとつ買い、私に差し出した。
「食べるか」
「はい。いただきます」
 指先が少し触れて、心臓が跳ねた。

 素朴な焼き菓子はほろほろと崩れ、麦の香りが広がり、やさしい甘さが舌に残った。
「……おいしいです」
「ああ」
「辺境伯様はお召し上がりにならないのですか?」
「いや。俺は、……いい」
 曇り空は灰色だったけれど、胸の中には、淡い灯がともっていた。

 たったこれだけのことで、こんなにも世界が変わるなんて知らなかった。
 この時間を、少しでも長く覚えていたいと思った。


 店々の灯りが一つずつともり始め、人々の足音が家路へ向かう合図のように規則正しく響く。

 冷え始めた風の切れ味に、冬が近いことを思い知らされる。
 外套の袖を指先でつまみながら、私はそっと口を開いた。
「こんなに長く外を歩いたのは、子どもの頃以来です」
 声は自然と柔らかくなった。

 胸の奥で、今日の楽しさがまだ静かに灯っている。
「俺も、そうかもしれない」
 辺境伯様は空を仰ぎ、目を細めた。

 西の空は薄紫に沈み、風が彼の銀髪を揺らした。
 人通りは少なくなり、風は少し冷たさを増している。
 
「あなたの、昔の……王都での暮らしは……どのようなものだったのだろうか」
 不意にかけられた問いは、詮索ではなく、ただ知ろうとする誠実な響きだった。
「……たいしたものではありません。ただ、王都と聞いて想像するような華やかさとは、縁遠い生活でした」
「公爵家は王都でも有数の裕福な貴族だろう」
「ええ。ただ……私の立場は少し違いました」
 歩きながら、言葉を選ぶ。
「公爵家の本来の跡取りは、母でした。ですが母は急に……亡くなりました。私が「厄災の烙印」持ちだったことも、きっと心労になったのだと思います」
 夜の匂いが近づく。
「実父はそれより早くに亡くなっていて、……身体が弱ってしまっていた母が、実務をこなしてもらうために新しく迎えていたのが義父です。義父は、財産管理の面で多大な貢献をしてくれましたが……私や兄とは折り合いが悪く、妹が生まれてからは……」
 自嘲を含む笑みが自然と溢れた。
「家中の視線はそちらへ向きました」
「……」
「妹はとても、魅力的でしたから。地味で暗い私と違って可愛らしくて、華やかで、愛嬌があって……当然です。「厄災」の姉がいなければ、もう結婚していておかしくないでしょうに、悪いことをしました」
 ダリウス様は黙って耳を傾けている。
 批判も慰めも言わず、ただ受け止めてくれていた。
「そうですね……そんな風に、「厄災」の噂は、色んなことを私のせいにしました。壊れ物も、流行り病も、不作も、誰かの怪我も……そして、私自身も、私のせいなのだろうと思いました。きっと私の意志にかかわらず、厄災は私の周りに不幸を撒き散らすのだと……」
 風が頬を撫でる。
「だから、倉庫に身を置くことにしました。……閉じ込められたわけではありません。私が望んだのです」
 少しだけ、胸の奥が温かいものに触れる。
「……良かったのです。静かで、誰の邪魔にもならず、本を読む時間がありました。あの時間がなければ、私はきっと、何も考えないまま生きていたと思います」
 ダリウス様の足が一度だけわずかに止まった。
「それを「よかった」と言えるのか」
 低く、静かな声だった。
「はい。そう思えるだけで、私は十分に救われています」
 
 しばらく歩いたあと、彼はぽつりと言った。
「カイネの言った似たもの同士というのは、こういうことなのかもしれないな」
 淡々とした声。でも、その奥に微かな苦みがあった。
「だが……」
 俺とは違う、と辺境伯様は呟いた。
「……あなたは強い」
 その一言は、慰めよりもずっと温かかった。
 私を弱者扱いしない言葉だった。
「ありがとうございます」
 
 それから辺境伯様は、空気を変えるようにふっと肩をすくめた。
「今日は付き合わせたな。どうせカイネあたりに「俺を休ませろ」と言われたんだろう。それとも、セレスか、イリアか……」
 見透かされていたことに、少し驚いた。

 けれど、否定するより先に、胸の奥から言葉がこぼれた。
「いえ。寧ろ、私は楽しんでばかりで。それに……辺境伯様にお休みいただきたかったのは、私も同じです」
 歩みながら、私たちの影が並んで伸びた。

 触れない距離。
 けれど、その距離の静けさが心地よかった。
「……この時期の多忙には慣れている。大丈夫だ」
 そう言った声は、少しだけ硬かった。
「……慣れていらっしゃるから、余計に、なのだと思います」
 私は夕空に向かって、小さく息を吐いた。
「わかっていても、慣れていても、……感じたものがなくなるわけではありませんもの」
 自分でも驚くほど静かな声だった。
 そう言いながら、はっとした。
 その言葉は、他でもない――自分自身へ向けていた。
 私は、つらかったのだ。
 倉庫にいた日々も、噂に晒された時間も。
「……」
 沈黙が落ちた。

 風が、干し草の匂いを運んだ。

 町外れへ向かう道には、もう人影は少ない。
 ふと、横を歩く辺境伯様の気配が変わった。
 
「……そういうものなのか」
 低く、遠くから絞り出すような声。
 心がすっかり傷みに慣れてしまった者の、防衛線。
 傷つく前に、自分で距離を置いてしまう癖。
 私は顔を上げた。彼はまっすぐ前を見ていた。不安になって下を向く。
「……申し訳ありません。出しゃばったことを言いました」
 その言葉に、彼は少しだけ息を吐いた。

 まるで、張り詰めた糸がほんの少し緩んだかのようだった。
「いや……そんなことは、ない。……ありがとう」
 その一言は、驚くほどあたたかかった。

 胸の奥の小さな灯が、そっと揺れた。
 夕闇が降りた。

 私たちの影は寄り添うように重なり、風の音だけが二人の間を流れていった。

 
 ◆


 夜更け、辺境伯邸の執務室には、紙の擦れる音だけが落ちていた。

 窓の外では風が鳴り、遠くの森で獣が吠える声がかすかに響く。

 ダリウスは机に積まれた帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
 ひとつの会話が、どうにも頭から離れなかった。

 昼間、ルーチェが語った、淡々とした過去のことだ。
 倉庫での暮らし。

 義父との不和。

 母の急逝。

 兄の追放。
 華やかな妹と、幽閉される自らの十年……

 そして、すべてを「よかった」と口にした静かな強さ。
(……あれを、弱さと言うのは違うな)
 初対面の印象――色の薄い、萎縮した雰囲気。怯えて俯く表情。不安げに周囲を確認する視線。

 あれだけ見れば「地味で自信のない娘」という評価で終わる。
 だが違う。

 今日の彼女は、淡々と過酷な現実を述べながら、そのどれにも押し潰されていなかった。
(あの境遇で、あんなふうに物を考えられるか……)
 
 普通なら折れ、この世を呪う。

 だが彼女は、ひとりで耐え、学び、観察し、静かに前へ進んできた。
 強い――そう思ったのは、ダリウスが久しく使っていない言葉だった。
 彼は椅子から立ち、暖炉の前へ歩く。

 炎が小さく揺れ、冬の気配を孕んだ空気を追い払っている。
(だが……強いだけではないな)
 冬仕度の件で彼女がそっと提案した内容――

 物資の整理方法。ありふれた野草を使った茶。
 古い資料にある、王国北辺の開拓民の越冬法の整理と取りまとめ。
 そしてそれを、今の領の状況に照らし合わせて「もしお役に立つなら」と控えめに提案した態度。
 あれは知識だけでは出てこない。

 状況を理解する洞察、他者への配慮、場を乱さない慎み――
どれが欠けても成り立たない。
 
 ダリウスは腕を組み、視線を落とした。
 王都でのルーチェの扱いを思えば、彼女の噂――「不幸を呼ぶ」という下らない言説が流布していた理由にも察しがつく。

 だがこれまで、屋敷で起きた出来事に目立った不運はなかった。

 決して顔色はよくないが、礼節を欠かず、誰に対しても丁寧で、控えめで……
(……優先すべきは領民の生活だ。その判断は変えない……)
 領主としての判断は、揺らがせない。それは負うべき責務だ。
 だが。
(それでも……ルーチェ嬢は……)
 彼女の眼差しには、他人を遠ざける棘はない。
 怯えた瞳の奥にあったのは深い思慮だった。

 痛みを知る、静かな強さ。
「……」
 警戒は解かない。「厄災」の真偽も見極めねばならない。

 だが――彼の中の評価は、もはや王都の風評とは違っていた。
 ルーチェ・シェリフォード。

 少なくとも彼女自身は「厄災」とは程遠い。だが、ただの可哀想な令嬢でもない。
 控えめに、気づかれぬように、自分の意思で立っている女性だ。
 そこまで考えて、ダリウスは一度頭を振った。
 
 ――愚かなことを。
 ――俺の考えより何より、彼女自身が、俺のことを疎んでいるだろう。
 ――婚姻の権利すら平気で金に換える男だと……
 ――そして、自分から自由な婚姻の権利を奪った男だと。
 
 ダリウスは新しい書類を手に取る前に、もう一度だけ小さく息を吐いた。
(……煩わされる。想定していたのとは、違うかたちで……)
 炎が落ち着き、部屋が深い静けさに包まれた。
 
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