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7.冬の街へ
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翌朝、カイネに呼び止められた。
廊下で足を止めた私に、彼は声を低く落として言った。
「旦那様を、街へお連れいただけませんか。働き詰めでして、少し休ませたいのです。護衛もつきますので、ご心配なく。騎士団からセレスをつけましょう」
思わず瞬きをした。
「私が、お誘いするの……?」
「ええ。旦那様は、我々が休めと言っても休みませんので。婚約者のルーチェ様の頼みなら聞いてくださるかと。苦肉の策でございまして」
カイネは演技めいた仕草で大袈裟に嘆いてみせるが、真剣なのだろう。
そんな大それた、と口を開きかけたけれど、頼ってもらえたことも、私にできることがあるかもしれないという事実も、嬉しかった。
「わかりました。やってはみます」
カイネはほっとしたように微笑んだ。
「助かります」
その言い方がとても穏やかで、嬉しかった。
◆
その日の午後、私は執務室を訪れた。
辺境伯様はまだ書類に向かっていた。
声をかけると、彼は顔を上げ、意外そうに目を瞬かせた。
「外出か」
「はい。もしお時間が許すなら、ご一緒いただければ……嬉しい、です。とても……」
ほんの少しだけ、うつむきながら言った。
拒まれても仕方ないと思った。私が願い出ることなど、おこがましいのかもしれない。
けれど、彼はペンを置き、考える間もなく「行こう」と席を立った。
「少し驚いた。あなたが俺と外へ出たいと言うとは思わなかった」
「……誰かと外出するのは、成人してから、初めてなのです」
私の言葉に、彼は本当に驚いた顔をした。
「初めて……?」
「はい」
短い沈黙。
「わかった。今日は俺が案内しよう」
その声が、少しだけ柔らかかった。
目立たない外套を借り、二人で城下町へ向かった。
部下を連れた女性騎士のセレスは、会話が聞こえなくらいの距離まで離れて、そっとついて来てくれる。
冬支度を進める人々の声が混ざり合う。
小さな店が並び、木製の看板がきしむ音、革靴を打つ職人の槌、干し肉と焼いた麦の香ばしい匂い。
目に映るすべてが新鮮だった。
「この街は、王都の方面に向かう街道の手前にある。領内ではそれなりに大きな交易拠点ではあるが、厳寒期は基本的に孤立する」
「備蓄を重んじる造りなのですね」
ダリウス様の説明に頷く。誰かに街を案内してもらうなんて初めてで、胸が高鳴った。
「話が早いな」
「倉庫が道沿いに多くあるので……それに、住まいは内側に寄せて、暖炉を共有できる形だから。温熱の魔晶石を節約できる構造にしているのではないかと……」
「気づいたのか。よく見ている」
「……ほ、本で、読んだだけで。実際に見られて、その……嬉しい、です」
「そうか」
褒められて息が詰まった。
嬉しくて、苦しくて、上手く言葉が出なかった。
通りを歩くうち、辺境伯様がふと足を止めた。
素朴な屋台。小さな鍋から、甘い香りが漂っていた。
麦を煮詰め、雪のように粉砂糖を少しだけまぶした焼き菓子。
庶民の子どもたちが楽しそうに並んでいる。
辺境伯様はほんの少しだけ目を細めた。
その表情を初めて見た気がする。
淡い灯のような、静かな温度の笑顔だった。
領民を何より大切にされる方だもの、子供たちの笑顔もお好きなのだろう。
「……お好きなのですか?」
尋ねると、彼はわずかに肩をすくめた。
「昔、子供の時分には、よく食べたな」
(あ……お菓子のことだと、思われたのね)
素っ気ない答え。
でも、その横顔を見て胸があたたかくなった。
彼がひとつ買い、私に差し出した。
「食べるか」
「はい。いただきます」
指先が少し触れて、心臓が跳ねた。
素朴な焼き菓子はほろほろと崩れ、麦の香りが広がり、やさしい甘さが舌に残った。
「……おいしいです」
「ああ」
「辺境伯様はお召し上がりにならないのですか?」
「いや。俺は、……いい」
雲に埋められた空は灰色だったけれど、胸の中には、淡い灯がともっていた。
たったこれだけのことで、こんなにも世界が変わるなんて知らなかった。
この時間を、少しでも長く覚えていたいと思った。
夕暮れの光が、城下町の屋根を淡い橙に染めていた。
店々の灯りが一つずつともり始め、人々の足音が家路へ向かう合図のように規則正しく響く。
冷え始めた風の切れ味に、冬が近いことを思い知らされる。
外套の袖を指先でつまみながら、私はそっと口を開いた。
「こんなに長く外を歩いたのは、子どもの頃以来です」
声は自然と柔らかくなった。
胸の奥で、今日の楽しさがまだ静かに灯っている。
「俺も、そうかもしれない」
辺境伯様は空を仰ぎ、目を細めた。
西の空は薄紫に沈み、風が彼の銀髪を揺らした。
人通りは少なくなり、風は少し冷たさを増している。
「あなたの、昔の……王都での暮らしは……どのようなものだったのだろうか」
不意にかけられた問いは、詮索ではなく、ただ知ろうとする誠実な響きだった。
「……たいしたものではありません。ただ、王都と聞いて想像するような華やかさとは、縁遠い生活でした」
「公爵家は王都でも有数の裕福な貴族だろう」
「ええ。ただ……私の立場は少し違いました」
歩きながら、言葉を選ぶ。
「公爵家の本来の跡取りは、母でした。ですが母は急に……亡くなりました。私が「厄災の烙印」持ちだったことも、きっと心労になったのだと思います」
夜の匂いが近づく。
「実父はそれより早くに亡くなっていて、……身体が弱ってしまっていた母が、実務をこなしてもらうために新しく迎えていたのが義父です。義父は、財産管理の面で多大な貢献をしてくれましたが……私や兄とは折り合いが悪く、妹が生まれてからは……」
自嘲を含む笑みが自然と溢れた。
「家中の視線はそちらへ向きました」
「……」
「妹はとても、魅力的でしたから。地味で暗い私と違って可愛らしくて、華やかで、愛嬌があって……当然です。「厄災」の姉がいなければ、もう結婚していておかしくないでしょうに、悪いことをしました」
ダリウス様は黙って耳を傾けている。
批判も慰めも言わず、ただ受け止めてくれていた。
「そうですね……そんな風に、「厄災」の噂は、色んなことを私のせいにしました。壊れ物も、流行り病も、不作も、誰かの怪我も……そして、私自身も、私のせいなのだろうと思いました。きっと私の意志にかかわらず、厄災は私の周りに不幸を撒き散らすのだと……」
風が頬を撫でる。
「だから、倉庫に身を置くことにしました。……閉じ込められたわけではありません。私が望んだのです」
少しだけ、胸の奥が温かいものに触れる。
「……良かったのです。静かで、誰の邪魔にもならず、本を読む時間がありました。あの時間がなければ、私はきっと、何も考えないまま生きていたと思います」
ダリウス様の足が一度だけわずかに止まった。
「それを“よかった”と言えるのか」
低く、静かな声だった。
「はい。そう思えるだけで、私は十分に救われています」
しばらく歩いたあと、彼はぽつりと言った。
「カイネの言った“似たもの同士”というのは、こういうことなのかもしれないな」
淡々とした声。でも、その奥に微かな苦みがあった。
「だが……」
俺とは違う、と辺境伯様は呟いた。
「……あなたは強い」
その一言は、慰めよりもずっと温かかった。
私を弱者扱いしない言葉だった。
「ありがとうございます」
それから辺境伯様は、空気を変えるようにふっと肩をすくめた。
「今日は付き合わせたな。どうせカイネあたりに“俺を休ませろ”と言われたんだろう。それとも、セレスか、イリアか……」
見透かされていたことに、少し驚いた。
けれど、否定するより先に、胸の奥から言葉がこぼれた。
「いえ。寧ろ、私は楽しんでばかりで。それに……辺境伯様にお休みいただきたかったのは、私も同じです」
歩みながら、私たちの影が並んで伸びた。
触れない距離。
けれど、その距離の静けさが心地よかった。
「……この時期の多忙には慣れている。大丈夫だ」
そう言った声は、少しだけ硬かった。
「……慣れていらっしゃるから、余計に、なのだと思います」
私は夕空に向かって、小さく息を吐いた。
「わかっていても、慣れていても、……感じたものがなくなるわけではありませんもの」
自分でも驚くほど静かな声だった。
そう言いながら、はっとした。
その言葉は、他でもない――自分自身へ向けていた。
私は、つらかったのだ。
倉庫にいた日々も、噂に晒された時間も。
「……」
沈黙が落ちた。
風が、干し草の匂いを運んだ。
町外れへ向かう道には、もう人影は少ない。
ふと、横を歩く辺境伯様の気配が変わった。
「……そういうものなのか」
低く、遠くから絞り出すような声。
心がすっかり傷みに慣れてしまった者の、防衛線。
傷つく前に、自分で距離を置いてしまう癖。
私は顔を上げた。彼はまっすぐ前を見ていた。不安になって下を向く。
「……申し訳ありません。出しゃばったことを言いました」
その言葉に、彼は少しだけ息を吐いた。
まるで、張り詰めた弦がほんの少し緩んだかのようだった。
「いや……そんなことは、ない。……ありがとう」
その一言は、驚くほどあたたかかった。
胸の奥の小さな灯が、そっと揺れた。
夕闇が降りた。
私たちの影は寄り添うように重なり、風の音だけが二人の間を流れていった。
◆
夜更け、辺境伯邸の執務室には、紙の擦れる音だけが落ちていた。
窓の外では風が鳴り、遠くの森で獣が吠える声がかすかに響く。
ダリウスは机に積まれた帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
ひとつの会話が、どうにも頭から離れなかった。
昼間、ルーチェが語った、淡々とした過去のことだ。
倉庫での暮らし。
義父との不和。
母の急逝。
兄の追放。
華やかな妹と、幽閉される自らの十年……
そして、すべてを“よかった”と口にした静かな強さ。
(……あれを、ひ弱と言うのは違うな)
初対面の印象――色の薄い、萎縮した雰囲気。怯えて俯く表情。不安げに周囲を確認する視線。
あれだけ見れば「地味で自信のない娘」という評価で終わる。
だが違う。
今日の彼女は、淡々と過酷な現実を述べながら、そのどれにも押し潰されていなかった。
(あの境遇で、あんなふうに物を考えられるか……)
普通なら折れ、この世を呪う。
だが彼女は、ひとりで耐え、学び、観察し、静かに前へ進んできた。
強い――そう思ったのは、ダリウスが久しく使っていない言葉だった。
彼は椅子から立ち、暖炉の前へ歩く。
炎が小さく揺れ、冬の気配を孕んだ空気を追い払っている。
(だが……強いだけではないな)
冬仕度の件で彼女がそっと提案した内容――
物資の整理方法。ありふれた野草を使った茶。
古い資料にある、王国北辺の開拓民の越冬法の整理と取りまとめ。
そしてそれを、今の領の状況に照らし合わせて「もしお役に立つなら」と控えめに提案した態度。
あれは知識だけでは出てこない。
状況を理解する洞察、他者への配慮、場を乱さぬ慎み―― どれが欠けても成り立たない。
ダリウスは腕を組み、視線を落とした。
王都でのルーチェの扱いを思えば、彼女の噂――“不幸を呼ぶ”という下らない言説が流布していた理由もわかる。
だがこれまで、屋敷で起きた出来事に目立った不運はなかった。
決して顔色はよくないが、礼節を欠かず、誰に対しても丁寧で、控えめで……
(……優先すべきは領民の生活だ。その判断は変えない……)
領主としての判断は、揺らがせない。それは負うべき責務だ。
だが。
(それでも……ルーチェ嬢は……)
彼女の眼差しには、他人を遠ざける棘はない。
怯えた瞳の奥にあったのは深い思慮だった。
痛みを知る、静かな強さ。
「……」
警戒は解かない。「厄災」の真偽も見極めねばならない。
だが――彼の中の評価は、もはや王都の風評とは違っていた。
ルーチェ・シェリフォード。
少なくとも彼女自身は「厄災」とは程遠い。だが、ただの可哀想な令嬢でもない。
控えめに、気づかれぬように、自分の意思で立っている女性だ。
そこまで考えて、ダリウスは一度頭を振った。
――愚かなことを。
――俺の考えより何より、彼女自身が、俺のことを疎んでいるだろう。
――婚姻の権利すら平気で金に換える男だと……
――そして、自分から自由な婚姻の権利を奪った男だと。
ダリウスは新しい書類を手に取る前に、もう一度だけ小さく息を吐いた。
(……煩わされる。想定していたのとは、違うかたちで……)
炎が落ち着き、部屋が深い静けさに包まれた。
廊下で足を止めた私に、彼は声を低く落として言った。
「旦那様を、街へお連れいただけませんか。働き詰めでして、少し休ませたいのです。護衛もつきますので、ご心配なく。騎士団からセレスをつけましょう」
思わず瞬きをした。
「私が、お誘いするの……?」
「ええ。旦那様は、我々が休めと言っても休みませんので。婚約者のルーチェ様の頼みなら聞いてくださるかと。苦肉の策でございまして」
カイネは演技めいた仕草で大袈裟に嘆いてみせるが、真剣なのだろう。
そんな大それた、と口を開きかけたけれど、頼ってもらえたことも、私にできることがあるかもしれないという事実も、嬉しかった。
「わかりました。やってはみます」
カイネはほっとしたように微笑んだ。
「助かります」
その言い方がとても穏やかで、嬉しかった。
◆
その日の午後、私は執務室を訪れた。
辺境伯様はまだ書類に向かっていた。
声をかけると、彼は顔を上げ、意外そうに目を瞬かせた。
「外出か」
「はい。もしお時間が許すなら、ご一緒いただければ……嬉しい、です。とても……」
ほんの少しだけ、うつむきながら言った。
拒まれても仕方ないと思った。私が願い出ることなど、おこがましいのかもしれない。
けれど、彼はペンを置き、考える間もなく「行こう」と席を立った。
「少し驚いた。あなたが俺と外へ出たいと言うとは思わなかった」
「……誰かと外出するのは、成人してから、初めてなのです」
私の言葉に、彼は本当に驚いた顔をした。
「初めて……?」
「はい」
短い沈黙。
「わかった。今日は俺が案内しよう」
その声が、少しだけ柔らかかった。
目立たない外套を借り、二人で城下町へ向かった。
部下を連れた女性騎士のセレスは、会話が聞こえなくらいの距離まで離れて、そっとついて来てくれる。
冬支度を進める人々の声が混ざり合う。
小さな店が並び、木製の看板がきしむ音、革靴を打つ職人の槌、干し肉と焼いた麦の香ばしい匂い。
目に映るすべてが新鮮だった。
「この街は、王都の方面に向かう街道の手前にある。領内ではそれなりに大きな交易拠点ではあるが、厳寒期は基本的に孤立する」
「備蓄を重んじる造りなのですね」
ダリウス様の説明に頷く。誰かに街を案内してもらうなんて初めてで、胸が高鳴った。
「話が早いな」
「倉庫が道沿いに多くあるので……それに、住まいは内側に寄せて、暖炉を共有できる形だから。温熱の魔晶石を節約できる構造にしているのではないかと……」
「気づいたのか。よく見ている」
「……ほ、本で、読んだだけで。実際に見られて、その……嬉しい、です」
「そうか」
褒められて息が詰まった。
嬉しくて、苦しくて、上手く言葉が出なかった。
通りを歩くうち、辺境伯様がふと足を止めた。
素朴な屋台。小さな鍋から、甘い香りが漂っていた。
麦を煮詰め、雪のように粉砂糖を少しだけまぶした焼き菓子。
庶民の子どもたちが楽しそうに並んでいる。
辺境伯様はほんの少しだけ目を細めた。
その表情を初めて見た気がする。
淡い灯のような、静かな温度の笑顔だった。
領民を何より大切にされる方だもの、子供たちの笑顔もお好きなのだろう。
「……お好きなのですか?」
尋ねると、彼はわずかに肩をすくめた。
「昔、子供の時分には、よく食べたな」
(あ……お菓子のことだと、思われたのね)
素っ気ない答え。
でも、その横顔を見て胸があたたかくなった。
彼がひとつ買い、私に差し出した。
「食べるか」
「はい。いただきます」
指先が少し触れて、心臓が跳ねた。
素朴な焼き菓子はほろほろと崩れ、麦の香りが広がり、やさしい甘さが舌に残った。
「……おいしいです」
「ああ」
「辺境伯様はお召し上がりにならないのですか?」
「いや。俺は、……いい」
雲に埋められた空は灰色だったけれど、胸の中には、淡い灯がともっていた。
たったこれだけのことで、こんなにも世界が変わるなんて知らなかった。
この時間を、少しでも長く覚えていたいと思った。
夕暮れの光が、城下町の屋根を淡い橙に染めていた。
店々の灯りが一つずつともり始め、人々の足音が家路へ向かう合図のように規則正しく響く。
冷え始めた風の切れ味に、冬が近いことを思い知らされる。
外套の袖を指先でつまみながら、私はそっと口を開いた。
「こんなに長く外を歩いたのは、子どもの頃以来です」
声は自然と柔らかくなった。
胸の奥で、今日の楽しさがまだ静かに灯っている。
「俺も、そうかもしれない」
辺境伯様は空を仰ぎ、目を細めた。
西の空は薄紫に沈み、風が彼の銀髪を揺らした。
人通りは少なくなり、風は少し冷たさを増している。
「あなたの、昔の……王都での暮らしは……どのようなものだったのだろうか」
不意にかけられた問いは、詮索ではなく、ただ知ろうとする誠実な響きだった。
「……たいしたものではありません。ただ、王都と聞いて想像するような華やかさとは、縁遠い生活でした」
「公爵家は王都でも有数の裕福な貴族だろう」
「ええ。ただ……私の立場は少し違いました」
歩きながら、言葉を選ぶ。
「公爵家の本来の跡取りは、母でした。ですが母は急に……亡くなりました。私が「厄災の烙印」持ちだったことも、きっと心労になったのだと思います」
夜の匂いが近づく。
「実父はそれより早くに亡くなっていて、……身体が弱ってしまっていた母が、実務をこなしてもらうために新しく迎えていたのが義父です。義父は、財産管理の面で多大な貢献をしてくれましたが……私や兄とは折り合いが悪く、妹が生まれてからは……」
自嘲を含む笑みが自然と溢れた。
「家中の視線はそちらへ向きました」
「……」
「妹はとても、魅力的でしたから。地味で暗い私と違って可愛らしくて、華やかで、愛嬌があって……当然です。「厄災」の姉がいなければ、もう結婚していておかしくないでしょうに、悪いことをしました」
ダリウス様は黙って耳を傾けている。
批判も慰めも言わず、ただ受け止めてくれていた。
「そうですね……そんな風に、「厄災」の噂は、色んなことを私のせいにしました。壊れ物も、流行り病も、不作も、誰かの怪我も……そして、私自身も、私のせいなのだろうと思いました。きっと私の意志にかかわらず、厄災は私の周りに不幸を撒き散らすのだと……」
風が頬を撫でる。
「だから、倉庫に身を置くことにしました。……閉じ込められたわけではありません。私が望んだのです」
少しだけ、胸の奥が温かいものに触れる。
「……良かったのです。静かで、誰の邪魔にもならず、本を読む時間がありました。あの時間がなければ、私はきっと、何も考えないまま生きていたと思います」
ダリウス様の足が一度だけわずかに止まった。
「それを“よかった”と言えるのか」
低く、静かな声だった。
「はい。そう思えるだけで、私は十分に救われています」
しばらく歩いたあと、彼はぽつりと言った。
「カイネの言った“似たもの同士”というのは、こういうことなのかもしれないな」
淡々とした声。でも、その奥に微かな苦みがあった。
「だが……」
俺とは違う、と辺境伯様は呟いた。
「……あなたは強い」
その一言は、慰めよりもずっと温かかった。
私を弱者扱いしない言葉だった。
「ありがとうございます」
それから辺境伯様は、空気を変えるようにふっと肩をすくめた。
「今日は付き合わせたな。どうせカイネあたりに“俺を休ませろ”と言われたんだろう。それとも、セレスか、イリアか……」
見透かされていたことに、少し驚いた。
けれど、否定するより先に、胸の奥から言葉がこぼれた。
「いえ。寧ろ、私は楽しんでばかりで。それに……辺境伯様にお休みいただきたかったのは、私も同じです」
歩みながら、私たちの影が並んで伸びた。
触れない距離。
けれど、その距離の静けさが心地よかった。
「……この時期の多忙には慣れている。大丈夫だ」
そう言った声は、少しだけ硬かった。
「……慣れていらっしゃるから、余計に、なのだと思います」
私は夕空に向かって、小さく息を吐いた。
「わかっていても、慣れていても、……感じたものがなくなるわけではありませんもの」
自分でも驚くほど静かな声だった。
そう言いながら、はっとした。
その言葉は、他でもない――自分自身へ向けていた。
私は、つらかったのだ。
倉庫にいた日々も、噂に晒された時間も。
「……」
沈黙が落ちた。
風が、干し草の匂いを運んだ。
町外れへ向かう道には、もう人影は少ない。
ふと、横を歩く辺境伯様の気配が変わった。
「……そういうものなのか」
低く、遠くから絞り出すような声。
心がすっかり傷みに慣れてしまった者の、防衛線。
傷つく前に、自分で距離を置いてしまう癖。
私は顔を上げた。彼はまっすぐ前を見ていた。不安になって下を向く。
「……申し訳ありません。出しゃばったことを言いました」
その言葉に、彼は少しだけ息を吐いた。
まるで、張り詰めた弦がほんの少し緩んだかのようだった。
「いや……そんなことは、ない。……ありがとう」
その一言は、驚くほどあたたかかった。
胸の奥の小さな灯が、そっと揺れた。
夕闇が降りた。
私たちの影は寄り添うように重なり、風の音だけが二人の間を流れていった。
◆
夜更け、辺境伯邸の執務室には、紙の擦れる音だけが落ちていた。
窓の外では風が鳴り、遠くの森で獣が吠える声がかすかに響く。
ダリウスは机に積まれた帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
ひとつの会話が、どうにも頭から離れなかった。
昼間、ルーチェが語った、淡々とした過去のことだ。
倉庫での暮らし。
義父との不和。
母の急逝。
兄の追放。
華やかな妹と、幽閉される自らの十年……
そして、すべてを“よかった”と口にした静かな強さ。
(……あれを、ひ弱と言うのは違うな)
初対面の印象――色の薄い、萎縮した雰囲気。怯えて俯く表情。不安げに周囲を確認する視線。
あれだけ見れば「地味で自信のない娘」という評価で終わる。
だが違う。
今日の彼女は、淡々と過酷な現実を述べながら、そのどれにも押し潰されていなかった。
(あの境遇で、あんなふうに物を考えられるか……)
普通なら折れ、この世を呪う。
だが彼女は、ひとりで耐え、学び、観察し、静かに前へ進んできた。
強い――そう思ったのは、ダリウスが久しく使っていない言葉だった。
彼は椅子から立ち、暖炉の前へ歩く。
炎が小さく揺れ、冬の気配を孕んだ空気を追い払っている。
(だが……強いだけではないな)
冬仕度の件で彼女がそっと提案した内容――
物資の整理方法。ありふれた野草を使った茶。
古い資料にある、王国北辺の開拓民の越冬法の整理と取りまとめ。
そしてそれを、今の領の状況に照らし合わせて「もしお役に立つなら」と控えめに提案した態度。
あれは知識だけでは出てこない。
状況を理解する洞察、他者への配慮、場を乱さぬ慎み―― どれが欠けても成り立たない。
ダリウスは腕を組み、視線を落とした。
王都でのルーチェの扱いを思えば、彼女の噂――“不幸を呼ぶ”という下らない言説が流布していた理由もわかる。
だがこれまで、屋敷で起きた出来事に目立った不運はなかった。
決して顔色はよくないが、礼節を欠かず、誰に対しても丁寧で、控えめで……
(……優先すべきは領民の生活だ。その判断は変えない……)
領主としての判断は、揺らがせない。それは負うべき責務だ。
だが。
(それでも……ルーチェ嬢は……)
彼女の眼差しには、他人を遠ざける棘はない。
怯えた瞳の奥にあったのは深い思慮だった。
痛みを知る、静かな強さ。
「……」
警戒は解かない。「厄災」の真偽も見極めねばならない。
だが――彼の中の評価は、もはや王都の風評とは違っていた。
ルーチェ・シェリフォード。
少なくとも彼女自身は「厄災」とは程遠い。だが、ただの可哀想な令嬢でもない。
控えめに、気づかれぬように、自分の意思で立っている女性だ。
そこまで考えて、ダリウスは一度頭を振った。
――愚かなことを。
――俺の考えより何より、彼女自身が、俺のことを疎んでいるだろう。
――婚姻の権利すら平気で金に換える男だと……
――そして、自分から自由な婚姻の権利を奪った男だと。
ダリウスは新しい書類を手に取る前に、もう一度だけ小さく息を吐いた。
(……煩わされる。想定していたのとは、違うかたちで……)
炎が落ち着き、部屋が深い静けさに包まれた。
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そのことについては王太子は特に魅力のある人ではないし、なんにも感じなかったのですが、王宮内でも噂になり、家の恥だと、家まで追い出されてしまったのです。
精霊さんのアドバイスによりブルハング帝国へと行ったパールですが…。
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