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埋もれた祈りを秘める雪の章
18.兄の来訪
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春が近づいている。
そんな気配が、胸の奥をふわりと掬い上げる。
雪はまだ深く残っているのに、風の匂いがどこか柔らかく感じられるようになった。
辺境の砦から戻って、しばらく。邸は静かに雪の中で春を待っている。
午前の執務室。
書類に向かう辺境伯様の傍らで、私は領内の報告書を仕分けていた。
その時、やって来たカイネが「急ぎです」と封書を差し出した。
「……ルーチェ様にお手紙でございます」
まさかまた、言い掛かりをつけるものだろうか。
恐る恐る封書を見て、私は目を見開いた。
「兄様……!?」
封蝋に刻まれた紋章。署名。
見間違えるはずがない。
兄――リヒト兄様のものだ。
指先が震える。
息が浅くなる。
封を切ると、流れるような兄の筆跡が、目の前に広がった。
長い間、幾度となく思い出した文字。
けれど、目を通すうちに、胸の奥がざわりと揺れた。
――手紙は何度も出していた。
――しかし、お前は返事をくれなかった。
――その理由はわからないが、きっとどちらかが差し止められていたのだろう。
――ようやくお前の居所を掴んだ。
――結婚するのだと聞いた。
――近々、直接訪ねるつもりでいる。
読み進めた瞬間、心臓が一度大きく跳ねた。
つまり――兄は、もうすぐここへ来る。
「……こちらに来るのだそうです。兄が」
声が震える。
「……手紙を見ても?」
「はい、かまいません」
「これは……」
机上の手元に力が入り、指先が白くなる。
「兄が……来るなんて。思っていませんでした……」
震える声を整えようとしても、うまくいかなかった。
嬉しさと、不安と、心の底からの安堵とが入り混じって、言葉が追いつかない。
辺境伯様はそっと私の手を支え、柔らかく微笑んだ。
「ならば、急いで準備が必要だ。兄君が手紙を出してすぐに出発したのだとしたら、歓迎の席を設ける時間はさほど残されていないだろう」
その穏やかな声が、胸の奥深くに沁みた。
◆
馬車の揺れは、山道に入るにつれてさらに強くなった。
硬く凍りついた路面を軋みながら進む車輪の音が、耳に鋭く響く。
窓を開けると、雪を含んだ刺すような風が頬を打った。
馬車に乗る青年――リヒト・シェリフォードは、静かにそれを見つめる。
(想像以上だ……妹は、こんな環境で暮らしているのか)
視界の先に、重厚な石造りの邸が姿を現す。
壁は幾重にも修繕の痕が重なり、装飾はほとんどない。
古い。いや、旧いと言うべきだろうか。
確かな格式の跡はある。
だが、伯爵位を持つ男の住まいとしてはあまりに質素で、ましてや公爵令嬢の住まう館としては――小さい。
胸の奥に寒気とは違う感情が沈んだ。
――こんな場所に……公爵家直系の令嬢が。
――本来なら、王都の中心で華やかな生活を送れた筈の妹が。
――かつて自分が正当に爵位を継げなかったせいで、義父の手中に落ちた可哀想なルーチェが……
馬車が正門前へと近づきかけた時、リヒトは短く言った。
「正門は通らない。ここで降りる」
御者は驚き、振り返る。
「ですが――」
「構わない。裏から見せてもらおうと思う。……明日また、来てくれ」
「へ、へい」
リヒトは構わずに馬車を降りた。
裏手へと回る。
しばらく歩くと、やがて、開けた訓練場が視界に広がった。
雪の中で十数名の騎士が隊列を組み、武器を打ち合わせている。
白い息が噴き出し、火花のような金属音が澄んだ空に響く。
動きは揃い、無駄がない。
その一挙手一投足に、鍛え抜かれた技と経験が宿っていた。
(精強だ……王都の騎士とは質が違う)
感心していたその時、ふにゃりとした声が飛んできた。
「なんか、お客様がいらっしゃいますねぇ」
ゆるゆると歩み寄ってきたのは、大柄で柔和な青年騎士だった。
鎧をまとっているはずなのに、何故か迫力はなく、微妙に締まりのない笑顔を浮かべている。
「えっと、どちら様でしょう。お仕事ですか?それとも迷子とか?」
おっとりとした声音。
「ここはヴァルト辺境伯様のお邸ですよ。正門はあっち。ここは武器とかいっぱいあって、危ないですよ~」
男は穏やかに微笑んでいる。
しかし、その背後には全員の警戒の視線がぴしりと突き刺さった。
先日の、公爵家からの使者の件を知っているのだろう。
リヒトもそれは聞いていた。だからこそ、それとは違うのだと言わねばならないと片肘を張る。
空気は張りつめていた。
「私はリヒト・シェリフォード。ルーチェの兄だ。妹に会いに来た」
「ふむふむ。なるほど。ルーチェ様のお兄様。それは、お逢いできて光栄です」
「トトリ団長……!」
「それなら……うんうん、旦那様をお呼びしないと、ですかねぇ」
騎士からトトリと呼ばれた青年は、ゆっくり何度もうなずき、にこにこと笑いながらも一歩も道を開けない。
団長、と呼ばれていたが彼が騎士団長なのだろうか。それにしては迫力がない。
しかし、そののらりくらりとした態度は、まるで柔らかい壁のようだった。
押せば崩れそうなのに、決して隙を生まない。
(……やりにくい)
リヒトが息を整えようとした瞬間――
「リヒト兄様!」
澄んだ声が響く。
振り向けば、外套の裾を揺らし、ルーチェが駆け寄ってくる。
頬はうっすら紅潮し、息を弾ませている。
(変わらない。幼い時と、少しも)
だが、その瞳は真っすぐで、揺らぎがない。
「ルーチェ様」
「トトリ、ありがとう。……大丈夫よ。私がご案内するわ」
瞬間、トトリはぽりぽりと頬を掻き、道を開けた。
「はぁい。どうぞどうぞ」
「……」
「すみませんね、お邪魔して。お客様には時々、変な動きをする方がいて……俺ってば心配性で」
へら、とした笑い。
同時にトトリがさっと腕を振る。
騎士たちはそれに応じて、警戒の姿勢を解いた。
◆
訓練場の向こう側、その姿を目にした瞬間、胸が締めつけられる。
「……兄様」
気づけば、足は自然と前へ踏み出していた。
雪を押し分け、裾をつまみ上げて駆け寄る。
白い息が震える。
遠くで剣の音が止んだ気がした。
そこに立っていたのは、変わらない――いや、大人びた兄の姿だった。
私と同じ、深い翠色の瞳。
その眼差しはいつだって静かで、まっすぐだった。
けれど、私の波打つ癖のあるブルネットとは違い、兄様の髪は亡き父に似た栗色で、絹糸のように滑らかに肩へ落ちている。
整った横顔に細縁の眼鏡がかけられ、細身の体つきは昔と変わらず、知性と冷静さを感じさせた。
「兄様――本当に……」
言葉が声になる前に、喉がつまった。
会いたいと願い続けていた。
手紙も届かないなか、理由もわからず、ただ胸の奥に黒い不安だけが積もっていった。
それが今、目の前にいる。
雪の匂いと、懐かしい気配。
胸の奥で、抑え込んできた感情が一気に溢れ出す。
「来てくださって……ありがとうございます」
緊張で震えそうになる声を、必死に抑えた。
泣かないと決めていたのに、視界がじんわり揺らぐ。
兄さまは一瞬だけ息を呑むように目を見開き、そして小さく笑った。
昔から変わらない、寂しげな、それでいて優しい微笑み。
「……ルーチェ。無事で、本当に良かった」
「兄様こそ。……今は、王宮で働かれているのですよね?」
「ああ。……公爵家ほどではないが、俺の生活はそれなりに安定した」
少し皮肉な物言いも昔と同じ。
それから、真剣なまなざしで私を見た。
「ルーチェ。お前が婚約させられていたなんて……気づいてやれなくて、すまない」
可哀想に、という言葉に、一瞬きょとんとしてしまう。
ここに来られたのはむしろ私にとって幸運だった。
「ようやくお前を公爵家から動かせると思ったら、婚約のために何処かへやったと……あの義父は本当にろくでなしだ」
その時――固く凍った雪を踏みしめる足音が、訓練場の端から近づいて来た。
姿を現したのは、黒の外套を翻す辺境伯様だった。
冬の光を受けた蒼の瞳が、ただ一瞬だけ柔らかく揺れる。
リヒト兄様の姿を認めた途端、その色が静かに研ぎ澄まされる。
兄様の瞳もまた、剣呑な翳りを帯びた。
「お戻りでしたか、ヴァルト辺境伯閣下」
「……リヒト・シェリフォード卿」
「おや、王都の名も無き官吏に過ぎない私をご存知とは。辺境伯閣下は博識でいらっしゃる」
氷のように冷たい声。
丁寧な言葉遣いでありながら、そこに隠した敵意は露骨だった。
「さて。――妹が世話になっております」
「……こちらこそ」
慌てて二人の間へ視線を往復させた。
「あ、あの、兄様」
「邸へご案内しよう。リヒト卿、道が滑りやすい。足元にお気をつけて」
辺境伯様が先導し歩きだす。
邸の中では使用人たちが緊張した面持ちでリヒト兄様を見ていた。
広間に入ると、兄様は邸全体を見渡した。
眺め回していることを隠しもしない視線に、辺境伯様は気づいているようだった。
「何か、興味深いものでも?」
「いや。特には」
兄様は試すように、ふむ、と顎を撫でた。
「伯爵位を持つ方の住まいとしては――閣下ご自身はご納得されているのかもしれませんが。公爵家出身の妹を迎え入れるには、些か心許ない邸だとお見受けしました」
「兄様!」
皮肉まじりの声に、周囲で見守る騎士たちの視線が鋭くなる。
「真実だろう。ルーチェ」
「辺境伯様は、烙印持ちで公爵家から厄介払いされた私を受け入れてくださったのです!それなのに……!」
「――「厄介」だと。お前に感じさせているのならそれは問題だな」
そして、リヒト兄様はさらに低く呟いた。
「当家に金を無心するのでは飽き足らず、妹を手に入れた上に、その金で自分の借金を返した男だと……聞いた通りか」
凍りつく空気は一瞬で張りつめた刃へと変わる。
「兄様、違います、それは」
けれど、魔晶石のことは言ってはならない。
あくまで私の持参金によるものだと説明しなくては。
私が弁明しきれずにいたら、兄様は溜め息をついた。
黙っていた辺境伯様が足を止め、振り返った。
「……リヒト卿」
その顔には怒りの色よりも、冷徹な静けさが宿る。
「――『当家』と仰るほど、あなたは公爵家とやりとりをされていないと、御妹殿から伺っております」
「どういう意味かな」
「そのままの意味です」
「辺境伯様」
「それと、私たちの婚姻にかかわる交渉は、公爵家を通じてしばらく前になされたものです。異議申し立ての時間は充分にあったと思われますが。ご存知ありませんでしたか」
「……生憎、家からは半ば追放された身でね。妹からそのあたりの事情は聞いていないのか?知らぬ間に事を運ばれ……故に、私に一切の連絡はなかった」
「成程そうでしたか」
辺境伯様は、ふむ、と腕を組む。
「しかし、こうしてご足労頂き、私や当家の部下たちの前で取り繕えないほど、御妹殿の身を案じるのであれば……連絡がなくとも、ご自分で、たとえ如何なる乱暴な手段を取り醜聞を引き起こそうと、御妹殿の状況をお調べになるべきだったのでは?」
言葉は丁寧でありながら、容赦なく突き刺す物言い。
兄様の眉が微かにひきつる。
辺境伯様は最後に短く、「少なくとも私ならそうします」と言い切った。
「さて。応接間にご案内します」
「……いや。辺境伯閣下は結構。まずはルーチェと二人で話がしたい」
「あの……」
辺境伯様に目をやる。
「……」
「……」
「……わかりました。兄様、私の部屋へ。積もる話を致しましょう」
そんな気配が、胸の奥をふわりと掬い上げる。
雪はまだ深く残っているのに、風の匂いがどこか柔らかく感じられるようになった。
辺境の砦から戻って、しばらく。邸は静かに雪の中で春を待っている。
午前の執務室。
書類に向かう辺境伯様の傍らで、私は領内の報告書を仕分けていた。
その時、やって来たカイネが「急ぎです」と封書を差し出した。
「……ルーチェ様にお手紙でございます」
まさかまた、言い掛かりをつけるものだろうか。
恐る恐る封書を見て、私は目を見開いた。
「兄様……!?」
封蝋に刻まれた紋章。署名。
見間違えるはずがない。
兄――リヒト兄様のものだ。
指先が震える。
息が浅くなる。
封を切ると、流れるような兄の筆跡が、目の前に広がった。
長い間、幾度となく思い出した文字。
けれど、目を通すうちに、胸の奥がざわりと揺れた。
――手紙は何度も出していた。
――しかし、お前は返事をくれなかった。
――その理由はわからないが、きっとどちらかが差し止められていたのだろう。
――ようやくお前の居所を掴んだ。
――結婚するのだと聞いた。
――近々、直接訪ねるつもりでいる。
読み進めた瞬間、心臓が一度大きく跳ねた。
つまり――兄は、もうすぐここへ来る。
「……こちらに来るのだそうです。兄が」
声が震える。
「……手紙を見ても?」
「はい、かまいません」
「これは……」
机上の手元に力が入り、指先が白くなる。
「兄が……来るなんて。思っていませんでした……」
震える声を整えようとしても、うまくいかなかった。
嬉しさと、不安と、心の底からの安堵とが入り混じって、言葉が追いつかない。
辺境伯様はそっと私の手を支え、柔らかく微笑んだ。
「ならば、急いで準備が必要だ。兄君が手紙を出してすぐに出発したのだとしたら、歓迎の席を設ける時間はさほど残されていないだろう」
その穏やかな声が、胸の奥深くに沁みた。
◆
馬車の揺れは、山道に入るにつれてさらに強くなった。
硬く凍りついた路面を軋みながら進む車輪の音が、耳に鋭く響く。
窓を開けると、雪を含んだ刺すような風が頬を打った。
馬車に乗る青年――リヒト・シェリフォードは、静かにそれを見つめる。
(想像以上だ……妹は、こんな環境で暮らしているのか)
視界の先に、重厚な石造りの邸が姿を現す。
壁は幾重にも修繕の痕が重なり、装飾はほとんどない。
古い。いや、旧いと言うべきだろうか。
確かな格式の跡はある。
だが、伯爵位を持つ男の住まいとしてはあまりに質素で、ましてや公爵令嬢の住まう館としては――小さい。
胸の奥に寒気とは違う感情が沈んだ。
――こんな場所に……公爵家直系の令嬢が。
――本来なら、王都の中心で華やかな生活を送れた筈の妹が。
――かつて自分が正当に爵位を継げなかったせいで、義父の手中に落ちた可哀想なルーチェが……
馬車が正門前へと近づきかけた時、リヒトは短く言った。
「正門は通らない。ここで降りる」
御者は驚き、振り返る。
「ですが――」
「構わない。裏から見せてもらおうと思う。……明日また、来てくれ」
「へ、へい」
リヒトは構わずに馬車を降りた。
裏手へと回る。
しばらく歩くと、やがて、開けた訓練場が視界に広がった。
雪の中で十数名の騎士が隊列を組み、武器を打ち合わせている。
白い息が噴き出し、火花のような金属音が澄んだ空に響く。
動きは揃い、無駄がない。
その一挙手一投足に、鍛え抜かれた技と経験が宿っていた。
(精強だ……王都の騎士とは質が違う)
感心していたその時、ふにゃりとした声が飛んできた。
「なんか、お客様がいらっしゃいますねぇ」
ゆるゆると歩み寄ってきたのは、大柄で柔和な青年騎士だった。
鎧をまとっているはずなのに、何故か迫力はなく、微妙に締まりのない笑顔を浮かべている。
「えっと、どちら様でしょう。お仕事ですか?それとも迷子とか?」
おっとりとした声音。
「ここはヴァルト辺境伯様のお邸ですよ。正門はあっち。ここは武器とかいっぱいあって、危ないですよ~」
男は穏やかに微笑んでいる。
しかし、その背後には全員の警戒の視線がぴしりと突き刺さった。
先日の、公爵家からの使者の件を知っているのだろう。
リヒトもそれは聞いていた。だからこそ、それとは違うのだと言わねばならないと片肘を張る。
空気は張りつめていた。
「私はリヒト・シェリフォード。ルーチェの兄だ。妹に会いに来た」
「ふむふむ。なるほど。ルーチェ様のお兄様。それは、お逢いできて光栄です」
「トトリ団長……!」
「それなら……うんうん、旦那様をお呼びしないと、ですかねぇ」
騎士からトトリと呼ばれた青年は、ゆっくり何度もうなずき、にこにこと笑いながらも一歩も道を開けない。
団長、と呼ばれていたが彼が騎士団長なのだろうか。それにしては迫力がない。
しかし、そののらりくらりとした態度は、まるで柔らかい壁のようだった。
押せば崩れそうなのに、決して隙を生まない。
(……やりにくい)
リヒトが息を整えようとした瞬間――
「リヒト兄様!」
澄んだ声が響く。
振り向けば、外套の裾を揺らし、ルーチェが駆け寄ってくる。
頬はうっすら紅潮し、息を弾ませている。
(変わらない。幼い時と、少しも)
だが、その瞳は真っすぐで、揺らぎがない。
「ルーチェ様」
「トトリ、ありがとう。……大丈夫よ。私がご案内するわ」
瞬間、トトリはぽりぽりと頬を掻き、道を開けた。
「はぁい。どうぞどうぞ」
「……」
「すみませんね、お邪魔して。お客様には時々、変な動きをする方がいて……俺ってば心配性で」
へら、とした笑い。
同時にトトリがさっと腕を振る。
騎士たちはそれに応じて、警戒の姿勢を解いた。
◆
訓練場の向こう側、その姿を目にした瞬間、胸が締めつけられる。
「……兄様」
気づけば、足は自然と前へ踏み出していた。
雪を押し分け、裾をつまみ上げて駆け寄る。
白い息が震える。
遠くで剣の音が止んだ気がした。
そこに立っていたのは、変わらない――いや、大人びた兄の姿だった。
私と同じ、深い翠色の瞳。
その眼差しはいつだって静かで、まっすぐだった。
けれど、私の波打つ癖のあるブルネットとは違い、兄様の髪は亡き父に似た栗色で、絹糸のように滑らかに肩へ落ちている。
整った横顔に細縁の眼鏡がかけられ、細身の体つきは昔と変わらず、知性と冷静さを感じさせた。
「兄様――本当に……」
言葉が声になる前に、喉がつまった。
会いたいと願い続けていた。
手紙も届かないなか、理由もわからず、ただ胸の奥に黒い不安だけが積もっていった。
それが今、目の前にいる。
雪の匂いと、懐かしい気配。
胸の奥で、抑え込んできた感情が一気に溢れ出す。
「来てくださって……ありがとうございます」
緊張で震えそうになる声を、必死に抑えた。
泣かないと決めていたのに、視界がじんわり揺らぐ。
兄さまは一瞬だけ息を呑むように目を見開き、そして小さく笑った。
昔から変わらない、寂しげな、それでいて優しい微笑み。
「……ルーチェ。無事で、本当に良かった」
「兄様こそ。……今は、王宮で働かれているのですよね?」
「ああ。……公爵家ほどではないが、俺の生活はそれなりに安定した」
少し皮肉な物言いも昔と同じ。
それから、真剣なまなざしで私を見た。
「ルーチェ。お前が婚約させられていたなんて……気づいてやれなくて、すまない」
可哀想に、という言葉に、一瞬きょとんとしてしまう。
ここに来られたのはむしろ私にとって幸運だった。
「ようやくお前を公爵家から動かせると思ったら、婚約のために何処かへやったと……あの義父は本当にろくでなしだ」
その時――固く凍った雪を踏みしめる足音が、訓練場の端から近づいて来た。
姿を現したのは、黒の外套を翻す辺境伯様だった。
冬の光を受けた蒼の瞳が、ただ一瞬だけ柔らかく揺れる。
リヒト兄様の姿を認めた途端、その色が静かに研ぎ澄まされる。
兄様の瞳もまた、剣呑な翳りを帯びた。
「お戻りでしたか、ヴァルト辺境伯閣下」
「……リヒト・シェリフォード卿」
「おや、王都の名も無き官吏に過ぎない私をご存知とは。辺境伯閣下は博識でいらっしゃる」
氷のように冷たい声。
丁寧な言葉遣いでありながら、そこに隠した敵意は露骨だった。
「さて。――妹が世話になっております」
「……こちらこそ」
慌てて二人の間へ視線を往復させた。
「あ、あの、兄様」
「邸へご案内しよう。リヒト卿、道が滑りやすい。足元にお気をつけて」
辺境伯様が先導し歩きだす。
邸の中では使用人たちが緊張した面持ちでリヒト兄様を見ていた。
広間に入ると、兄様は邸全体を見渡した。
眺め回していることを隠しもしない視線に、辺境伯様は気づいているようだった。
「何か、興味深いものでも?」
「いや。特には」
兄様は試すように、ふむ、と顎を撫でた。
「伯爵位を持つ方の住まいとしては――閣下ご自身はご納得されているのかもしれませんが。公爵家出身の妹を迎え入れるには、些か心許ない邸だとお見受けしました」
「兄様!」
皮肉まじりの声に、周囲で見守る騎士たちの視線が鋭くなる。
「真実だろう。ルーチェ」
「辺境伯様は、烙印持ちで公爵家から厄介払いされた私を受け入れてくださったのです!それなのに……!」
「――「厄介」だと。お前に感じさせているのならそれは問題だな」
そして、リヒト兄様はさらに低く呟いた。
「当家に金を無心するのでは飽き足らず、妹を手に入れた上に、その金で自分の借金を返した男だと……聞いた通りか」
凍りつく空気は一瞬で張りつめた刃へと変わる。
「兄様、違います、それは」
けれど、魔晶石のことは言ってはならない。
あくまで私の持参金によるものだと説明しなくては。
私が弁明しきれずにいたら、兄様は溜め息をついた。
黙っていた辺境伯様が足を止め、振り返った。
「……リヒト卿」
その顔には怒りの色よりも、冷徹な静けさが宿る。
「――『当家』と仰るほど、あなたは公爵家とやりとりをされていないと、御妹殿から伺っております」
「どういう意味かな」
「そのままの意味です」
「辺境伯様」
「それと、私たちの婚姻にかかわる交渉は、公爵家を通じてしばらく前になされたものです。異議申し立ての時間は充分にあったと思われますが。ご存知ありませんでしたか」
「……生憎、家からは半ば追放された身でね。妹からそのあたりの事情は聞いていないのか?知らぬ間に事を運ばれ……故に、私に一切の連絡はなかった」
「成程そうでしたか」
辺境伯様は、ふむ、と腕を組む。
「しかし、こうしてご足労頂き、私や当家の部下たちの前で取り繕えないほど、御妹殿の身を案じるのであれば……連絡がなくとも、ご自分で、たとえ如何なる乱暴な手段を取り醜聞を引き起こそうと、御妹殿の状況をお調べになるべきだったのでは?」
言葉は丁寧でありながら、容赦なく突き刺す物言い。
兄様の眉が微かにひきつる。
辺境伯様は最後に短く、「少なくとも私ならそうします」と言い切った。
「さて。応接間にご案内します」
「……いや。辺境伯閣下は結構。まずはルーチェと二人で話がしたい」
「あの……」
辺境伯様に目をやる。
「……」
「……」
「……わかりました。兄様、私の部屋へ。積もる話を致しましょう」
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クロードは、幼少の頃から自分や弟を守る為に「ひきこもり王子」を演じていたのである。その彼は、以前リンの姉ディアーヌに手痛い目にあったことがあった。その為、人間不信、とくに女性を敵視している。彼は、ディアーヌの妹であるリンを憎み、侍女扱いする。
しかし、あることがきっかけで二人の距離が急激に狭まる。が、それも束の間、王都が隣国のスパイの工作により、壊滅状態になっているいう報が入る。しかも、そのスパイの正体は、リンの知る人だった。
※全三十九話。ハッピーエンドっぽく完結します。ゆるゆる設定です。ご容赦ください。
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