【本編完結】厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです

あおまる三行

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埋もれた祈りを秘める雪の章

19.煩悶

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 向き合って話をするのは、本当に久しぶりだった。
 私の部屋に入った途端、兄様は眉間に深い皺を刻み、部屋をぐるりと見回した。

「……ここが、お前の部屋なのか」
「ええ。客間をお借りしているの」
 その言葉に、兄様の表情がまた険しくなる。
「客間?まだ婚約段階とは言え、仮にも公爵家から嫁いだ令嬢が、客間?しかもこの狭さで?普通なら、もっと広い空間であって当然だろう」
 声がやや震えている。
 怒りなのか、戸惑いなのか、私にはわからなかった。
「この部屋が一番、手入れがされて新しいの。それに、あたたかくて気に入ってるわ」
 本心だった。
「……兄様。私は、ここでの生活に満足しているの」
「満足。こんな場所でか」
 兄の言葉は鋭かった。
 胸がちくりと痛んだけれど、私は静かに首を振る。
「ええ。辺境伯様や皆さんが、とてもよくしてくださっているから。身の回りのことも、仕事だって……任せてもらえてるの」
「ルーチェ。公爵家での不当な扱いと比べる必要はないんだ」

 兄は唇を噛み、視線を泳がせた。
「お前は……いつだって我慢ばかりしていただろう。父上が亡くなったあと、おかしなことを神官が言い出して、母上が亡くなって……あの義父のせいで、俺たちは引き離された。俺は追放された先の自分の生活で手一杯で、お前は邸に隠れ住んでいるのだと信じて……こんなところに追いやられているだなんて、想像もしていなかった」
「……」
「お前はそんな時もずっと、一人きりで必死に耐えていたんだろう。今だって、本当は嫌なのに無理しているんじゃないのか」
 兄様は拳を握り締めた。
 その声音には、強い悔しさが滲んでいた。
 兄様が今も私を想ってくれていたなんて、思いもしなかった。――いや、期待しないように、していた。
 嬉しいよりも、どう返せばいいのかわからなくて、胸が苦しくなる。
 
「兄様がそうして想っていてくださったことが、嬉しいです。何度手紙を出しても、一度も返事がありませんでしたから」
「すまない。きっとあの義父が止めていたのだろう。俺のところには、ルーチェの生活費の要求ばかり……」
 その話は初耳だ。
 義父からは、私の生活の面倒すら見ない兄だと、たびたび悪口を言われていたのに。
(そのお金はどこに消えたのかしら)
 兄様は歯噛みしていた。
「官吏の職を得てからは、どうにかお前を義父のもとから引き取ろうと、ずっと機会を窺っていた。それなのに、俺が王命で外国に行った間にこんな辺境にお前を下げ渡して……許せない」
「兄様……」
 
 けれど、私は首を振った。
「違います。……私は今、とても幸せです。可哀想なんかじゃありません」
「お前はどうして、こんな扱いを受け入れているんだ。あれは、金のために自分の婚姻関係まで売り渡す男だぞ!」

 その言葉は、まるで刃のように鋭かった。
 ――兄様は、私を気遣ってくれているのだ。
 そう理解できても、胸の奥がひりつく。

「兄様……本当に、違うのです。私は自分で決めてここに居たいのです。辺境伯様も、皆も、私を大切にしてくれるこの場所に」
 兄様は黙り込んだ。
 納得していないのは、表情を見ればわかる。
 そして、低く押し殺した声で言った。
「……俺のせいだな」
「え?」
「俺が何もしてやれなかったから、お前は耐え難い不幸に陥って……こんなところでも、幸せだと感じてしまうようになったんだ」
「……」
「すまない。すべてのことは、力が無かった俺のせいだ。……可哀想に、ルーチェ」
 
 その言葉に、息が詰まった。
 兄様は、私のことを「可哀想だ」と思っている。
 それが、こんなにも苦しいなんて。
 けれど、どう説明すればわかってもらえるのだろう。

 兄様は、静かに息を吸い込んだ。
 その表情は、先ほどまでの苛立ちではなく、深い決意を湛えていた。
 兄様の瞳が私をまっすぐ射抜く。
 
「婚姻申請はまだ通っていないと聞いた。それならまだ間に合う。俺のもとへ来てくれ、ルーチェ。今ならようやく、守ってやれる」
 その言葉は、重く、真摯だった。
 ただの感情ではない。
 十年近く、ずっと守れなかった妹への、悔恨と誓いが込められている。
「今はもう公爵家を頼る必要はない。俺は王宮官吏として働けているし、贅沢はさせてやれないが、令嬢としての品格は保てるだろう……お前が望むなら、この王国を出たっていい。家を追い出された留学先で、それなりに向こうの王族に気に入られたんだ。仕事はあるだろう」
「……」
「ここと違って、暖かくて豊かな国だ。……いや、どこだっていいんだ。兄妹で穏やかに暮らせるように……俺に、どうか罪滅ぼしをさせてくれ」
 
 兄様の声が、かすかに震えた。

「だから――ルーチェ。もう、我慢なんてしなくていい」

 胸の奥が強く疼いた。
 兄様は、優しい人だ。
 ただただ私の幸せを願っている。それだけなのだとわかる。

 でも――

「兄様……私は……」

 声が、震えてしまった。
 兄様の言葉は、胸の奥深くに沈んで、じわじわと広がっていった。
 
 もともと、この結婚は愛のためのものではなかった。
 打算と事情の上に成り立つ、形だけの婚姻。
 兄様が「連れ帰る」と言うのなら、理屈の上では何ひとつ阻む理由はない。

 けれど、兄様の言う「可哀想な私」は、もういない。
 
 もし兄様が、私がここに来る前に、公爵家に迎えに来てくれていたら――私はきっと、泣いて喜んで兄様の手を取っただろう。
 救い出してもらって、縋りついて、頼りきりになって、「可哀想な私」を慰めてもらって。
 でも、私はきっと、ここに来て変わってしまった。
 皆と生活を共にして。この地の風にあたって。――辺境伯様のことを知って。
 それを言葉にできず、喉が塞がる。
 兄様の差し出す手を、拒むことが、こんなにも苦しいなんて。
 
 そこから先の言葉が、喉元でつかえて出てこなかった。
 私は、静かに息を吐いた。

 「……少し、考えさせてください。兄様」

 それしか言えなかった。
 言葉にしてしまえば、何かが決定的に変わってしまいそうで怖かった。
 兄様は、短くまばたきをしたあと、眼鏡の位置を指先で直した。
「……そうだな、俺もお前も――少し頭を冷やすべきか。明朝、返事を聞かせてほしい」

 立ち上がった兄様を追う。
「兄様、こちらにお泊まりにならないのですか」
 兄様は、扉へ向かいかけて、ふと足を止めた。
「……歓迎されている気配は、さっぱりしないからな。宿を取ってある」
 皮肉めかした言い方だったけれど、滲み出る寂しさを私は感じ取った。

 
 扉が静かに閉じられ、部屋に残されたのは私ひとり。
 灯火がゆらゆらと揺れ、心の中の答えのない迷いまで照らし出す。

 兄様は正しい。
 兄様の提案は、私には過ぎた救いだ。
 なのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。

 ――私は、もう知ってしまったからだ。
 あの人の背中に、寄り添いたいと思ってしまったから。



 

 執務室に戻ったダリウスは、常通り仕事に没頭していた。
 しかし、時折気遣わしげに外を眺める。
 控えていたカイネとイリアは、痛ましげな眼差しでそれを見守っていた。
 二人は、主の周囲に漂う重い空気に気づいていた。
 そこへ闇に紛れた細身の黒い影のような青年が滑り入る。

「……戻りました」
「ジーク!ルーチェ様の様子は……?」
「イリア」
「聞いていたのでしょう、あなたなら」
 イリアの問いに、ジークは一瞬だけ迷い、しかし隠し事はしないと決めたように、静かに口を開いた。

「盗み聞きをしたのは俺の独断です。旦那様が望まれないなら、話しません」
「……いや。いい。聞かせてくれ」
 その言葉に、こくり、とジークは頷き、細い身体を壁に預ける。
 
「……リヒト卿は、ルーチェ様を連れ帰るおつもりです」
「……」
「婚姻が正式に成る前に、この家からも公爵家からも離れて、兄妹で穏やかに暮らそうと……そのためならば、王宮官吏の職を辞して南方の……恐らく、リヒト卿の留学先だった国に、渡っても構わないと仰っていました」

 ダリウスの手が止まった。
 硬い紙の端がわずかに折れたが、彼は気づかないふりをしていた。
 ――やはり、そうなるか。
 胸の奥に重い鉄を飲み込んだような気分になった。
 ルーチェを手放した方がいいのかもしれない、と考えたことが一度もないわけではない。
 愛のない婚姻だと、自分自身が言った。彼女にとってもそうだろう。
 望まれぬ形で縛りつけているのかもしれない。
 もしかすると――彼女は、兄に連れられて、自由になった方が幸せなのではないか。
「そう、か。それは……何よりの、申し出なのだろうな」

 ふと視線を上げると、
「旦那様」
 カイネが、珍しく遠慮がちに声をかける。
「無理はされなくともよいかと」
 ダリウスは息を吐き、小さく笑った。
「していないつもりだ」
 イリアは視線を伏せ、言葉を選びながら口にした。
「……それで、ルーチェ様は何と?」
「一日、考えさせてほしいと」
 ジークの言葉に、再び沈黙が落ちる。

 風の音が響いていた。
 イリアが祈るように呟く。
「ルーチェ様は、旦那様の傍が安らぐと仰っていました。尊敬されていると……だから……」
「……」
 だがそれは、愛とは異なる感情だ。
 同じものしか与えられないなら、より良い相手である兄の方が傍にいるのに相応しい。
 その言葉が胸の奥で鈍く響いた。
 それでも別の声が囁く。

 ――だめだ。

 ゆっくりと拳を握る。
 この手を離せば、彼女は兄のもとへ戻り、守られるだろう。
 安全な暮らしも約束される。
 穏やかに生きられる。

 だが――

 彼女の隣に並ぶのは、もう自分ではなくなる。

 刹那、胸を刺すような痛みが走った。
 苦い感情が腹の奥で煮えたぎるように膨らみ、ダリウスははっきりと理解した。

 ――俺は、彼女を手放したくない。
 ――守りたい、幸せになってほしいと望んでいる。
 ――けれど、その時……彼女が幸せだと感じた時、傍らにいるのは自分でなくてはならないと願っている。
 ――横暴で、不遜で、傲慢な苦い願い。
 ――その奥にある、切ないほど、弱い望み。

 砦に吹く夜風が、窓を震わせた。
 その音で、迷いはようやく形を失った。





 眠れなかった。
 部屋の中は静かで、外では夜風が軒先をかすめる音だけがしている。
 だけど胸の奥だけは、やけに騒がしくて、どうしても落ち着かなかった。

 兄様との話は、私を思っての言葉ばかりだった。
 どれも正しくて、どれも優しくて、胸に刺さった。
 確かに兄様となら、安心して暮らせるのだろう。
 ここより暖かく、争いも少なく、しがらみのすべてから逃れて……私に負い目を感じる兄は、きっと誰より優しい。
 兄のそばなら穏やかな日々が送れる。

 ――なら、どうして迷うのだろう。

 答えは、もう分かっていた。
 認めたくなくて目をそらしていただけだ。
 指先が、薬指の銀の指輪に触れた。
 冷たいはずなのに、そこだけ温かい。

 思い出したのは、遠くの砦での夜。
 背中合わせで眠ろうとしたとき、触れた肩越しに感じた体温。
 訓練場で、剣を握る姿。
 強くて、でも不器用で、照れたように視線を逸らす癖。
 もう、胸が痛いほど惹かれてしまった。
 それに――

(私は守られてばかりでいたくない)
(その人に寄りかかるだけの、可哀想な存在でいたくない)

 頼りたいと思ったのと同じくらい――
 私は、あの方に頼ってほしい。
 傍らにいてくれと望まれたい。
 弱さを見せてほしい。甘えてほしい。
 守られたいのではなく、守らせてほしい。

 どれほど考えても、心臓の音は静まらない。
 耳の奥で、脈打つように響く。

 私は――
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