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埋もれた祈りを秘める雪の章
20.ひとつの別れ、ひとつの出逢い
翌朝、まだ空が暗い時間。
外套を着込み、気づかれないようにそっと邸の外へ出ていく。
門扉の下に立つ兄の背中が、薄い霧の向こうに浮かび上がっていた。
呼吸が白くほどけていく。
「……兄様」
私の声に、兄様がゆっくりと振り返った。
翠の瞳は昔と同じ色なのに、どこか険しい影が落ちている。
きっと、兄様も考えてくださっていたのだろう。
その想いが痛いほど伝わってきた。
「結論は、出たか」
静かな問いかけ。
胸の奥に、強く息を吸い込む。
「はい」
逃げずに見つめ返す。
指に光る銀の指輪が、小さな決意のように冷たく輝いた。
「私は――ここで生きたいと思います」
兄の眉がかすかに動く。
「兄様が言ってくださったこと、全部嬉しかった。私のことを思って、守ろうとしてくださって……そのお気持ちは、痛いほどに伝わりました」
言葉を続けるたび、胸が熱くなる。
でも、下を向くわけにはいかなかった。
「兄様はきっと、私を守ってくださいます。信じています」
そう言った瞬間、兄の瞳が微かに揺れた。
その優しさを知っている。
ずっと、待っていた人だ。
「でも私はきっと――辺境伯様に守られる以上に、あの方を守って差し上げたいのです」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
胸の奥の熱が、すべて声に乗っていった。
「烏滸がましいかもしれません。身の程知らずだと笑われるかもしれません。それでも……私は、ここにいたい」
沈黙が落ちる。
雪のきしむ音だけが響いた。
長い沈黙ののち、兄様はかすかに目を見開いた。
私の言葉が、意外だったかのように。
まるで、知らなかった何かを見せられた人のようだった。
「……そんな顔を、するのか」
驚きと、少しの誇らしさが混じった声だった。
その響きに、胸がじんと痛んだ。
兄様はそっと私の頭を撫でた。
「……辺境伯殿は、思ったより弱い方なのかな」
少し皮肉に口の端を持ち上げて。
「いいえ。兄様」
それが本気の言葉ではないと分かったから、私は微笑んだ。
「お強いから。――辺境伯様は、誰に守られる必要もないくらいお強いから。だから、お守りしたいと思ったの」
「ルーチェ。お前は……」
何かを言いかけて、兄は言葉を飲み込んだ。
ただ、深く息を吐き、空に視線を向けた。
「……わかった」
兄様が小さく頷いた。
「だが、ルーチェ……俺もまた、お前を守りたいと思っていることを、どうか忘れないでほしい」
「……はい」
「助けが必要ならいつでも。……それこそ、離縁したくなったならいつでも協力するし……」
「もう、兄様」
「……ふっ、とにかくそれくらい、なんでも協力するつもりだ」
私は「はい」と頷いて笑った。
「……なら、ここで俺がすべきことはもうない。ルーチェ。今度こそ……手紙を送る。それと、春になったら官舎の寮にも遊びにきてくれ」
「是非、伺いたいです。兄様のお部屋に」
「ああ。……狭くてむさ苦しい寮だがな。俺には合っている。……とは言え、お前の部屋より狭いぞ」
「……兄様も、私の兄様ですもの。広くて冷たい部屋より、あたたかい小部屋の方がお好きでしょう?」
私が言うと、兄様は笑った。珍しく快活に、天を仰いで。
「失礼するか」
少しだけ――心配がないと言えば、嘘になる。
兄様だって、大変な境遇であることに変わりはないから。
「兄様」
呼んだ声が、自分でも驚くほど小さく震えていた。
兄様は足を止め、振り返る。
その翠の瞳に映るのは、困ったような、痛むような光。
その時、邸の大扉が軋む音がして、風とともに姿を現した影があった。
辺境伯様だった。
降り積もる雪に足を取られもせず、まっすぐこちらへ歩いてくる。
緊張に息が詰まるほど、真剣な眼差しだった。
「ルーチェ嬢」
名を呼ばれ、胸の奥が熱くなる。
辺境伯様は私の前まで来て、少しだけ息を整えるように黙したあと、言葉を絞り出した。
「……リヒト卿と、話を?」
「はい。でも……」
「行かないでほしい」
「へ」
それだけいわれて、言葉が止まる。
兄様も同じく動きを止めていた。
「……」
辺境伯様自身も、一度息を吸い込んでいた。
「色々と……言うべきことを考えていた筈なのだが」
「……」
「……行かないでほしいと、……それだけ」
その声は、いつもより低くて、不器用なほどに真っ直ぐだった。
(本当に――)
私はゆっくりと首を振り、彼の瞳を見つめ返す。
「はい。どこにも行きません」
「……」
「兄様に、そうお伝えしていたのです」
隣で、兄様が静かに息を吐いた。
それは安堵にも、苦笑にも似た気配だった。
「……閣下はなかなか、顔に似合わずそそっかしいところがおありで。妹を任せるには安心しないが」
「兄様!」
「私がこのまま妹を連れ去るとでも? 生憎、私も妹も、挨拶もせずに去る無礼者ではありません」
兄様が少しだけ肩をすくめる。
辺境伯様はわずかに眉を寄せた。
「……それは、失礼を。……だがリヒト卿。卿がこの邸に来た際の唐突さを考えると、つい。私の心配もご理解賜りたいものだ」
「……」
咳払い。
私は思わずクスクス笑ってしまった。
「兄様、良かったですね。兄様にきちんとやり返せる方で」
「……お前にそう言われると、釈然としない」
三人の間を風が抜けていく。
もう、ひとりではないのだと。
兄様は溜め息をつくと、私に向き直った。
「ルーチェ。少し、辺境伯殿と話がしたい」
「は、はい」
「邸の者たちに、迷惑をかけたと伝えておいてくれないか」
暗に、私をここから遠ざける言葉。
辺境伯様の方をちらりと見る。頷く視線に、私もこくりと頷き返した。
「わかりました。……ここでよろしいのですか?」
「ああ。長居はしない。仕事が残っているからな」
◆
ルーチェが邸の方へ戻るのを見て、数秒。
まだ朝靄が晴れ切らぬ光が長い影を落とす中、ダリウスとリヒトは向かい合っていた。
やがて、先に口を開いたのはリヒトだった。
「……振られましたよ、私は」
皮肉を含んだ声音だったが、その奥に疲れが滲んでいた。
眼鏡の奥の翠の瞳は静かに濡れているようにも見える。
「婚姻申請前なら間に合うと、あれほど伝えたのですがね。まさか、あんな顔を見せるとは思わなかった」
苦笑すら浮かばず、ただ事実を確認するような姿。
ダリウスは言葉を挟まなかった。
リヒトは溜め息をついた。
「……辺境伯殿は、妹の噂は知っているのでしょう。「厄災」だという」
「ええ。……しかし、ただの噂に過ぎないと判断しました」
「……そうか。それは何より。しかし、王都にはその醜聞を信じる者――そして、利用しようとする者の方が多い。……どうかよろしく、妹を守ってやってください。力無い兄からの頼みです」
「もとより。そのつもりです」
頷いたダリウスをリヒトが見返す。
ルーチェと同じ深い翠色の瞳。
「そも……何故かつてルーチェの烙印が見つけられたのか、それを大々的に国中に宣告されたのか……当初は、すべてが義父の陰謀かと考えました。しかし、実際ルーチェの瞳にその印が見えるのは事実で、歴史上にもそういう存在は確認されている」
「はい。私も調べました。しかし、逆に言うとそれくらいしか分からないということでもありますが」
「……まあ、その烙印の噂に拍車をかけたのは、私自身が家を放逐されたことに伴う醜聞であったわけです。実の兄を……追放の憂き目という不幸に遭わせた烙印だと」
リヒトは自嘲的な笑みを浮かべた。
そして、ダリウスに向き直る。
「私は、いずれ実家を告発するつもりです」
声色が鋭く変わる。
空気が一段と緊迫した。
「そうですか。……ルーチェ嬢には、伝えたのですか」
「いや、まだです。まだ、戦いの準備が整っていない。……俺一人が玉砕覚悟で戦うならまだしも、ルーチェに累が及ぶことのないようにしたい……」
「……同感です。力添えの叶うことがあれば」
「あくまで私の戦いです。貴殿はこの領地と妹を守っていてくれればいい」
リヒトは、じっとダリウスを見据えた。
「……しかし、金のために、妹を引き受けたのでしょう。貴殿は」
ダリウスの端正な表情が、微かに硬くなる。
「違うとは言いません。……当時は、誰より私自身がそう思っていました」
まっすぐに返された答えに、リヒトのまなざしが細まる。
ダリウスは目を伏せると、小さく息を吐いた。
「私は、彼女を利用するために婚姻した。けれど――今は違います」
顔を上げた瞳には曇りがなかった。
まっすぐに、揺るぎなく。
「手放すつもりはありません。彼女が望む限り、私は彼女の盾であるつもりです」
リヒトがダリウスを見つめ返す。
長い沈黙の後、ほんのわずか、表情が緩んだ。
「……そうですか。いずれにせよ、妹は、あなたを選んだ。それだけだ……」
その声は、意外なほど静かだった。
リヒトはふっと肩をすくめた。
「ならば、こちらも正しい準備をしましょう。この件、なあなあにしておくわけにはいかない」
言葉を交わす二人のあいだにあったぎこちない緊張が、ほんの少し、和らいだように見えた。
◆
扉の向こうから、低い声が聞こえた。
呼びに来たつもりだったのに、足が止まってしまった。
意図したわけではない。ただ、耳が勝手に言葉を拾ってしまったのだ。
「――手放すつもりはありません。彼女が望む限り、私は彼女の盾であるつもりです」
息が止まった。
胸の奥が熱く跳ねて、鼓動が耳の奥で響く。
あの落ち着いた声音。
いつもと変わらぬ柔らかさの中に、刃のような決意が宿っていた。
私のために――
本当に、そんなふうに思っていてくれたの。
胸に手を当てると、脈が痛いほど早かった。
兄がいる前で、そんなふうに言うなんて。
あの人はいつだって冷静で、誰よりも慎重で、滅多なことは言葉にしないのに。
それほどまでに、私を――
まだここに立っていることを悟られてはならない。
耳まで熱くなるのを感じながら、私はそっと踵を返した。
誰にも気づかれないように、静かに。
胸の高鳴りが、廊下中に響いてしまいそうで……
息さえ浅くなる。
苦しいほどなのに、胸の奥が温かい。
私は、あの人の側にいたい。
その答えを、確かに胸に抱いたまま――私は扉から遠ざかった。
「ルーチェ様。お戻りだったのですね。辺境伯様は……」
「イリア」
ぱっとその影に隠れるように耳打ちする。
「お兄様がお帰りになるの。仕事の手が空いている人は見送りをして差し上げて」
「では、ルーチェ様は」
「ええ」
私はここにいるわ、と微笑んだ。
◆
灰色の空を背景に、馬車の車輪が静かに雪を踏みしめた。
出発の準備が整い、御者が手綱を軽く引く。
リヒトは振り返り、邸の前に並ぶ人々へ礼を取った。
「急な訪問でご迷惑をおかけしました。……失礼いたします」
淡々とした声音。
その背に、まだ言葉にできない重さが揺れていた。
そのとき、列の端からイリアがそっと一歩進み出た。
「少し、お待ちくださいませ」
細かな雪を払いながら、柔らかな布を差し出す。
薄茶の膝掛けだった。
「思うよりずっと冷えますから。……どうか、お体を悪くされませんように」
控えめな声。
だがその言葉には、丁寧に折りたたまれた気遣いが感じられた。
リヒトは一瞬驚いたように目を瞬かせ、布を受け取る。
「ありがとう。……助かります」
イリアは小さく頭を下げた。
ほとんど聞こえないほどの声で、続ける。
「ルーチェ様を、必ずお支えします」
その言葉に、リヒトはしばし黙した。
答えを探すように目を伏せ、そして短く微笑む。
「……頼みます」
それだけを残し、彼は馬車に乗り込む。
御者の鞭が鳴り、車輪がゆっくりと雪を蹴る。
イリアは静かに見送った。
リヒトもまた、窓越しに一礼を返す。
その視線が向けられた先は、邸全体でも、ただ一人だけでもなかったけれど、ただ、ほんの少し長く目が合った。
外套を着込み、気づかれないようにそっと邸の外へ出ていく。
門扉の下に立つ兄の背中が、薄い霧の向こうに浮かび上がっていた。
呼吸が白くほどけていく。
「……兄様」
私の声に、兄様がゆっくりと振り返った。
翠の瞳は昔と同じ色なのに、どこか険しい影が落ちている。
きっと、兄様も考えてくださっていたのだろう。
その想いが痛いほど伝わってきた。
「結論は、出たか」
静かな問いかけ。
胸の奥に、強く息を吸い込む。
「はい」
逃げずに見つめ返す。
指に光る銀の指輪が、小さな決意のように冷たく輝いた。
「私は――ここで生きたいと思います」
兄の眉がかすかに動く。
「兄様が言ってくださったこと、全部嬉しかった。私のことを思って、守ろうとしてくださって……そのお気持ちは、痛いほどに伝わりました」
言葉を続けるたび、胸が熱くなる。
でも、下を向くわけにはいかなかった。
「兄様はきっと、私を守ってくださいます。信じています」
そう言った瞬間、兄の瞳が微かに揺れた。
その優しさを知っている。
ずっと、待っていた人だ。
「でも私はきっと――辺境伯様に守られる以上に、あの方を守って差し上げたいのです」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
胸の奥の熱が、すべて声に乗っていった。
「烏滸がましいかもしれません。身の程知らずだと笑われるかもしれません。それでも……私は、ここにいたい」
沈黙が落ちる。
雪のきしむ音だけが響いた。
長い沈黙ののち、兄様はかすかに目を見開いた。
私の言葉が、意外だったかのように。
まるで、知らなかった何かを見せられた人のようだった。
「……そんな顔を、するのか」
驚きと、少しの誇らしさが混じった声だった。
その響きに、胸がじんと痛んだ。
兄様はそっと私の頭を撫でた。
「……辺境伯殿は、思ったより弱い方なのかな」
少し皮肉に口の端を持ち上げて。
「いいえ。兄様」
それが本気の言葉ではないと分かったから、私は微笑んだ。
「お強いから。――辺境伯様は、誰に守られる必要もないくらいお強いから。だから、お守りしたいと思ったの」
「ルーチェ。お前は……」
何かを言いかけて、兄は言葉を飲み込んだ。
ただ、深く息を吐き、空に視線を向けた。
「……わかった」
兄様が小さく頷いた。
「だが、ルーチェ……俺もまた、お前を守りたいと思っていることを、どうか忘れないでほしい」
「……はい」
「助けが必要ならいつでも。……それこそ、離縁したくなったならいつでも協力するし……」
「もう、兄様」
「……ふっ、とにかくそれくらい、なんでも協力するつもりだ」
私は「はい」と頷いて笑った。
「……なら、ここで俺がすべきことはもうない。ルーチェ。今度こそ……手紙を送る。それと、春になったら官舎の寮にも遊びにきてくれ」
「是非、伺いたいです。兄様のお部屋に」
「ああ。……狭くてむさ苦しい寮だがな。俺には合っている。……とは言え、お前の部屋より狭いぞ」
「……兄様も、私の兄様ですもの。広くて冷たい部屋より、あたたかい小部屋の方がお好きでしょう?」
私が言うと、兄様は笑った。珍しく快活に、天を仰いで。
「失礼するか」
少しだけ――心配がないと言えば、嘘になる。
兄様だって、大変な境遇であることに変わりはないから。
「兄様」
呼んだ声が、自分でも驚くほど小さく震えていた。
兄様は足を止め、振り返る。
その翠の瞳に映るのは、困ったような、痛むような光。
その時、邸の大扉が軋む音がして、風とともに姿を現した影があった。
辺境伯様だった。
降り積もる雪に足を取られもせず、まっすぐこちらへ歩いてくる。
緊張に息が詰まるほど、真剣な眼差しだった。
「ルーチェ嬢」
名を呼ばれ、胸の奥が熱くなる。
辺境伯様は私の前まで来て、少しだけ息を整えるように黙したあと、言葉を絞り出した。
「……リヒト卿と、話を?」
「はい。でも……」
「行かないでほしい」
「へ」
それだけいわれて、言葉が止まる。
兄様も同じく動きを止めていた。
「……」
辺境伯様自身も、一度息を吸い込んでいた。
「色々と……言うべきことを考えていた筈なのだが」
「……」
「……行かないでほしいと、……それだけ」
その声は、いつもより低くて、不器用なほどに真っ直ぐだった。
(本当に――)
私はゆっくりと首を振り、彼の瞳を見つめ返す。
「はい。どこにも行きません」
「……」
「兄様に、そうお伝えしていたのです」
隣で、兄様が静かに息を吐いた。
それは安堵にも、苦笑にも似た気配だった。
「……閣下はなかなか、顔に似合わずそそっかしいところがおありで。妹を任せるには安心しないが」
「兄様!」
「私がこのまま妹を連れ去るとでも? 生憎、私も妹も、挨拶もせずに去る無礼者ではありません」
兄様が少しだけ肩をすくめる。
辺境伯様はわずかに眉を寄せた。
「……それは、失礼を。……だがリヒト卿。卿がこの邸に来た際の唐突さを考えると、つい。私の心配もご理解賜りたいものだ」
「……」
咳払い。
私は思わずクスクス笑ってしまった。
「兄様、良かったですね。兄様にきちんとやり返せる方で」
「……お前にそう言われると、釈然としない」
三人の間を風が抜けていく。
もう、ひとりではないのだと。
兄様は溜め息をつくと、私に向き直った。
「ルーチェ。少し、辺境伯殿と話がしたい」
「は、はい」
「邸の者たちに、迷惑をかけたと伝えておいてくれないか」
暗に、私をここから遠ざける言葉。
辺境伯様の方をちらりと見る。頷く視線に、私もこくりと頷き返した。
「わかりました。……ここでよろしいのですか?」
「ああ。長居はしない。仕事が残っているからな」
◆
ルーチェが邸の方へ戻るのを見て、数秒。
まだ朝靄が晴れ切らぬ光が長い影を落とす中、ダリウスとリヒトは向かい合っていた。
やがて、先に口を開いたのはリヒトだった。
「……振られましたよ、私は」
皮肉を含んだ声音だったが、その奥に疲れが滲んでいた。
眼鏡の奥の翠の瞳は静かに濡れているようにも見える。
「婚姻申請前なら間に合うと、あれほど伝えたのですがね。まさか、あんな顔を見せるとは思わなかった」
苦笑すら浮かばず、ただ事実を確認するような姿。
ダリウスは言葉を挟まなかった。
リヒトは溜め息をついた。
「……辺境伯殿は、妹の噂は知っているのでしょう。「厄災」だという」
「ええ。……しかし、ただの噂に過ぎないと判断しました」
「……そうか。それは何より。しかし、王都にはその醜聞を信じる者――そして、利用しようとする者の方が多い。……どうかよろしく、妹を守ってやってください。力無い兄からの頼みです」
「もとより。そのつもりです」
頷いたダリウスをリヒトが見返す。
ルーチェと同じ深い翠色の瞳。
「そも……何故かつてルーチェの烙印が見つけられたのか、それを大々的に国中に宣告されたのか……当初は、すべてが義父の陰謀かと考えました。しかし、実際ルーチェの瞳にその印が見えるのは事実で、歴史上にもそういう存在は確認されている」
「はい。私も調べました。しかし、逆に言うとそれくらいしか分からないということでもありますが」
「……まあ、その烙印の噂に拍車をかけたのは、私自身が家を放逐されたことに伴う醜聞であったわけです。実の兄を……追放の憂き目という不幸に遭わせた烙印だと」
リヒトは自嘲的な笑みを浮かべた。
そして、ダリウスに向き直る。
「私は、いずれ実家を告発するつもりです」
声色が鋭く変わる。
空気が一段と緊迫した。
「そうですか。……ルーチェ嬢には、伝えたのですか」
「いや、まだです。まだ、戦いの準備が整っていない。……俺一人が玉砕覚悟で戦うならまだしも、ルーチェに累が及ぶことのないようにしたい……」
「……同感です。力添えの叶うことがあれば」
「あくまで私の戦いです。貴殿はこの領地と妹を守っていてくれればいい」
リヒトは、じっとダリウスを見据えた。
「……しかし、金のために、妹を引き受けたのでしょう。貴殿は」
ダリウスの端正な表情が、微かに硬くなる。
「違うとは言いません。……当時は、誰より私自身がそう思っていました」
まっすぐに返された答えに、リヒトのまなざしが細まる。
ダリウスは目を伏せると、小さく息を吐いた。
「私は、彼女を利用するために婚姻した。けれど――今は違います」
顔を上げた瞳には曇りがなかった。
まっすぐに、揺るぎなく。
「手放すつもりはありません。彼女が望む限り、私は彼女の盾であるつもりです」
リヒトがダリウスを見つめ返す。
長い沈黙の後、ほんのわずか、表情が緩んだ。
「……そうですか。いずれにせよ、妹は、あなたを選んだ。それだけだ……」
その声は、意外なほど静かだった。
リヒトはふっと肩をすくめた。
「ならば、こちらも正しい準備をしましょう。この件、なあなあにしておくわけにはいかない」
言葉を交わす二人のあいだにあったぎこちない緊張が、ほんの少し、和らいだように見えた。
◆
扉の向こうから、低い声が聞こえた。
呼びに来たつもりだったのに、足が止まってしまった。
意図したわけではない。ただ、耳が勝手に言葉を拾ってしまったのだ。
「――手放すつもりはありません。彼女が望む限り、私は彼女の盾であるつもりです」
息が止まった。
胸の奥が熱く跳ねて、鼓動が耳の奥で響く。
あの落ち着いた声音。
いつもと変わらぬ柔らかさの中に、刃のような決意が宿っていた。
私のために――
本当に、そんなふうに思っていてくれたの。
胸に手を当てると、脈が痛いほど早かった。
兄がいる前で、そんなふうに言うなんて。
あの人はいつだって冷静で、誰よりも慎重で、滅多なことは言葉にしないのに。
それほどまでに、私を――
まだここに立っていることを悟られてはならない。
耳まで熱くなるのを感じながら、私はそっと踵を返した。
誰にも気づかれないように、静かに。
胸の高鳴りが、廊下中に響いてしまいそうで……
息さえ浅くなる。
苦しいほどなのに、胸の奥が温かい。
私は、あの人の側にいたい。
その答えを、確かに胸に抱いたまま――私は扉から遠ざかった。
「ルーチェ様。お戻りだったのですね。辺境伯様は……」
「イリア」
ぱっとその影に隠れるように耳打ちする。
「お兄様がお帰りになるの。仕事の手が空いている人は見送りをして差し上げて」
「では、ルーチェ様は」
「ええ」
私はここにいるわ、と微笑んだ。
◆
灰色の空を背景に、馬車の車輪が静かに雪を踏みしめた。
出発の準備が整い、御者が手綱を軽く引く。
リヒトは振り返り、邸の前に並ぶ人々へ礼を取った。
「急な訪問でご迷惑をおかけしました。……失礼いたします」
淡々とした声音。
その背に、まだ言葉にできない重さが揺れていた。
そのとき、列の端からイリアがそっと一歩進み出た。
「少し、お待ちくださいませ」
細かな雪を払いながら、柔らかな布を差し出す。
薄茶の膝掛けだった。
「思うよりずっと冷えますから。……どうか、お体を悪くされませんように」
控えめな声。
だがその言葉には、丁寧に折りたたまれた気遣いが感じられた。
リヒトは一瞬驚いたように目を瞬かせ、布を受け取る。
「ありがとう。……助かります」
イリアは小さく頭を下げた。
ほとんど聞こえないほどの声で、続ける。
「ルーチェ様を、必ずお支えします」
その言葉に、リヒトはしばし黙した。
答えを探すように目を伏せ、そして短く微笑む。
「……頼みます」
それだけを残し、彼は馬車に乗り込む。
御者の鞭が鳴り、車輪がゆっくりと雪を蹴る。
イリアは静かに見送った。
リヒトもまた、窓越しに一礼を返す。
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