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離れても想いはめぐる蔦の章
幕間 贖罪のために
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王宮内の一室。
積まれた書類の山の中で、リヒトは静かに机上に目を落としていた。
帳簿、寄付金の収支、地方行政の報告書、神殿関連の補助金申請。
煩雑で退屈な事務仕事の集合体にすぎない。だが、彼にとっては違った。
一枚一枚が、意図的に歪められ、切り取られ、隠された断片だった。
積み上げられた現実は、証拠の形になりつつある。
だが、決定打にはまだ、遠い。
(――焦るな。だが……)
公爵家と神殿。
彼らは第二王子を担ぎつつ、巧妙に連携して互いの不正を隠している。
貴族の集めた汚い金が神殿への寄付を通して洗われ、民の救済を行う筈の神殿の中枢部は肥え太っている。
神殿と言っても、王都の神殿の高位神官たちは皆、もとは貴族の子弟だ。
不当に権利を奪われ、行きどころがなくなって信仰の道に押し込められた――と主張する者たち。
神への信仰心は薄いと言わざるをえない。
リヒトが掴めているのは、あくまで疑念の輪郭だけだ。
そして、その行動が見逃されるはずもなかった。
ノックの音がする。
「リヒト卿」
「どうぞ」
書類を抱えた若い官吏が、扉の影から困ったように声をかけてくる。
「至急処理を、とのことで……こちらも、その……」
視線の先には、また別の書類の束。
リヒトは一目で理解した。
――またか。
露骨な脅迫はない。
ただ、案件を次々とリヒトに押し付け、時間を奪う。
調査に使える余力を削ぎ、神殿と公爵家への追及を「遅らせる」。
リヒトが仕事を回しきれなくなれば無能の評価を下し、反抗すればそれを利用して封殺するつもりだろう。
合理的な圧力だ、と無感動に敵を評価する。
「……断れない仕事なら、私への遠慮は無用です。躊躇う暇があったらさっさとこちらに置いてください。順に処理します」
「は、はい……」
淡々と答えながら、リヒトは仕事を続けた。
若い官吏は書類を置くと、そそくさと部屋を出ていこうとする。
「君」
「は、はひ。申し訳ありません、何かミスが……」
「いや。先日、君が提出した西方域の交易税にかかる意見書は悪くない出来でした。審議に回しておきます」
手元から目を上げないままリヒトは言う。
「えっ、えっ」
「それだけです」
「あっ、ありがとうございます!リヒト卿にたくさん手を入れて頂いて、そのお陰で。……あ、あの、皆リヒト卿こと怖がってますけど、でもそれより感謝してて」
「それはどうも。しかしお世辞は結構です。互いの時間を無駄にしないためにも、次回は私に草稿を見せる前に誤脱の確認くらいはしてきてください。君はどうにも、その手の減点が多すぎます」
「……はい、まことに申し訳ありません…………」
表情を明るくした若い官吏は、一転してしおしおと、それでも確かな感謝を込めてリヒトを見る。
それから、これ以上部屋にいるとまた何か言われると思ったのだろう。
頭を下げて出ていった。
部屋には再び静寂が戻ってくる。
「……まったく」
しばらくして、リヒトは小さく息を吐いた。
眼鏡を机に放るように外し、眉間に指を当てる。天井がぼやけて見えた。
(……アルは、どうしているだろう)
アルベルト。華やかさも、強引さもない第一王子。
リヒトの幼馴染。臆病で頼りなげな――けれど、辛抱強く誠実な友。
同時に、妹の姿も思い浮かぶ。
ルーチェ。
あの優しい妹が、王宮の重苦しい空気に晒されていることが、堪らなく不安だった。
――かつて……俺が公爵家を追われさえしなければ。
そんな考えが、また胸をつく。
あの時は、まだ子供だった。
自分はとても賢いつもりの、まだ世界が正しい側に従うと、無邪気に信じていた子供。
義父の策謀に抗う術など持ってなかった。
子供はその愚かさを許されるべきだと、悪いのは自分たちを陥れた側だと、理屈では理解している。
それでも自責の念は消えない。
自分がいなくなったせいで、ルーチェもアルベルトも、支援の手をすべて失った。
ほとんど着の身着のままで放り出された遠い異国の地で、リヒトはまず自分が生きていくことにかかりきりになり――
気づいた時には、すべてが変わってしまっていた。
どれだけ手紙を出しても、「ありがとう」という要領をえない手紙しか返さなかったルーチェ。その手紙すら、時が経つうちに届かなくなった。
社交界にも顔を出さない妹のひどい噂――ルーチェと関わると不幸になる、長く目を合わせた騎士は前後不覚になって討たれるなどと、――愚にもつかない噂の大きな根拠が、よりによってリヒト自身が公爵家を追われたことにあったと、知った時には今すぐ首を吊って死のうかと思った。
ルーチェは、今は幸せだと笑って言うけれど、耐えがたいほどの不幸に陥れられたのは、リヒトではなくルーチェの方だ。
ようやく職を得て帰ってきた王宮で、笑顔を向けてくれたアルベルトのことを思う。
微笑みに見えた影。幼い頃にリヒトが見知っていた、アルベルトを守る重臣たちは姿を消していた。
かつて、慎重に言葉を選びながら、それでも静かな情熱を込めて未来の治世について理想を述べていた少年も、いなくなっていた。
一人きりで……王宮に薄く響く嘲笑を、聞こえないふりをして、ぼんやりとうつけたように立つ青年がいて。
それでもリヒトを見て、「また逢えて嬉しい」と力無く微笑んだ……
(いっそ、二人して俺を責めてくれればよかった)
(こんな目に遭わされたのはお前のせいだと、お前のせいで人生が壊れたと、殴ってくれても甘んじて受け入れるものを)
いや、だが、二人は決してそうはしないのだろう。
それこそがきっと、自分には無い彼らの強さ。――そう、思っている。
ルーチェはこの国で、夫と共に生きていくことを望んだ。
アルベルトもまた、この国にいる。
であれば、自分はこの国を是正しなければならないだろう。
それに――妹を苦しめた、すべてのものに報いを受けてもらわなければ気が済まない。
不正は確かにある。だが、誰をも納得させるように、瑕疵のない証明には時間が要る。
その時間を与えまいとする圧力が、今まさに自分の肩にのしかかっている。
守るべきものが増えるほど、思考は慎重になり、反比例するように手段は過激になる。
舞踏会の夜の出来事を思い出す。
確かに、義父は神官たちと密談を交わしていた。
どこかで、大きく事態が動くはずだ。大きな事が起こるほど、証拠は掴みやすくなる。
(そう言えば……あの時、蹴られそうになったな)
ふと、思い出す。
舞踏会の最中、王宮の庭園。
イリアという侍女だと、後ろ姿を見てすぐに思い出した。
風に揺れる花木の向こう、密談を聞きつけて音を立てようとするものだから、思い切り止めてしまった。
誤解したのか、こちらが口を開くより早く、躊躇のない動きで足が――
「……ふっ」
あのときは本気で、イリアに蹴られると思った。的確に狙う動きに、正直、冷や汗ものだった。
反射的に身を引いた自分を、今思い出しても少し可笑しい。
思わず息に混じるように小さな笑いがこぼれる。
声に出したつもりはなかったが、誰もいない執務室だから構わない。
追及を逃れるために彼女をまるで恋人のように抱きしめたのも、些か軽率だった。
自分にしては後先考えない行動だった。
しかしその後も、彼女は全く顔色ひとつ変えない無表情で、それを当然の処置だと受け止めた。
拍子抜けした自分が愚かしい。思い出すと何故か、少し笑えた。
リヒトは、軽く息をつく。
眼鏡をかけなおし、書類を一度整えた。
(……感傷は終わりだ)
自分がやるべきことは、変わらない。
証拠を集め、敵を動かす。
必要とあらば、餌にもなろう。駒にもなろう。
敵方は、せいぜい俺を警戒すればいい。
自分が傷つくことで済むなら、それでいい。
そうだ、寧ろ――
「……」
それが、いつのまにか当たり前の前提になっていることを、リヒト自身が一番よく分かっていた。
自分の役目ですらない。ただの――贖罪だ。
机上に広げた資料へと、再び手を伸ばす。
指先に、確かな力を込めて。
――忘れるな。かつての自分の、無力という罪を。
積まれた書類の山の中で、リヒトは静かに机上に目を落としていた。
帳簿、寄付金の収支、地方行政の報告書、神殿関連の補助金申請。
煩雑で退屈な事務仕事の集合体にすぎない。だが、彼にとっては違った。
一枚一枚が、意図的に歪められ、切り取られ、隠された断片だった。
積み上げられた現実は、証拠の形になりつつある。
だが、決定打にはまだ、遠い。
(――焦るな。だが……)
公爵家と神殿。
彼らは第二王子を担ぎつつ、巧妙に連携して互いの不正を隠している。
貴族の集めた汚い金が神殿への寄付を通して洗われ、民の救済を行う筈の神殿の中枢部は肥え太っている。
神殿と言っても、王都の神殿の高位神官たちは皆、もとは貴族の子弟だ。
不当に権利を奪われ、行きどころがなくなって信仰の道に押し込められた――と主張する者たち。
神への信仰心は薄いと言わざるをえない。
リヒトが掴めているのは、あくまで疑念の輪郭だけだ。
そして、その行動が見逃されるはずもなかった。
ノックの音がする。
「リヒト卿」
「どうぞ」
書類を抱えた若い官吏が、扉の影から困ったように声をかけてくる。
「至急処理を、とのことで……こちらも、その……」
視線の先には、また別の書類の束。
リヒトは一目で理解した。
――またか。
露骨な脅迫はない。
ただ、案件を次々とリヒトに押し付け、時間を奪う。
調査に使える余力を削ぎ、神殿と公爵家への追及を「遅らせる」。
リヒトが仕事を回しきれなくなれば無能の評価を下し、反抗すればそれを利用して封殺するつもりだろう。
合理的な圧力だ、と無感動に敵を評価する。
「……断れない仕事なら、私への遠慮は無用です。躊躇う暇があったらさっさとこちらに置いてください。順に処理します」
「は、はい……」
淡々と答えながら、リヒトは仕事を続けた。
若い官吏は書類を置くと、そそくさと部屋を出ていこうとする。
「君」
「は、はひ。申し訳ありません、何かミスが……」
「いや。先日、君が提出した西方域の交易税にかかる意見書は悪くない出来でした。審議に回しておきます」
手元から目を上げないままリヒトは言う。
「えっ、えっ」
「それだけです」
「あっ、ありがとうございます!リヒト卿にたくさん手を入れて頂いて、そのお陰で。……あ、あの、皆リヒト卿こと怖がってますけど、でもそれより感謝してて」
「それはどうも。しかしお世辞は結構です。互いの時間を無駄にしないためにも、次回は私に草稿を見せる前に誤脱の確認くらいはしてきてください。君はどうにも、その手の減点が多すぎます」
「……はい、まことに申し訳ありません…………」
表情を明るくした若い官吏は、一転してしおしおと、それでも確かな感謝を込めてリヒトを見る。
それから、これ以上部屋にいるとまた何か言われると思ったのだろう。
頭を下げて出ていった。
部屋には再び静寂が戻ってくる。
「……まったく」
しばらくして、リヒトは小さく息を吐いた。
眼鏡を机に放るように外し、眉間に指を当てる。天井がぼやけて見えた。
(……アルは、どうしているだろう)
アルベルト。華やかさも、強引さもない第一王子。
リヒトの幼馴染。臆病で頼りなげな――けれど、辛抱強く誠実な友。
同時に、妹の姿も思い浮かぶ。
ルーチェ。
あの優しい妹が、王宮の重苦しい空気に晒されていることが、堪らなく不安だった。
――かつて……俺が公爵家を追われさえしなければ。
そんな考えが、また胸をつく。
あの時は、まだ子供だった。
自分はとても賢いつもりの、まだ世界が正しい側に従うと、無邪気に信じていた子供。
義父の策謀に抗う術など持ってなかった。
子供はその愚かさを許されるべきだと、悪いのは自分たちを陥れた側だと、理屈では理解している。
それでも自責の念は消えない。
自分がいなくなったせいで、ルーチェもアルベルトも、支援の手をすべて失った。
ほとんど着の身着のままで放り出された遠い異国の地で、リヒトはまず自分が生きていくことにかかりきりになり――
気づいた時には、すべてが変わってしまっていた。
どれだけ手紙を出しても、「ありがとう」という要領をえない手紙しか返さなかったルーチェ。その手紙すら、時が経つうちに届かなくなった。
社交界にも顔を出さない妹のひどい噂――ルーチェと関わると不幸になる、長く目を合わせた騎士は前後不覚になって討たれるなどと、――愚にもつかない噂の大きな根拠が、よりによってリヒト自身が公爵家を追われたことにあったと、知った時には今すぐ首を吊って死のうかと思った。
ルーチェは、今は幸せだと笑って言うけれど、耐えがたいほどの不幸に陥れられたのは、リヒトではなくルーチェの方だ。
ようやく職を得て帰ってきた王宮で、笑顔を向けてくれたアルベルトのことを思う。
微笑みに見えた影。幼い頃にリヒトが見知っていた、アルベルトを守る重臣たちは姿を消していた。
かつて、慎重に言葉を選びながら、それでも静かな情熱を込めて未来の治世について理想を述べていた少年も、いなくなっていた。
一人きりで……王宮に薄く響く嘲笑を、聞こえないふりをして、ぼんやりとうつけたように立つ青年がいて。
それでもリヒトを見て、「また逢えて嬉しい」と力無く微笑んだ……
(いっそ、二人して俺を責めてくれればよかった)
(こんな目に遭わされたのはお前のせいだと、お前のせいで人生が壊れたと、殴ってくれても甘んじて受け入れるものを)
いや、だが、二人は決してそうはしないのだろう。
それこそがきっと、自分には無い彼らの強さ。――そう、思っている。
ルーチェはこの国で、夫と共に生きていくことを望んだ。
アルベルトもまた、この国にいる。
であれば、自分はこの国を是正しなければならないだろう。
それに――妹を苦しめた、すべてのものに報いを受けてもらわなければ気が済まない。
不正は確かにある。だが、誰をも納得させるように、瑕疵のない証明には時間が要る。
その時間を与えまいとする圧力が、今まさに自分の肩にのしかかっている。
守るべきものが増えるほど、思考は慎重になり、反比例するように手段は過激になる。
舞踏会の夜の出来事を思い出す。
確かに、義父は神官たちと密談を交わしていた。
どこかで、大きく事態が動くはずだ。大きな事が起こるほど、証拠は掴みやすくなる。
(そう言えば……あの時、蹴られそうになったな)
ふと、思い出す。
舞踏会の最中、王宮の庭園。
イリアという侍女だと、後ろ姿を見てすぐに思い出した。
風に揺れる花木の向こう、密談を聞きつけて音を立てようとするものだから、思い切り止めてしまった。
誤解したのか、こちらが口を開くより早く、躊躇のない動きで足が――
「……ふっ」
あのときは本気で、イリアに蹴られると思った。的確に狙う動きに、正直、冷や汗ものだった。
反射的に身を引いた自分を、今思い出しても少し可笑しい。
思わず息に混じるように小さな笑いがこぼれる。
声に出したつもりはなかったが、誰もいない執務室だから構わない。
追及を逃れるために彼女をまるで恋人のように抱きしめたのも、些か軽率だった。
自分にしては後先考えない行動だった。
しかしその後も、彼女は全く顔色ひとつ変えない無表情で、それを当然の処置だと受け止めた。
拍子抜けした自分が愚かしい。思い出すと何故か、少し笑えた。
リヒトは、軽く息をつく。
眼鏡をかけなおし、書類を一度整えた。
(……感傷は終わりだ)
自分がやるべきことは、変わらない。
証拠を集め、敵を動かす。
必要とあらば、餌にもなろう。駒にもなろう。
敵方は、せいぜい俺を警戒すればいい。
自分が傷つくことで済むなら、それでいい。
そうだ、寧ろ――
「……」
それが、いつのまにか当たり前の前提になっていることを、リヒト自身が一番よく分かっていた。
自分の役目ですらない。ただの――贖罪だ。
机上に広げた資料へと、再び手を伸ばす。
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――忘れるな。かつての自分の、無力という罪を。
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