【完結】隻腕の代理王 ~帝国と教皇国に挟まれた詰み盤面。俺は「ハッタリ」と「覚悟」だけで、二つの敵軍を撤退させる~

Lihito

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2話:火事場強襲

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 騎士団長として、数々の戦場を駆けてきた。
 だが、こんな命令は初めてだ。アラリック、お前正気か——自問しながら、自分は走っていた。

「火事だ! 離宮の倉庫から火が出たぞ!」

 深夜の静寂を、怒声が切り裂いた。
 警鐘が打ち鳴らされる。金属音と雨音が混じり合い、城内を駆け巡った。

 暴風雨の中、泥水を蹴立てて石畳を疾走する。冷たい雨が鎧の隙間から入り込み、肌を刺す。
 寒さなど構っていられない。

 ボヤを起こせ。
 そして、緊急と銘打ってマルクスの部屋に突撃しろ。

 正気を疑う命令だった。
 教皇国からの正式な使節、高位聖職者の部屋に火事を口実に押し入る。一歩間違えれば、この小国は灰燼に帰す。
 だが、迷いはなかった。
 殿下が決めた。ならば従う。騎士とはそういうものだ。
 それに——今この瞬間も、公王陛下の命は蝕まれている。迷っている暇などない。

「消火を急げ! 賓客の身に万一のことがあってはならん!」

 怒号を上げながら、精鋭たちを引き連れて離宮の回廊を突き進んだ。
 行く手を阻む教皇国の聖騎士たち。だが突然の火災と剣幕に気圧され、為す術もなく道を譲る。
 そうだ。退け。今夜、自分たちは止まらない。

「マルクス殿! ご無事か! 火が回っております、直ちに避難を!」

 口実としての「救出」を叫びながら、マルクスの部屋の扉に手をかけた。
 鍵がかかっている。
 躊躇なく、鋼鉄の靴で蹴り飛ばした。

 蝶番が悲鳴を上げ、扉が弾け飛ぶ。

         ◇ ◇ ◇

 異臭が押し寄せてきた。
 腐った肉と、甘い没薬、錆びた鉄。混じり合った強烈な匂い。
 思わず口元を覆う。何だ、これは。

 目の前の光景に、息を呑んだ。
 そこは聖職者の寝室ではなかった。

 絨毯の上に、鮮血で巨大な魔法陣が描かれている。
 歪で禍々しい幾何学模様。その中央にマルクスが跪いていた。
 周囲には黒い獣の骨が並べられ、卓上には黒い液体が満たされた銀杯。
 マルクスは体を揺らしながら、人の声とは思えぬ呪詛を紡ぎ続けている。

 扉が破壊された音も、外の騒乱も、届いていないようだった。
 狂っている。この男は完全に狂っている。

 自分の背後から、殿下が踏み込んだ。

 その瞬間、マルクスが目を見開いた。
 白目は黒く濁り、瞳孔は縦に裂け、金色に光っている。顔面の血管が黒く浮き上がり、脈打っていた。
 人間の顔ではない。剣の柄を握りしめた。

「私は、公王の魂を救うべく……穢れを祓うため、神と対話して……!」

 言い訳にもならぬ絶叫。
 その時、背後から伝令兵が転がり込んできた。

「殿下! 父王様の変色が止まりました! 呼吸が安定しております!」

 やはり、こいつだ。
 突入によって、マルクスの術が途切れた。殿下の読み通りだった。

 だがマルクスは諦めていなかった。
 法衣の下から儀式用の短剣を抜き、迷うことなく自らの掌に突き立てた。
 鈍い音。鮮血が迸る。

「おのれ……ならば我が血肉をもって、神の裁きを……!」

 震える手で、魔法陣に最後の一筆を加えようとしている。
 させるか。

「魔法陣を壊せ! 生け捕りにしろ!」

 殿下の号令が響いた。
 体は、考えるより先に動いていた。

 踏み込む。
 重い靴が血の魔法陣を踏み荒らす。
 祭壇に到達し、銀杯を蹴り飛ばした。

 甲高い音と共に銀杯が壁に激突する。黒い液体が絨毯に広がっていく。

 マルクスが白目を剥いた。
 口から泡を吹き、のけぞる。肌に浮き出ていた黒い血管が暴れ回り、やがて沈んでいく。
 床に崩れ落ちた。

「確保せよ!」

 精鋭たちが殺到し、痙攣するマルクスの両腕をねじ上げ、鉄の枷をはめた。
 終わった。荒い息を吐く。

 部屋には、焦げた匂いと荒い呼吸だけが残った。

「殿下、捕らえました」

 額の汗を拭いながら報告した。手足の震えが止まらない。
 恐怖だ。未知のものへの、本能的な恐怖。だが今は抑え込むしかない。

「しかし、この男が使っていたのは……教皇国が『異端の邪術』として火刑に処しているはずの術式です。なぜ高位聖職者が……」

 影のように控えていたリオラが、マルクスの懐から一通の書簡を取り出した。
 封蝋の印を確認し、目を細める。

「これは教皇国の正式な国章ではありません。『枢機卿個人』の秘密印です」

 殿下が眉を顰めた。

「どういう意味だ」

「公的な命令ではなく、教皇国内部の過激派による独断の可能性があります。あるいは……我々にわざと『教皇国が犯人』と確信させるための罠か」

 殿下は床に転がるマルクスを見下ろした。
 表情は読めない。だが、隻腕の肩がわずかに上下している。
 殿下も、緊張しているのだ。この方も人間なのだと、少しだけ安心した。

「ひとまず、父上の容態が安定したのは確かだ。最悪の事態は回避できた。この男の処遇と背後の思惑は後で紐解く。今は――」

 その時、城門の方角から進軍ラッパの音が響いた。
 雨音を切り裂き、城内の空気を震わせる。

 帝国軍だ。
 呪いの次は、鋼鉄の軍靴が到着した。
 剣の柄を握り直す。まだ、終わっていない。
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