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9話:赤い狼煙
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執務室の窓から城下を見下ろす。これほど薄氷の上を歩く日々は初めてだった
雨上がりの湿った空気が、城を重く包み込んでいた。石造りの壁は水分を含んで黒ずみ、廊下にはカビと古びたタペストリーの匂いが澱んでいる。
若き主君は、手元の駒をすべて盤上に放った。
北へ向かう者たち。「不実な天才」カイルと、野良犬のような斥候ルーク。建国以来の秘蔵酒を積んだ馬車と共に、険しい北の山道を進んでいるはずだ。その後を追うのは、若き将校レオンと、生き証人ウーゴ。
城内に残る者たち。騎士団長アラリックが防衛の要として城壁を固め、侍女長リオラが影として城内の「鼠」を掃討している。
地下牢には、ビショップ・マルクスと裏切り者セドリック。
そして、寝室で眠り続ける公王エドワード三世。
これが、今のレムリア公国のすべてだ。
脆く、危うい均衡。
◇ ◇ ◇
静寂は長く続かなかった。
冷めた茶に手を伸ばそうとした時、視界の端で何かが動いた。
城壁の死角となる隅。衛兵の巡回ルートから外れたその場所に、潜んでいた何者かが身を起こしたのだ。
そして、その人影が筒状の何かを掲げた瞬間——
シュッ、という風切り音。
赤い煙が噴き上がった。
狼煙だ。
鮮血のように赤い煙が、灰色の空に毒々しい筋を描いていく。
血の気が引いた。
私は茶器を落とすのも構わず、震える足で廊下を走った。老いた心臓が早鐘を打ち、肺が悲鳴を上げる。
若き主君の執務室へ。一刻も早く。
バンッ!
扉を叩く礼儀さえ忘れ、部屋に飛び込んだ。
「殿下! 先ほど、セドリック派の残党の一人を城壁の隅で仕留めました!」
息を切らし、喉をヒューヒューと鳴らしながら叫ぶ。
「……ですが、手遅れです。奴は死に際に、隠し持っていた狼煙を上げおった!」
殿下は弾かれたように窓に駆け寄った。
隻腕の手が、窓枠を強く掴む。
北の山々の頂から、細く、しかし残酷なほどはっきりと、赤い煙が立ち上っている。セドリックが帝国軍と事前に取り決めていたであろう最悪のサイン。「公王死亡」、あるいは「城内での蜂起成功」を告げる偽りの合図。
「……まずいな」
殿下の声が、地を這うように低くなった。
「門の外で待機していた帝国の千人長が、この煙を見逃すはずがない」
私は祈るような気持ちで窓の外を見つめた。
だが、現実は無慈悲だった。
案の定、城門の外に陣を張っていた帝国軍が動き始めている。騎兵が馬に跨り、歩兵が盾を構え、槍の穂先を城門へと向ける。金属が擦れ合う音が、遠雷のように響いてくる。
「『約束の日の出まで待つ必要はなくなった』……そう判断するでしょう」
私は苦渋に満ちた声で絞り出した。
「彼らは、『公王死亡による混乱を鎮圧する』という大義名分を得てしまいました」
同時に、城下の様子も一変していた。
潜伏していた教皇国の聖騎士たちが動き始めている。この赤い煙を「帝国の侵攻開始」と誤認したのだろう。手柄を焦って城に向かって進軍を始めていた。
「……帝国と教皇国が、同時に動く」
殿下が静かに呟いた。
「最悪の展開だな」
その時だった。
父王の寝所の方角から、侍女の悲鳴にも似た呼び声が響いた。
「殿下! 公王様が……公王様が、お目覚めになりました!」
私と殿下は顔を見合わせた。
朗報のはずだ。だが、侍女の声に含まれる響きは、歓喜ではなく恐怖だった。
「ですが、様子が……!」
◇ ◇ ◇
公王の寝室。
薬草と、古びた血の匂いが充満している。
扉を開けた瞬間、異様な光景が目に飛び込んできた。
「鉄獅子」と呼ばれた父王エドワード三世が、寝台の上で上身を起こしていた。痩せ衰えた体には夥しい冷や汗が浮かんでいる。
だが、何より異常なのはその目だった。
かつての理知的な光はなく、瞳孔が開いたまま白濁し、不気味な銀色に染まっている。視線は虚空を彷徨い、そこにいない何かを見ているようだった。
「……黒い……黒い根が、大陸を飲み込もうとしている……」
父王が、駆け寄った息子の左腕を、骨が軋むほどの力で掴んだ。
その指先からは、まだ浄化しきれていない呪詛の残り香か、微かに黒い煤のようなものがボロボロと剥がれ落ちている。
「息子よ……間に合わぬ……『古き契約』が破られた……あ奴らが、あ奴らが来る……」
うわ言のように繰り返される言葉。その声は掠れ、人間のものとは思えぬ響きを帯びていた。
私は殿下の耳元で震える声で囁いた。
「殿下、公王様は意識が混濁されています。マルクスの呪いの後遺症か、あるいは……生死の境を彷徨う中で、何か見てはならぬものを見てしまわれたのか」
王は生きている。呼吸もしている。
しかし、この狂気に侵された姿を帝国や教皇国の使者に見せるわけにはいかない。「王は乱心した」と判断されれば、それこそ国が割れる。
ドォォォォォン……!
遠くで、城門を叩く破城槌のような音が響いた。
駆けつけていたアラリックが窓の外を見やった。
赤い煙がまだ空を汚す中、城門前には帝国の騎兵たちが抜剣し、黒い雲のように押し寄せている。
「殿下、帝国軍が開門を要求しています! 猶予はありません!」
殿下は、父王の手を、痛みと愛惜を堪えて静かに引き剥がした。
今は、父のうわ言を聞いている時間はない。
王として、国を守らねばならない。
「アラリック、城壁へ。私が直接指揮を執る」
殿下はマントを翻し、戦場となる城壁へと向かった。
私はその背中を見送りながら、震える足で立ち尽くすしかなかった。
四十年仕えてきた主君が、狂気の淵で何かを叫んでいる。その息子は、帝国と教皇国の二つの軍勢を相手に城壁へ向かう。
この国は、どこへ向かおうとしているのか。
私には、もう分からなかった。
雨上がりの湿った空気が、城を重く包み込んでいた。石造りの壁は水分を含んで黒ずみ、廊下にはカビと古びたタペストリーの匂いが澱んでいる。
若き主君は、手元の駒をすべて盤上に放った。
北へ向かう者たち。「不実な天才」カイルと、野良犬のような斥候ルーク。建国以来の秘蔵酒を積んだ馬車と共に、険しい北の山道を進んでいるはずだ。その後を追うのは、若き将校レオンと、生き証人ウーゴ。
城内に残る者たち。騎士団長アラリックが防衛の要として城壁を固め、侍女長リオラが影として城内の「鼠」を掃討している。
地下牢には、ビショップ・マルクスと裏切り者セドリック。
そして、寝室で眠り続ける公王エドワード三世。
これが、今のレムリア公国のすべてだ。
脆く、危うい均衡。
◇ ◇ ◇
静寂は長く続かなかった。
冷めた茶に手を伸ばそうとした時、視界の端で何かが動いた。
城壁の死角となる隅。衛兵の巡回ルートから外れたその場所に、潜んでいた何者かが身を起こしたのだ。
そして、その人影が筒状の何かを掲げた瞬間——
シュッ、という風切り音。
赤い煙が噴き上がった。
狼煙だ。
鮮血のように赤い煙が、灰色の空に毒々しい筋を描いていく。
血の気が引いた。
私は茶器を落とすのも構わず、震える足で廊下を走った。老いた心臓が早鐘を打ち、肺が悲鳴を上げる。
若き主君の執務室へ。一刻も早く。
バンッ!
扉を叩く礼儀さえ忘れ、部屋に飛び込んだ。
「殿下! 先ほど、セドリック派の残党の一人を城壁の隅で仕留めました!」
息を切らし、喉をヒューヒューと鳴らしながら叫ぶ。
「……ですが、手遅れです。奴は死に際に、隠し持っていた狼煙を上げおった!」
殿下は弾かれたように窓に駆け寄った。
隻腕の手が、窓枠を強く掴む。
北の山々の頂から、細く、しかし残酷なほどはっきりと、赤い煙が立ち上っている。セドリックが帝国軍と事前に取り決めていたであろう最悪のサイン。「公王死亡」、あるいは「城内での蜂起成功」を告げる偽りの合図。
「……まずいな」
殿下の声が、地を這うように低くなった。
「門の外で待機していた帝国の千人長が、この煙を見逃すはずがない」
私は祈るような気持ちで窓の外を見つめた。
だが、現実は無慈悲だった。
案の定、城門の外に陣を張っていた帝国軍が動き始めている。騎兵が馬に跨り、歩兵が盾を構え、槍の穂先を城門へと向ける。金属が擦れ合う音が、遠雷のように響いてくる。
「『約束の日の出まで待つ必要はなくなった』……そう判断するでしょう」
私は苦渋に満ちた声で絞り出した。
「彼らは、『公王死亡による混乱を鎮圧する』という大義名分を得てしまいました」
同時に、城下の様子も一変していた。
潜伏していた教皇国の聖騎士たちが動き始めている。この赤い煙を「帝国の侵攻開始」と誤認したのだろう。手柄を焦って城に向かって進軍を始めていた。
「……帝国と教皇国が、同時に動く」
殿下が静かに呟いた。
「最悪の展開だな」
その時だった。
父王の寝所の方角から、侍女の悲鳴にも似た呼び声が響いた。
「殿下! 公王様が……公王様が、お目覚めになりました!」
私と殿下は顔を見合わせた。
朗報のはずだ。だが、侍女の声に含まれる響きは、歓喜ではなく恐怖だった。
「ですが、様子が……!」
◇ ◇ ◇
公王の寝室。
薬草と、古びた血の匂いが充満している。
扉を開けた瞬間、異様な光景が目に飛び込んできた。
「鉄獅子」と呼ばれた父王エドワード三世が、寝台の上で上身を起こしていた。痩せ衰えた体には夥しい冷や汗が浮かんでいる。
だが、何より異常なのはその目だった。
かつての理知的な光はなく、瞳孔が開いたまま白濁し、不気味な銀色に染まっている。視線は虚空を彷徨い、そこにいない何かを見ているようだった。
「……黒い……黒い根が、大陸を飲み込もうとしている……」
父王が、駆け寄った息子の左腕を、骨が軋むほどの力で掴んだ。
その指先からは、まだ浄化しきれていない呪詛の残り香か、微かに黒い煤のようなものがボロボロと剥がれ落ちている。
「息子よ……間に合わぬ……『古き契約』が破られた……あ奴らが、あ奴らが来る……」
うわ言のように繰り返される言葉。その声は掠れ、人間のものとは思えぬ響きを帯びていた。
私は殿下の耳元で震える声で囁いた。
「殿下、公王様は意識が混濁されています。マルクスの呪いの後遺症か、あるいは……生死の境を彷徨う中で、何か見てはならぬものを見てしまわれたのか」
王は生きている。呼吸もしている。
しかし、この狂気に侵された姿を帝国や教皇国の使者に見せるわけにはいかない。「王は乱心した」と判断されれば、それこそ国が割れる。
ドォォォォォン……!
遠くで、城門を叩く破城槌のような音が響いた。
駆けつけていたアラリックが窓の外を見やった。
赤い煙がまだ空を汚す中、城門前には帝国の騎兵たちが抜剣し、黒い雲のように押し寄せている。
「殿下、帝国軍が開門を要求しています! 猶予はありません!」
殿下は、父王の手を、痛みと愛惜を堪えて静かに引き剥がした。
今は、父のうわ言を聞いている時間はない。
王として、国を守らねばならない。
「アラリック、城壁へ。私が直接指揮を執る」
殿下はマントを翻し、戦場となる城壁へと向かった。
私はその背中を見送りながら、震える足で立ち尽くすしかなかった。
四十年仕えてきた主君が、狂気の淵で何かを叫んでいる。その息子は、帝国と教皇国の二つの軍勢を相手に城壁へ向かう。
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