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6話:運命点消費——ゼロ
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ベルン行きの準備を進めていた、ある日の炊き出しでのこと。
小さな手が、俺の服の裾を引っ張った。
視線を下ろすと、ボロボロの布を纏った少女がいた。
顔は煤で汚れ、髪もゴワゴワ。だが、瞳だけは澄んでいて、俺を真っ直ぐに見上げていた。
「……おうじさま」
少女は震える唇を開いた。
「あのね、おとうちゃんと、おにいちゃんを、たすけて」
「……助ける?」
「となりのまちに、しごとにいったの。でも、かえってこないの」
俺は少女の前にしゃがみ、目線を合わせた。
「隣の町って、ベルンか?」
少女がこくりと頷く。
——やっぱりか。
セバスから聞いていた話と一致する。ベルンのスラムにアルカスの民が囚われている可能性がある、と。
この子の父と兄も、その中にいるのだろう。
「……分かった。必ず連れ戻してやる」
少女の顔がパァッと明るくなった。
「ほんと!? ありがとう、おうじさま!」
小さな体で何度もお辞儀をして、少女は走り去っていった。
俺は立ち上がり、セバスに向き直った。
「予定を早める。明後日、ベルンへ行く」
***
「殿下! 見てくれ、眉毛が焦げちまった!」
翌日。執務室にゲイルが飛び込んできた。
顔は煤だらけで真っ黒だが、表情は子供みたいに輝いている。
「コークス、完成だ! 火力が桁違いだぜ。鉄が泥みてえに溶けやがる」
彼の手には、一本の無骨な短剣が握られていた。
装飾は一切ない。だが、刃は鈍い銀色の光沢を放っている。従来の鉄とは明らかに違う質感だ。
「試作品第一号だ。ちょっと見てくれ」
ゲイルは俺のデスクにあった鉄製のペン立てに、短剣の刃を押し当てた。
軽く引く。
——ザリ、と嫌な音がして、ペン立ての表面に深い傷が刻まれた。
「……従来の短剣じゃ、こうはいかねえ。刃の方が負けるからな」
ゲイルが得意げに笑う。
「まだ試作段階だが、量産できりゃ武器も農具も一変するぜ」
俺はこの短剣を受け取り、懐に収めた。
「いいタイミングだ。交渉材料が増えた」
***
馬車がベルンの街門をくぐる。
アルカスとは別世界だった。
石畳の道、色とりどりの屋根、活気ある市場。
人々が「普通の服」を着ている。ボロ布ではない。
「……これが、本来の都市の姿でございます」
セバスが静かに呟いた。
***
ベルン領主館の応接室。
無駄に豪華な調度品に囲まれて待っていたのは、小太りで脂ぎった男。
ベルン子爵バーゴ。
パツパツのシルク服に、両手の指すべてに宝石の指輪。
「ほっほっほ、これはこれは! アレン殿下ではありませんか!」
揉み手をしながら近づいてくる。だが、目は笑っていない。
「辺境アルカスへの赴任、おめでとうございます。いやはや、あのような何もない岩山、ご苦労なさっているでしょう。もしかして飢えて食べるものがない? 残飯くらいならお恵みしますぞ?」
下卑た笑い声。
「本日はどのようなご用件で? もしかして、借金の申し込み……いえいえ、援助のご相談ですかな?」
——挨拶代わりのマウント、それに早速金の話か。
腹が立つ。
シンプルに、腹が立つ。
その時、部屋の隅からメイドがお茶を運んできた。
そこそこ可愛らしい顔立ち。
……いや、やめておこう。
カリスマは異性に効かないと学んだはずだ。
だが、体が勝手に動いた。
髪をさらりと流し、微笑みかける。
「ありがとう」
「……はい、どうぞ」
メイドは無表情だった。
むしろ「何この人」という目でカップをドンと置き、さっさと下がっていった。
……学習しない俺。
バーゴが身を乗り出してきた。
「で、殿下。単刀直入にお伺いしますが」
声色が商人のそれに変わる。
「我が領地のスラムに、アルカスの民が紛れ込んでいるとか? いやぁ、困るんですよねえ。ゴミはゴミ箱に、貧民は貧民の土地に。そうあるべきでしょう?」
親指と人差し指で円を作る。
「もし彼らを引き取りたいというお話なら、『相応の手数料』を頂かないと。借金は一人につき金貨1枚。スラムには約500人のアルカス出身者がいます。つまり、金貨500枚。これをお支払いいただけるなら、喜んでお返ししましょう」
——このクソ豚が。
正直、運命点を使えばどうとでもなる。
数十点も使えば「偶然バーゴの不正の証拠が転がり込む」、さらに使えば「王都から査察が来て窮地に追い込まれる」。そんな展開も作れる。
だが——そこまでする価値もない。
こいつは金で動く守銭奴だとセバスが言っていた。
なら、損得を突きつければ折れる。
泣かせてやる。言葉だけで。
俺は——鼻で笑った。
「ほう。この領では『仕事』をすると金を取られるのか。とんだぼったくりだな」
席を立つ。
「それに勘違いしないでほしいが、私はただ挨拶に来ただけだ。それなのに言いがかりをつけて金貨500枚をせびるとは聞いて呆れる」
「な……っ!?」
「そちらの言い分では、逃げてきた民を領に滞在させるだけで借金が発生し、返済しないと帰れないと。……なら、こう解釈もできるな。『アルカスから強制的に人をさらい、借金を負わせて奴隷にしている』と」
バーゴの顔が引きつる。
「アルカスの法に基づけば、人さらいへの賠償は一人につき金貨2枚。500人なら1000枚だ。貴殿、払えるか?」
「そ、それは……!」
「まぁ私は貴殿と違い、そんな横暴は言わないがな」
俺はゆっくりと歩き出した。
「ただ、この話が広まった時、貴殿が兄上たちに重用される未来は見えないな。兄上たちは聡明だ。奴隷商まがいの領主に良い顔はしないだろう」
バーゴの顔色が青ざめていく。
「仕事をするだけで法外な金を取られる領であることも承知した。この噂を聞いた商人や民がどう動くか、楽しみだな。……では失礼する」
俺は踵を返し、ドアノブに手をかけた。
「——お、お待ちを! 殿下、お待ちください!」
背後で椅子が倒れる音。
振り返ると、バーゴが額に脂汗を浮かべ、必死の形相で立ち上がっていた。
「ご、誤解です! 言葉の綾というやつですよ! 私はただ、彼らが自立するまでの初期投資を……そう、支援していただけでして!」
ハンカチで顔を拭いながら、早口でまくし立てる。
「わかりました、わかりましたとも! 借金の件は、私の『勘違い』でした! 彼らは自由意志で働きに来ていた。故郷へ帰るというなら、私は笑顔で送り出します!」
完全に折れた——かに見えた。
だが、バーゴの視線が俺の懐に注がれている。
ゲイルの短剣だ。
「ただ……殿下。500人もの労働者が一気に消えれば、私の街も困ります。彼らを解放する代わりに、何か『手土産』を頂けないでしょうか? 例えば、その腰の短剣……妙に良い鉄を使っておられるようですが?」
——この期に及んでまだたかろうとするか、この豚。
俺の声は冷えた。
「聞き間違いか?」
「い、いえ、それは……」
「貴殿の『勘違い』で汚名を着せられそうになった被害者はこちらだ。その代償に『手土産』をよこせと?」
一歩、踏み出す。
「それに、挨拶に来ただけでアルカス民を返せとは言っていない。彼らの自由意志だ。貴殿自慢の領から、わざわざ『貧乏なアルカス』に帰る民などいないのでは?」
もう一歩。バーゴの顔を覗き込む。
「もう一度聞く。——聞き間違いか?」
部屋の空気が凍りつく。
ヴォルフの殺気が肌を刺す。
バーゴの顔色は土気色に変わり、脂汗が滝のように流れ落ちた。
「ひ、ひぃっ! き、聞き間違いです! 全くもって私の聞き間違いでございました!!」
バーゴはブンブンと首を横に振り、裏返った声で叫んだ。
「手土産など滅相もない! 民の移動も自由! 借金など最初からなかった! ですから、どうか、兄君様たちへの報告だけは……!」
完全に折れた。
顔を見れば分かる。戦意喪失。保身しか頭にない。
俺は背を向けた。
バーゴはその場にへたり込み、二度と引き止める声は聞こえなかった。
運命点消費——ゼロ。
完全勝利だ。
……いや、これはまだ始まりに過ぎない。
500人の民を連れ帰るには手段がいる。受け入れ態勢も整えなければならない。
何より——俺には、まだ「商人」がいない。
「ヴォルフ、市場を見て回るぞ」
「は」
俺は館を出た。
この街のどこかに、俺が探している駒がいるはずだ。
小さな手が、俺の服の裾を引っ張った。
視線を下ろすと、ボロボロの布を纏った少女がいた。
顔は煤で汚れ、髪もゴワゴワ。だが、瞳だけは澄んでいて、俺を真っ直ぐに見上げていた。
「……おうじさま」
少女は震える唇を開いた。
「あのね、おとうちゃんと、おにいちゃんを、たすけて」
「……助ける?」
「となりのまちに、しごとにいったの。でも、かえってこないの」
俺は少女の前にしゃがみ、目線を合わせた。
「隣の町って、ベルンか?」
少女がこくりと頷く。
——やっぱりか。
セバスから聞いていた話と一致する。ベルンのスラムにアルカスの民が囚われている可能性がある、と。
この子の父と兄も、その中にいるのだろう。
「……分かった。必ず連れ戻してやる」
少女の顔がパァッと明るくなった。
「ほんと!? ありがとう、おうじさま!」
小さな体で何度もお辞儀をして、少女は走り去っていった。
俺は立ち上がり、セバスに向き直った。
「予定を早める。明後日、ベルンへ行く」
***
「殿下! 見てくれ、眉毛が焦げちまった!」
翌日。執務室にゲイルが飛び込んできた。
顔は煤だらけで真っ黒だが、表情は子供みたいに輝いている。
「コークス、完成だ! 火力が桁違いだぜ。鉄が泥みてえに溶けやがる」
彼の手には、一本の無骨な短剣が握られていた。
装飾は一切ない。だが、刃は鈍い銀色の光沢を放っている。従来の鉄とは明らかに違う質感だ。
「試作品第一号だ。ちょっと見てくれ」
ゲイルは俺のデスクにあった鉄製のペン立てに、短剣の刃を押し当てた。
軽く引く。
——ザリ、と嫌な音がして、ペン立ての表面に深い傷が刻まれた。
「……従来の短剣じゃ、こうはいかねえ。刃の方が負けるからな」
ゲイルが得意げに笑う。
「まだ試作段階だが、量産できりゃ武器も農具も一変するぜ」
俺はこの短剣を受け取り、懐に収めた。
「いいタイミングだ。交渉材料が増えた」
***
馬車がベルンの街門をくぐる。
アルカスとは別世界だった。
石畳の道、色とりどりの屋根、活気ある市場。
人々が「普通の服」を着ている。ボロ布ではない。
「……これが、本来の都市の姿でございます」
セバスが静かに呟いた。
***
ベルン領主館の応接室。
無駄に豪華な調度品に囲まれて待っていたのは、小太りで脂ぎった男。
ベルン子爵バーゴ。
パツパツのシルク服に、両手の指すべてに宝石の指輪。
「ほっほっほ、これはこれは! アレン殿下ではありませんか!」
揉み手をしながら近づいてくる。だが、目は笑っていない。
「辺境アルカスへの赴任、おめでとうございます。いやはや、あのような何もない岩山、ご苦労なさっているでしょう。もしかして飢えて食べるものがない? 残飯くらいならお恵みしますぞ?」
下卑た笑い声。
「本日はどのようなご用件で? もしかして、借金の申し込み……いえいえ、援助のご相談ですかな?」
——挨拶代わりのマウント、それに早速金の話か。
腹が立つ。
シンプルに、腹が立つ。
その時、部屋の隅からメイドがお茶を運んできた。
そこそこ可愛らしい顔立ち。
……いや、やめておこう。
カリスマは異性に効かないと学んだはずだ。
だが、体が勝手に動いた。
髪をさらりと流し、微笑みかける。
「ありがとう」
「……はい、どうぞ」
メイドは無表情だった。
むしろ「何この人」という目でカップをドンと置き、さっさと下がっていった。
……学習しない俺。
バーゴが身を乗り出してきた。
「で、殿下。単刀直入にお伺いしますが」
声色が商人のそれに変わる。
「我が領地のスラムに、アルカスの民が紛れ込んでいるとか? いやぁ、困るんですよねえ。ゴミはゴミ箱に、貧民は貧民の土地に。そうあるべきでしょう?」
親指と人差し指で円を作る。
「もし彼らを引き取りたいというお話なら、『相応の手数料』を頂かないと。借金は一人につき金貨1枚。スラムには約500人のアルカス出身者がいます。つまり、金貨500枚。これをお支払いいただけるなら、喜んでお返ししましょう」
——このクソ豚が。
正直、運命点を使えばどうとでもなる。
数十点も使えば「偶然バーゴの不正の証拠が転がり込む」、さらに使えば「王都から査察が来て窮地に追い込まれる」。そんな展開も作れる。
だが——そこまでする価値もない。
こいつは金で動く守銭奴だとセバスが言っていた。
なら、損得を突きつければ折れる。
泣かせてやる。言葉だけで。
俺は——鼻で笑った。
「ほう。この領では『仕事』をすると金を取られるのか。とんだぼったくりだな」
席を立つ。
「それに勘違いしないでほしいが、私はただ挨拶に来ただけだ。それなのに言いがかりをつけて金貨500枚をせびるとは聞いて呆れる」
「な……っ!?」
「そちらの言い分では、逃げてきた民を領に滞在させるだけで借金が発生し、返済しないと帰れないと。……なら、こう解釈もできるな。『アルカスから強制的に人をさらい、借金を負わせて奴隷にしている』と」
バーゴの顔が引きつる。
「アルカスの法に基づけば、人さらいへの賠償は一人につき金貨2枚。500人なら1000枚だ。貴殿、払えるか?」
「そ、それは……!」
「まぁ私は貴殿と違い、そんな横暴は言わないがな」
俺はゆっくりと歩き出した。
「ただ、この話が広まった時、貴殿が兄上たちに重用される未来は見えないな。兄上たちは聡明だ。奴隷商まがいの領主に良い顔はしないだろう」
バーゴの顔色が青ざめていく。
「仕事をするだけで法外な金を取られる領であることも承知した。この噂を聞いた商人や民がどう動くか、楽しみだな。……では失礼する」
俺は踵を返し、ドアノブに手をかけた。
「——お、お待ちを! 殿下、お待ちください!」
背後で椅子が倒れる音。
振り返ると、バーゴが額に脂汗を浮かべ、必死の形相で立ち上がっていた。
「ご、誤解です! 言葉の綾というやつですよ! 私はただ、彼らが自立するまでの初期投資を……そう、支援していただけでして!」
ハンカチで顔を拭いながら、早口でまくし立てる。
「わかりました、わかりましたとも! 借金の件は、私の『勘違い』でした! 彼らは自由意志で働きに来ていた。故郷へ帰るというなら、私は笑顔で送り出します!」
完全に折れた——かに見えた。
だが、バーゴの視線が俺の懐に注がれている。
ゲイルの短剣だ。
「ただ……殿下。500人もの労働者が一気に消えれば、私の街も困ります。彼らを解放する代わりに、何か『手土産』を頂けないでしょうか? 例えば、その腰の短剣……妙に良い鉄を使っておられるようですが?」
——この期に及んでまだたかろうとするか、この豚。
俺の声は冷えた。
「聞き間違いか?」
「い、いえ、それは……」
「貴殿の『勘違い』で汚名を着せられそうになった被害者はこちらだ。その代償に『手土産』をよこせと?」
一歩、踏み出す。
「それに、挨拶に来ただけでアルカス民を返せとは言っていない。彼らの自由意志だ。貴殿自慢の領から、わざわざ『貧乏なアルカス』に帰る民などいないのでは?」
もう一歩。バーゴの顔を覗き込む。
「もう一度聞く。——聞き間違いか?」
部屋の空気が凍りつく。
ヴォルフの殺気が肌を刺す。
バーゴの顔色は土気色に変わり、脂汗が滝のように流れ落ちた。
「ひ、ひぃっ! き、聞き間違いです! 全くもって私の聞き間違いでございました!!」
バーゴはブンブンと首を横に振り、裏返った声で叫んだ。
「手土産など滅相もない! 民の移動も自由! 借金など最初からなかった! ですから、どうか、兄君様たちへの報告だけは……!」
完全に折れた。
顔を見れば分かる。戦意喪失。保身しか頭にない。
俺は背を向けた。
バーゴはその場にへたり込み、二度と引き止める声は聞こえなかった。
運命点消費——ゼロ。
完全勝利だ。
……いや、これはまだ始まりに過ぎない。
500人の民を連れ帰るには手段がいる。受け入れ態勢も整えなければならない。
何より——俺には、まだ「商人」がいない。
「ヴォルフ、市場を見て回るぞ」
「は」
俺は館を出た。
この街のどこかに、俺が探している駒がいるはずだ。
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