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第1章:辺境復興編
1話:申し開きは、ございません
「アイリス・ヴァレンシア。貴様の罪状を読み上げる」
大広間に声が響いた。
私は跪いたまま、顔を上げない。
冷たい石の床が膝に食い込む。周囲の貴族たちの視線が、針のように突き刺さっている。
「公爵家の資金を私的に流用し、第二王子レオナルド殿下との婚約を利用して不正な取引を行った。さらに、側妃候補であるミレーヌ嬢を陥れようと画策した——」
(はいはい、全部でっち上げね)
心の中で溜息をつく。
資金流用? 私が帳簿を管理してなかったら、とっくに破産してるわよ、あの家。
不正な取引? むしろ適正価格で交渉したのは誰だと思ってるの。
ミレーヌ嬢を陥れる? あの子が勝手に転んだだけでしょう。
罪状の読み上げが続く。長い。丁寧に嘘を積み上げたものだ。
「被告人、何か申し開きはあるか」
顔を上げた。
玉座の隣に立つのは、婚約者だった第二王子レオナルド。冷たい目。こっちを見てすらいない。その腕にしがみついているのが、件のミレーヌ嬢。頬に涙の跡。泣いたのか、泣いたふりをしたのか。まあ、どちらでもいい。
(ああ、これ、何を言っても無駄なやつだ)
前世でも似たような場面があった。会議室で上司に詰められた時。データを揃えて、論理的に説明しても、最初から聞く気がない相手には何も届かない。
あの時学んだ。「決まっていること」を覆すのは、正論じゃ無理だって。
「——ございません」
「なんだと?」
「申し開きは、ございません」
ざわめきが広がった。
ミレーヌ嬢が小さく笑う。
「ほら、やっぱり。自分の罪を認めたのよ」
認めてない。ただ、言っても無駄だから言わないだけ。
でもまあ、どう受け取ろうと勝手にすればいい。
レオナルドが口を開いた。
「よろしい。アイリス・ヴァレンシア、貴様を公爵家から追放し、辺境のアーレン領へ流刑とする」
アーレン領。
北の果て、極寒の荒れ地。まともな産業もなく、住民もほとんどいないと聞く。
(まあ、死ねってことよね)
でも、不思議と絶望はなかった。
むしろ——少しだけ、肩の荷が下りた気がした。
毎月の帳簿。締め切りに追われる税収報告。父の代わりに頭を下げる商会との交渉。全部、もうやらなくていい。
「……承知いたしました」
立ち上がる。
周囲の貴族たちがざわついた。泣き叫ぶか、命乞いでもすると思っていたのだろう。
私は一度だけ、父の方を見た。
ヴァレンシア公爵——私の実父は、目を逸らした。
(ああ、そう)
知ってた。この人は昔からそうだ。面倒なことからは逃げる。責任は取らない。だから帳簿の管理も、領地の経営判断も、全部私に押し付けてきた。
追放を止める力がなかったのか、止める気がなかったのか。たぶん両方。
「父上」
「な、なんだ」
「帳簿の引き継ぎ、誰がやるんですか?」
父の顔が引きつった。
「来月、東方商会への支払いがありますよね。あと、領地の税収報告の締め切りも」
「わ、分かっておる! お前がいなくても、なんとかなる!」
「そうですか」
私は微笑んだ。
それから、ちらりと鑑定を使う。
【ヴァレンシア公爵】
現在価値:300
潜在価値:850
潜在850。やればできる数字なのに、現在はたったの300。
……昔はもう少し違った気がする。いつからこんなに低くなったのかしら。
まあ、もう関係ないけど。
「では、お元気で」
背を向ける。
振り返らない。
(なんとかなるといいわね。私がいないと、三ヶ月で破産すると思うけど)
***
馬車に揺られて、三日。
王都を出た初日は、まだ道も景色も整っていた。石畳の街道、手入れされた農地、活気のある村。
二日目から風景が変わり始めた。畑は減り、道は細くなり、すれ違う人もまばらになる。
三日目にはもう、灰色の荒野しかなかった。
窓の外を眺めるたびに、数字が浮かぶ。
見たくなくても見えてしまう。物や人や土地の「現在価値」と「潜在価値」が。
前世の終わり頃に目覚めた力。正確にはこの世界に来てから使えるようになったのだけど、前世の記憶と一緒に覚醒した。
便利ではある。ただし万能じゃない。
通り過ぎる村に、数字が浮かんでは消えていく。
小さな村が380。道端の行商人が450。少し大きな宿場町で600。
大体300から700くらいが、この世界の「普通」らしい。
ぼんやり眺めていると、一箇所だけ引っかかった。
街道沿いの丘陵地帯。見た目は枯れた草と岩だらけの、何の変哲もない土地。
【丘陵地帯】
現在価値:90
潜在価値:1,050
思わず目を凝らした。
90は低い。打ち捨てられた土地の数字だ。でも潜在が1,050。道中で見てきた村や町よりずっと高い。この荒れた丘に、何かが眠っている。
……でも、この数字だけじゃ「何の」潜在価値かは分からない。地下に鉱脈があるのか、土壌が特殊なのか、立地に価値があるのか。引き出す方法も見えない。
馬車は止まらない。通り過ぎるだけの土地。私にはどうしようもない。
(数字は見える。でも、見えるだけ)
この能力の限界は、嫌というほど分かっている。
***
三日目の夕方、馬車が止まった。
「着きましたよ」
御者の声で外に出る。
最初に思ったのは「寒い」だった。次に思ったのは「荒れてる」だった。
灰色の空。吹き付ける北風。
石造りの館は古く、壁のあちこちにひびが入っている。屋根の一部は苔に覆われ、門の鉄柵は錆びて半分開いたまま。
道を歩く人はまばらで、その顔には疲労と諦めが滲んでいた。こちらを見る目に好奇心はない。「また来たのか」という倦怠だけ。
ここが、私の新しい居場所。
「お嬢様、こちらでございます」
出迎えたのは、白髪の老執事だった。背筋が伸びていて、目に力がある。
周囲の住民たちが諦めた顔をしている中で、この老人だけが違った。荒れた土地で、まだ何かを守ろうとしている人間の目だ。
「セバスと申します。以後、お仕えいたします」
「アイリスでいいわ。もう令嬢じゃないもの」
セバスは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「かしこまりました、アイリス様」
様はつくのか。まあいい。
館に入る。中も外と同様、古びていた。埃っぽいし、家具も傷んでいる。でも、廊下は掃き清められていて、窓の桟にも埃はなかった。人手がないなりに、手を抜いていない。セバスが一人で維持してきたのだろう。
「他に人は?」
「護衛として、騎士が一人おります。それだけでございます」
「護衛?」
「流刑者の護衛という名目ですが……実質、監視役かと」
なるほど。逃げないように見張ってるわけね。
「今はどこに?」
「外の訓練場に。お呼びしましょうか」
「いいわ、明日でいい。先に領地の状況を教えて」
セバスの目が、わずかに輝いた。
「……状況を、お知りになりたいのですか」
「当然でしょう。ここで暮らすんだから」
「前の領主様は、一度もそのようなことを——」
「私は私よ」
セバスは深く頭を下げた。
「……かしこまりました」
執務室に案内される。窓の外に、薄暮の領地が広がっている。
そこで、ふと。
窓の向こうに、数字が浮かんだ。
【アーレン領】
現在価値:12
潜在価値:2,800
——12?
見たことがないくらい低い。道中の一番寂れた村だって300はあった。12は、ほぼ死んでいる。
でも、潜在が2,800。
馬車の中で見た丘陵地帯の1,050ですら驚いたのに。
実家の公爵領だって、現在価値は3,000だった。この荒れ果てた辺境に、それに迫るポテンシャルがある?
何が眠っているかは分からない。どうすれば引き出せるかも見えない。いつもの制約。数字だけが先に見えて、中身が追いつかない。
でも。
(数字は嘘をつかない)
私は振り返った。
「セバス、この領地の北側——山の方には何があるの?」
「山、でございますか。特に何も……いえ、昔は薬草が採れたと聞いたことがありますが、今は誰も近づきません。道が険しくて」
「そう」
薬草。山。道が険しい。
だから誰も確認していない。数字に「0」がつく未発見の資源があっても、おかしくない。
「明日、見に行くわ」
「え?」
「それと、過去の帳簿があるなら全部出して。三年分。明日の朝までに目を通しておきたい」
セバスが目を瞬かせた。帳簿を読む領主など、見たことがないのだろう。
「……かしこまりました」
***
翌朝。
私は執務室の机に帳簿を広げて、朝日が差す前から数字を追っていた。予想通り、酷い内容だった。前の代官が残した帳簿は支出の水増しと辻褄の合わない数字だらけで、まともな収支すら把握できない。
ただ、それは後で整理すればいい。今は全体像が掴めればそれでいい。
ノックの音。
「入って」
ドアが開いた。セバスではない。足音が違う。
「グレン・ファルクスです。護衛を務めます」
顔を上げた。
黒髪に灰色の瞳。二十代半ばくらいだろうか。表情が乏しい。
背は高いが、威圧感はない。むしろ存在を消すのが上手い類の人間だ。目だけが鋭い。
口数も少なそうだ。というか、今の自己紹介で今日の発言量を使い切った感じすらある。
「よろしく、グレン。私はアイリス」
「……」
頷きすらしない。
愛想のかけらもないわね。まあ、監視役なんだから、仲良くする必要もない。
私は何気なく、鑑定を使った。
【グレン・ファルクス】
現在価値:700
潜在価値:9,999
——は?
手が止まった。
700は高い。道中で見た数百人の中でも頭一つ抜けている。優秀な人間。それは分かる。
でも、9,999。
見たことのない数字だった。公爵領の3,000でも相当なのに。アーレン領の2,800だって驚いた。桁が違う。
(何、この人)
無愛想な騎士が、入口に立っている。灰色の瞳に感情はない。
この男の何が、9,999なのか。
「何の」潜在価値かは、当然見えない。戦闘力なのか、統率力なのか、それとも全く別の何かなのか。
いつもの制約が、壁のように立ちはだかる。
「……何か?」
視線に気づいたらしい。グレンが怪訝そうにこちらを見ている。
「いえ、何でもないわ。——セバスを呼んでくれる? 山に行く準備をしたいの」
「……分かりました」
グレンが去る。足音が廊下に消えていく。
私は帳簿に目を戻した。でも、数字が頭に入ってこない。
9,999。
考えても仕方ない。今はそれどころじゃない。目の前には死にかけの領地があって、帳簿は滅茶苦茶で、住民は誰も私を信じていない。
棚上げ。
でも、忘れることはないだろう。
あの灰色の瞳の奥に、一体何が眠っているのか。
数字は嘘をつかない。9,999の意味が、いつか分かる時が来る。
大広間に声が響いた。
私は跪いたまま、顔を上げない。
冷たい石の床が膝に食い込む。周囲の貴族たちの視線が、針のように突き刺さっている。
「公爵家の資金を私的に流用し、第二王子レオナルド殿下との婚約を利用して不正な取引を行った。さらに、側妃候補であるミレーヌ嬢を陥れようと画策した——」
(はいはい、全部でっち上げね)
心の中で溜息をつく。
資金流用? 私が帳簿を管理してなかったら、とっくに破産してるわよ、あの家。
不正な取引? むしろ適正価格で交渉したのは誰だと思ってるの。
ミレーヌ嬢を陥れる? あの子が勝手に転んだだけでしょう。
罪状の読み上げが続く。長い。丁寧に嘘を積み上げたものだ。
「被告人、何か申し開きはあるか」
顔を上げた。
玉座の隣に立つのは、婚約者だった第二王子レオナルド。冷たい目。こっちを見てすらいない。その腕にしがみついているのが、件のミレーヌ嬢。頬に涙の跡。泣いたのか、泣いたふりをしたのか。まあ、どちらでもいい。
(ああ、これ、何を言っても無駄なやつだ)
前世でも似たような場面があった。会議室で上司に詰められた時。データを揃えて、論理的に説明しても、最初から聞く気がない相手には何も届かない。
あの時学んだ。「決まっていること」を覆すのは、正論じゃ無理だって。
「——ございません」
「なんだと?」
「申し開きは、ございません」
ざわめきが広がった。
ミレーヌ嬢が小さく笑う。
「ほら、やっぱり。自分の罪を認めたのよ」
認めてない。ただ、言っても無駄だから言わないだけ。
でもまあ、どう受け取ろうと勝手にすればいい。
レオナルドが口を開いた。
「よろしい。アイリス・ヴァレンシア、貴様を公爵家から追放し、辺境のアーレン領へ流刑とする」
アーレン領。
北の果て、極寒の荒れ地。まともな産業もなく、住民もほとんどいないと聞く。
(まあ、死ねってことよね)
でも、不思議と絶望はなかった。
むしろ——少しだけ、肩の荷が下りた気がした。
毎月の帳簿。締め切りに追われる税収報告。父の代わりに頭を下げる商会との交渉。全部、もうやらなくていい。
「……承知いたしました」
立ち上がる。
周囲の貴族たちがざわついた。泣き叫ぶか、命乞いでもすると思っていたのだろう。
私は一度だけ、父の方を見た。
ヴァレンシア公爵——私の実父は、目を逸らした。
(ああ、そう)
知ってた。この人は昔からそうだ。面倒なことからは逃げる。責任は取らない。だから帳簿の管理も、領地の経営判断も、全部私に押し付けてきた。
追放を止める力がなかったのか、止める気がなかったのか。たぶん両方。
「父上」
「な、なんだ」
「帳簿の引き継ぎ、誰がやるんですか?」
父の顔が引きつった。
「来月、東方商会への支払いがありますよね。あと、領地の税収報告の締め切りも」
「わ、分かっておる! お前がいなくても、なんとかなる!」
「そうですか」
私は微笑んだ。
それから、ちらりと鑑定を使う。
【ヴァレンシア公爵】
現在価値:300
潜在価値:850
潜在850。やればできる数字なのに、現在はたったの300。
……昔はもう少し違った気がする。いつからこんなに低くなったのかしら。
まあ、もう関係ないけど。
「では、お元気で」
背を向ける。
振り返らない。
(なんとかなるといいわね。私がいないと、三ヶ月で破産すると思うけど)
***
馬車に揺られて、三日。
王都を出た初日は、まだ道も景色も整っていた。石畳の街道、手入れされた農地、活気のある村。
二日目から風景が変わり始めた。畑は減り、道は細くなり、すれ違う人もまばらになる。
三日目にはもう、灰色の荒野しかなかった。
窓の外を眺めるたびに、数字が浮かぶ。
見たくなくても見えてしまう。物や人や土地の「現在価値」と「潜在価値」が。
前世の終わり頃に目覚めた力。正確にはこの世界に来てから使えるようになったのだけど、前世の記憶と一緒に覚醒した。
便利ではある。ただし万能じゃない。
通り過ぎる村に、数字が浮かんでは消えていく。
小さな村が380。道端の行商人が450。少し大きな宿場町で600。
大体300から700くらいが、この世界の「普通」らしい。
ぼんやり眺めていると、一箇所だけ引っかかった。
街道沿いの丘陵地帯。見た目は枯れた草と岩だらけの、何の変哲もない土地。
【丘陵地帯】
現在価値:90
潜在価値:1,050
思わず目を凝らした。
90は低い。打ち捨てられた土地の数字だ。でも潜在が1,050。道中で見てきた村や町よりずっと高い。この荒れた丘に、何かが眠っている。
……でも、この数字だけじゃ「何の」潜在価値かは分からない。地下に鉱脈があるのか、土壌が特殊なのか、立地に価値があるのか。引き出す方法も見えない。
馬車は止まらない。通り過ぎるだけの土地。私にはどうしようもない。
(数字は見える。でも、見えるだけ)
この能力の限界は、嫌というほど分かっている。
***
三日目の夕方、馬車が止まった。
「着きましたよ」
御者の声で外に出る。
最初に思ったのは「寒い」だった。次に思ったのは「荒れてる」だった。
灰色の空。吹き付ける北風。
石造りの館は古く、壁のあちこちにひびが入っている。屋根の一部は苔に覆われ、門の鉄柵は錆びて半分開いたまま。
道を歩く人はまばらで、その顔には疲労と諦めが滲んでいた。こちらを見る目に好奇心はない。「また来たのか」という倦怠だけ。
ここが、私の新しい居場所。
「お嬢様、こちらでございます」
出迎えたのは、白髪の老執事だった。背筋が伸びていて、目に力がある。
周囲の住民たちが諦めた顔をしている中で、この老人だけが違った。荒れた土地で、まだ何かを守ろうとしている人間の目だ。
「セバスと申します。以後、お仕えいたします」
「アイリスでいいわ。もう令嬢じゃないもの」
セバスは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「かしこまりました、アイリス様」
様はつくのか。まあいい。
館に入る。中も外と同様、古びていた。埃っぽいし、家具も傷んでいる。でも、廊下は掃き清められていて、窓の桟にも埃はなかった。人手がないなりに、手を抜いていない。セバスが一人で維持してきたのだろう。
「他に人は?」
「護衛として、騎士が一人おります。それだけでございます」
「護衛?」
「流刑者の護衛という名目ですが……実質、監視役かと」
なるほど。逃げないように見張ってるわけね。
「今はどこに?」
「外の訓練場に。お呼びしましょうか」
「いいわ、明日でいい。先に領地の状況を教えて」
セバスの目が、わずかに輝いた。
「……状況を、お知りになりたいのですか」
「当然でしょう。ここで暮らすんだから」
「前の領主様は、一度もそのようなことを——」
「私は私よ」
セバスは深く頭を下げた。
「……かしこまりました」
執務室に案内される。窓の外に、薄暮の領地が広がっている。
そこで、ふと。
窓の向こうに、数字が浮かんだ。
【アーレン領】
現在価値:12
潜在価値:2,800
——12?
見たことがないくらい低い。道中の一番寂れた村だって300はあった。12は、ほぼ死んでいる。
でも、潜在が2,800。
馬車の中で見た丘陵地帯の1,050ですら驚いたのに。
実家の公爵領だって、現在価値は3,000だった。この荒れ果てた辺境に、それに迫るポテンシャルがある?
何が眠っているかは分からない。どうすれば引き出せるかも見えない。いつもの制約。数字だけが先に見えて、中身が追いつかない。
でも。
(数字は嘘をつかない)
私は振り返った。
「セバス、この領地の北側——山の方には何があるの?」
「山、でございますか。特に何も……いえ、昔は薬草が採れたと聞いたことがありますが、今は誰も近づきません。道が険しくて」
「そう」
薬草。山。道が険しい。
だから誰も確認していない。数字に「0」がつく未発見の資源があっても、おかしくない。
「明日、見に行くわ」
「え?」
「それと、過去の帳簿があるなら全部出して。三年分。明日の朝までに目を通しておきたい」
セバスが目を瞬かせた。帳簿を読む領主など、見たことがないのだろう。
「……かしこまりました」
***
翌朝。
私は執務室の机に帳簿を広げて、朝日が差す前から数字を追っていた。予想通り、酷い内容だった。前の代官が残した帳簿は支出の水増しと辻褄の合わない数字だらけで、まともな収支すら把握できない。
ただ、それは後で整理すればいい。今は全体像が掴めればそれでいい。
ノックの音。
「入って」
ドアが開いた。セバスではない。足音が違う。
「グレン・ファルクスです。護衛を務めます」
顔を上げた。
黒髪に灰色の瞳。二十代半ばくらいだろうか。表情が乏しい。
背は高いが、威圧感はない。むしろ存在を消すのが上手い類の人間だ。目だけが鋭い。
口数も少なそうだ。というか、今の自己紹介で今日の発言量を使い切った感じすらある。
「よろしく、グレン。私はアイリス」
「……」
頷きすらしない。
愛想のかけらもないわね。まあ、監視役なんだから、仲良くする必要もない。
私は何気なく、鑑定を使った。
【グレン・ファルクス】
現在価値:700
潜在価値:9,999
——は?
手が止まった。
700は高い。道中で見た数百人の中でも頭一つ抜けている。優秀な人間。それは分かる。
でも、9,999。
見たことのない数字だった。公爵領の3,000でも相当なのに。アーレン領の2,800だって驚いた。桁が違う。
(何、この人)
無愛想な騎士が、入口に立っている。灰色の瞳に感情はない。
この男の何が、9,999なのか。
「何の」潜在価値かは、当然見えない。戦闘力なのか、統率力なのか、それとも全く別の何かなのか。
いつもの制約が、壁のように立ちはだかる。
「……何か?」
視線に気づいたらしい。グレンが怪訝そうにこちらを見ている。
「いえ、何でもないわ。——セバスを呼んでくれる? 山に行く準備をしたいの」
「……分かりました」
グレンが去る。足音が廊下に消えていく。
私は帳簿に目を戻した。でも、数字が頭に入ってこない。
9,999。
考えても仕方ない。今はそれどころじゃない。目の前には死にかけの領地があって、帳簿は滅茶苦茶で、住民は誰も私を信じていない。
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でも、忘れることはないだろう。
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「鑑定不能」の正体は、魔力ゼロなどではなく、聖獣と心を通わせる唯一の力『調律師』の証。
行き倒れたアデリーンを救ったのは、誰もが恐れる氷の公爵ゼノスで……。
「こんなに尊い存在を捨てるとは、黄金の国の連中は正気か?」
「聖獣も、私も……お前を離すつもりはない」
氷の公爵に拾われ、聖獣たちに囲まれ、これまでの不遇が嘘のような「極上溺愛」を享受するアデリーン。
一方で、彼女を捨てた黄金の国は、聖獣の加護を失い崩壊の危機に直面していた。
慌ててアデリーンを連れ戻そうとする身勝手な王族たち。
しかし、彼らの前には「復讐」の準備を終えたアデリーンの兄たちが立ちはだかる。
「遅いよ。僕らのかわいい妹を泣かせた罪、一生かけて償ってもらうからね」
これは、すべてを失った少女が、真の居場所と愛を見つけるまでの物語。