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第1章:辺境復興編
10話:任せるということ
レオナルドが去ってから、五日が経った。
朝、グレンがいつもの報告に来る。
「異常ありません」
何気なく、鑑定した。
【グレン・ファルクス】
現在価値:1,200
潜在価値:9,999
——1,200。
前に見た時は850だった。350も上がっている。
巡回でも指揮でも動かなかった数字が、あの夜以降ずっと上がり続けている。理由は分からない。何も「させて」いないのに。
考えたい。腰を据えて、この数字の変動パターンを分析したい。
だが机の上には帳簿の山。港町のロッソ商会への次回出荷の見積もり。道の修繕の進捗と追加予算。住民への日当の台帳。加工品の原価試算。レオナルドの視察で中断していた作業が、全部溜まっている。
(後でいい。今はそれどころじゃない)
グレンの9,999は棚上げ。何度目だろう、これで。
「下がっていいわ」
「はい」
グレンが去る。帳簿を開く。数字を追う。
セバスに日常の収支は任せた。でも全体の設計——何にいくら使い、どの順番で投資し、いつまでに何を達成するか——は私にしかできない。前世の会社でも同じだった。現場は回せても、経営判断は経理部長の頭の中にしかなかった。
昼の報告をセバスから受ける。午後は修繕現場を見に行く。戻って帳簿。夕食を取る暇がない。
「アイリス様、お食事を——」
「後でいいわ」
セバスが何か言いたそうにしていたが、引き下がった。
夜。蝋燭を二本目に替えた頃、視界がぼやけ始めた。
(……まずいわね)
分かっている。無理をしている自覚はある。前世も同じだった。決算期に三日徹夜して、四日目に倒れた。あの時は会社の給湯室で目が覚めた。誰も気づいていなかった。
ペンを握り直す。あと少し。この項目だけ。
数字がかすむ。帳簿の行が二重に見える。
椅子から、ずるりと体が滑った。
***
倒れる瞬間、腕を掴まれた。
強い力。引き上げられて、椅子に戻される——のではなく、そのまま支えられた。背中に硬い感触。鎧だ。
「……グレン?」
「動かないでください」
声が近い。耳のすぐ横。いつもの壁際からではなく、すぐ隣に。
(あ、この人、ずっとここにいたんだ)
執務室の隅。いつもの定位置で、ずっと見ていた。倒れる前兆を。だから一瞬で動けた。
「歩けますか」
「……たぶん」
立ち上がろうとして、膝が笑った。前世の感覚。体が限界を超えた時の、あの頼りなさ。
グレンの腕が、肩の下に入った。
体重を預ける形になる。鎧が冷たい。でもその内側の体温は温かかった。
廊下を歩く。グレンは何も言わない。歩調を私に合わせて、ゆっくり。いつもの山道と同じだ。速すぎず、遅すぎず。
部屋の前で、グレンが扉を開けた。
「横になってください」
「帳簿が——」
「明日でいい」
初めて聞いた。グレンが私の言葉を遮ったのは。
「……分かったわよ」
ベッドに横になった瞬間、意識が落ちた。
***
目が覚めたのは、翌日の昼過ぎだった。
最初に見えたのは天井。見慣れた木目。自分の部屋だ。
次に気づいたのは、扉の向こうに人の気配があること。
起き上がって、扉を細く開けた。
グレンが廊下に立っていた。壁に背を預けて、腕を組んで。扉のすぐ横。
(……ここにいたの。ずっと?)
視線に気づいて、グレンが振り向いた。
「起きましたか」
「うん」
「セバスを呼びます」
それだけ言って、廊下を歩いていく。
足音が遠ざかっていく間、私は扉の枠に手をついたまま立っていた。
(前世で倒れた時は、給湯室で一人だった)
誰も気づかなかった。気づいても、声をかける人はいなかった。
今は、扉の外に人がいる。一晩中。
***
セバスが駆けつけてきた。
「アイリス様! お加減は——」
「大丈夫。寝たら治ったわ。それより、昨日の帳簿——」
「こちらに」
セバスが帳簿を差し出した。開く。
昨日の日付で、収支が記録されている。項目の並び順は私が教えた通り。数字も正確。出荷の記録、日当の支払い、食料の受け入れ。全部、セバスが一人で処理していた。
「それと、本日の採取ですが、グレン殿が指揮を執って山に向かいました。昼には戻るかと」
「グレンが?」
「はい。住民たちには『いつも通りやればいい』と一言だけ。あとは黙って先頭を歩いて行きました」
住民からの苦情はなかったらしい。「怖いけど頼りになる」とのこと。前に採取班を率いた時と同じ評判。
帳簿を見る。セバスが回した一日分の記録。グレンが率いた採取班の報告。
私がいなくても、回っている。
一日だけ。一日だけだが、破綻していない。仕組みを作って、人に教えて、その人がちゃんと動いた。前世では最後までできなかったこと。仕組みを作っても、引き継ぐ相手がいなかった。一人で抱えて、一人で倒れた。
「セバス」
「はい」
「……ちゃんと回してくれたのね」
「アイリス様に教えていただいた通りにしただけです」
セバスが頭を下げた。少し誇らしげに。
***
とはいえ、すぐに執務室に戻ろうとしたら止められた。
「本日はお休みください」
セバスが珍しく譲らない。グレンも山から戻ってきて、扉の前に立った。無言の壁。
(二人がかりで封じ込める気?)
仕方なくベッドに戻った。やることは山ほどあるのに。
昼過ぎ、セバスが盆を持ってきた。
「お食事をお持ちしました」
粥だった。湯気が立っている。刻んだ薬草が散らしてあって、ほんのり緑がかっている。
一口食べて、手が止まった。
「……美味しい」
素朴な粥だ。材料は米と薬草と塩くらいだろう。なのに味のまとまりがいい。薬草の香りが鼻に抜けて、体の芯まで温かくなる。
「セバス、これ、あなたが作ったの?」
「はい。厨房の者は留守にしておりましたので」
「料理できたの?」
「お恥ずかしい話ですが……趣味でして」
趣味。二十三年この領地にいて、一人で館を維持してきた老執事の趣味が、料理。
「若い頃は料理人になりたかったのですが、執事の家に生まれましたもので。それでも、こうして時折作っておりました。特に菓子作りが好きで——いえ、つまらない話です」
「つまらなくないわよ」
粥を食べ終えた。椀が空になるのが惜しいくらいだった。
「セバス」
「はい」
「今度元気になったら、お菓子作ってくれない?」
セバスが目を瞬かせた。
「……本当に、よろしいのですか」
「楽しみにしてるわ」
セバスは深く頭を下げた。その手が、少しだけ震えていた。
二十三年。誰にも出さなかった趣味を、初めて誰かに求められた。
***
夕方。ベッドの上で天井を見ていた。
やることは山ほどある。でも体が動かない。仕方ないから、頭の中で帳簿を組む。港町への次回出荷の見積もり。修繕の優先順位。住民の作業割り振り。
全部、頭の中でやろうとしている。
紙がなくても、一人で。
(……ああ、これだ)
前世と同じだ。仕組みを作れる。教えることもできる。でも最後には、全部自分で抱え込もうとする。「私がやった方が早い」と思ってしまう。
セバスは帳簿を回せた。グレンは採取班を率いた。二人とも、任せればできる人間だ。分かっていた。分かっていたのに、手放せなかった。
全部一人でやらなくてもいい。
頭では分かる。前世でも分かっていた。それでも体が先に動く。たぶん、すぐには治らない。
でも、今日一つだけ分かったことがある。
倒れても、帳簿は止まらなかった。
それだけで、十分だった。
朝、グレンがいつもの報告に来る。
「異常ありません」
何気なく、鑑定した。
【グレン・ファルクス】
現在価値:1,200
潜在価値:9,999
——1,200。
前に見た時は850だった。350も上がっている。
巡回でも指揮でも動かなかった数字が、あの夜以降ずっと上がり続けている。理由は分からない。何も「させて」いないのに。
考えたい。腰を据えて、この数字の変動パターンを分析したい。
だが机の上には帳簿の山。港町のロッソ商会への次回出荷の見積もり。道の修繕の進捗と追加予算。住民への日当の台帳。加工品の原価試算。レオナルドの視察で中断していた作業が、全部溜まっている。
(後でいい。今はそれどころじゃない)
グレンの9,999は棚上げ。何度目だろう、これで。
「下がっていいわ」
「はい」
グレンが去る。帳簿を開く。数字を追う。
セバスに日常の収支は任せた。でも全体の設計——何にいくら使い、どの順番で投資し、いつまでに何を達成するか——は私にしかできない。前世の会社でも同じだった。現場は回せても、経営判断は経理部長の頭の中にしかなかった。
昼の報告をセバスから受ける。午後は修繕現場を見に行く。戻って帳簿。夕食を取る暇がない。
「アイリス様、お食事を——」
「後でいいわ」
セバスが何か言いたそうにしていたが、引き下がった。
夜。蝋燭を二本目に替えた頃、視界がぼやけ始めた。
(……まずいわね)
分かっている。無理をしている自覚はある。前世も同じだった。決算期に三日徹夜して、四日目に倒れた。あの時は会社の給湯室で目が覚めた。誰も気づいていなかった。
ペンを握り直す。あと少し。この項目だけ。
数字がかすむ。帳簿の行が二重に見える。
椅子から、ずるりと体が滑った。
***
倒れる瞬間、腕を掴まれた。
強い力。引き上げられて、椅子に戻される——のではなく、そのまま支えられた。背中に硬い感触。鎧だ。
「……グレン?」
「動かないでください」
声が近い。耳のすぐ横。いつもの壁際からではなく、すぐ隣に。
(あ、この人、ずっとここにいたんだ)
執務室の隅。いつもの定位置で、ずっと見ていた。倒れる前兆を。だから一瞬で動けた。
「歩けますか」
「……たぶん」
立ち上がろうとして、膝が笑った。前世の感覚。体が限界を超えた時の、あの頼りなさ。
グレンの腕が、肩の下に入った。
体重を預ける形になる。鎧が冷たい。でもその内側の体温は温かかった。
廊下を歩く。グレンは何も言わない。歩調を私に合わせて、ゆっくり。いつもの山道と同じだ。速すぎず、遅すぎず。
部屋の前で、グレンが扉を開けた。
「横になってください」
「帳簿が——」
「明日でいい」
初めて聞いた。グレンが私の言葉を遮ったのは。
「……分かったわよ」
ベッドに横になった瞬間、意識が落ちた。
***
目が覚めたのは、翌日の昼過ぎだった。
最初に見えたのは天井。見慣れた木目。自分の部屋だ。
次に気づいたのは、扉の向こうに人の気配があること。
起き上がって、扉を細く開けた。
グレンが廊下に立っていた。壁に背を預けて、腕を組んで。扉のすぐ横。
(……ここにいたの。ずっと?)
視線に気づいて、グレンが振り向いた。
「起きましたか」
「うん」
「セバスを呼びます」
それだけ言って、廊下を歩いていく。
足音が遠ざかっていく間、私は扉の枠に手をついたまま立っていた。
(前世で倒れた時は、給湯室で一人だった)
誰も気づかなかった。気づいても、声をかける人はいなかった。
今は、扉の外に人がいる。一晩中。
***
セバスが駆けつけてきた。
「アイリス様! お加減は——」
「大丈夫。寝たら治ったわ。それより、昨日の帳簿——」
「こちらに」
セバスが帳簿を差し出した。開く。
昨日の日付で、収支が記録されている。項目の並び順は私が教えた通り。数字も正確。出荷の記録、日当の支払い、食料の受け入れ。全部、セバスが一人で処理していた。
「それと、本日の採取ですが、グレン殿が指揮を執って山に向かいました。昼には戻るかと」
「グレンが?」
「はい。住民たちには『いつも通りやればいい』と一言だけ。あとは黙って先頭を歩いて行きました」
住民からの苦情はなかったらしい。「怖いけど頼りになる」とのこと。前に採取班を率いた時と同じ評判。
帳簿を見る。セバスが回した一日分の記録。グレンが率いた採取班の報告。
私がいなくても、回っている。
一日だけ。一日だけだが、破綻していない。仕組みを作って、人に教えて、その人がちゃんと動いた。前世では最後までできなかったこと。仕組みを作っても、引き継ぐ相手がいなかった。一人で抱えて、一人で倒れた。
「セバス」
「はい」
「……ちゃんと回してくれたのね」
「アイリス様に教えていただいた通りにしただけです」
セバスが頭を下げた。少し誇らしげに。
***
とはいえ、すぐに執務室に戻ろうとしたら止められた。
「本日はお休みください」
セバスが珍しく譲らない。グレンも山から戻ってきて、扉の前に立った。無言の壁。
(二人がかりで封じ込める気?)
仕方なくベッドに戻った。やることは山ほどあるのに。
昼過ぎ、セバスが盆を持ってきた。
「お食事をお持ちしました」
粥だった。湯気が立っている。刻んだ薬草が散らしてあって、ほんのり緑がかっている。
一口食べて、手が止まった。
「……美味しい」
素朴な粥だ。材料は米と薬草と塩くらいだろう。なのに味のまとまりがいい。薬草の香りが鼻に抜けて、体の芯まで温かくなる。
「セバス、これ、あなたが作ったの?」
「はい。厨房の者は留守にしておりましたので」
「料理できたの?」
「お恥ずかしい話ですが……趣味でして」
趣味。二十三年この領地にいて、一人で館を維持してきた老執事の趣味が、料理。
「若い頃は料理人になりたかったのですが、執事の家に生まれましたもので。それでも、こうして時折作っておりました。特に菓子作りが好きで——いえ、つまらない話です」
「つまらなくないわよ」
粥を食べ終えた。椀が空になるのが惜しいくらいだった。
「セバス」
「はい」
「今度元気になったら、お菓子作ってくれない?」
セバスが目を瞬かせた。
「……本当に、よろしいのですか」
「楽しみにしてるわ」
セバスは深く頭を下げた。その手が、少しだけ震えていた。
二十三年。誰にも出さなかった趣味を、初めて誰かに求められた。
***
夕方。ベッドの上で天井を見ていた。
やることは山ほどある。でも体が動かない。仕方ないから、頭の中で帳簿を組む。港町への次回出荷の見積もり。修繕の優先順位。住民の作業割り振り。
全部、頭の中でやろうとしている。
紙がなくても、一人で。
(……ああ、これだ)
前世と同じだ。仕組みを作れる。教えることもできる。でも最後には、全部自分で抱え込もうとする。「私がやった方が早い」と思ってしまう。
セバスは帳簿を回せた。グレンは採取班を率いた。二人とも、任せればできる人間だ。分かっていた。分かっていたのに、手放せなかった。
全部一人でやらなくてもいい。
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