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第1章:辺境復興編
11話:凪の日
体調が戻るのに三日かかった。
三日目の朝、執務室に戻ると、セバスが盆を持って現れた。
「お約束のものです」
皿の上に、小さな焼き菓子が並んでいる。こんがりと焼き色がついて、甘い香りがする。辺境で手に入る材料だけで作ったらしい。蜂蜜と、干した果実と、粗挽きの麦粉。
一つ食べた。
「……なにこれ」
素朴だ。王都の菓子屋に並ぶような華やかさはない。でも、噛むほどに麦の風味が広がって、蜂蜜の甘さがじんわり追いかけてくる。干し果実の酸味がちょうどいい。
粥の時も思ったけど、この人の味覚はおかしい。いい意味で。
「セバス、いつからお菓子を?」
「若い頃からです。本当は料理人になりたかったのですが」
「なれなかったの?」
「執事の家でしたので。父に言い出せませんでした」
淡々と語る。恨みはなさそうだ。選べなかった道を、趣味として守り続けた。二十三年、この領地で。
「前の領主様方にお出ししたことは?」
「ございません。そのような——お茶の席を設けるような方は、おられませんでした」
(二十三年、一人で作って、一人で食べてたのか)
それ以上は聞かなかった。掘りすぎると感傷になる。
「これ、定期的に作って。仕事の合間に甘いものがあると捗るの」
「……経費、でしょうか」
「経費よ。福利厚生」
セバスが笑った。初めて見る顔だった。
ふと、鑑定した。
【セバス】
現在価値:600
潜在価値:950
600。前は510だった。着任時の450から考えると、ずいぶん上がった。
帳簿を任せた時に上がって、今回また上がっている。何の価値かは相変わらず分からないけど。
(まあ、私にとって価値があるのは確かだし)
深く考えなかった。セバスの焼き菓子をもう一つ取って、帳簿に戻った。
***
午前中、帳簿を片づけていると、表から声が聞こえた。
窓から覗くと、老婆が館に向かって歩いてくる。片手に杖、もう片手に野菜の入った籠。いつもの光景だ。
「お嬢、いるかい」
玄関先で受け取る。今日は蕪と、青菜の束。
「ありがとう。いつも悪いわね」
「いいんだよ。余ってるんだから」
余ってはいないと思う。でもこの老婆に遠慮を見せると怒る。
「そうだ、一つ報告」
老婆が杖を突いて、こっちを見た。
「息子夫婦が戻ってくるよ」
「……え?」
「手紙を出したんだ。道が直った、飯が安定した、仕事も出てきたってね。そしたら向こうから、戻りたいって」
「呼んだの?」
「呼んだっていうか、知らせただけだよ。戻るかどうかはあっちが決めた」
老婆が少し目を細めた。
「孫が来年から歩くんだ。まともな道がある場所で歩かせてやりたくてね」
私は何も言えなかった。帳簿のどこにも載っていない数字。「孫をまともな道で歩かせたい」は、金貨何枚にも換算できない。
「来月には着く。よろしく頼むよ、お嬢」
「……ええ、もちろん」
老婆が背を向けかけて、立ち止まった。
「そうそう。うちだけじゃないよ。隣のヨルグの娘も、南で働いてる甥っ子に手紙を出したって言ってた」
「他にも?」
「道が直って飯が安定すりゃ、人は戻ってくるもんだ。当たり前のことさ」
老婆は杖を突いて去っていった。
当たり前のこと。
老婆にとっては当たり前かもしれない。でも三ヶ月前、この領地の現在価値は12だった。人口は減る一方で、誰も戻ってくる見込みなんてなかった。
(人が、増えるのか。この土地に)
帳簿の上では想定していた。人口が増えれば労働力が増え、産業が回り、税収が生まれる。数字の上では分かっていた。
でも実際に「息子が戻ってくる」「甥っ子に手紙を出した」と聞くと、数字とは全然違う。胸の奥が熱くなる。
嬉しい。
純粋に、嬉しかった。帳簿が合った時とは違う種類の嬉しさ。計算で出てくる答えじゃない。
***
夕方、セバスが報告を持ってきた。普段の収支報告に加えて、商人から聞いた噂。
「ヴァレンシア公爵家が、東方商会との取引を打ち切られたそうです」
「打ち切られた? 公爵家の方から?」
「いえ、商会の方から。支払いの遅延が続いたため、と」
帳簿の提出期限も二度過ぎているらしい。王都から監査が入るという話もある。
(やっぱりね)
私がいなくなって四ヶ月。帳簿を回せる人間がいない。取引先は離れる。期限は守れない。予想通りだ。
一瞬、父の顔がよぎった。執務室で帳簿の山を前に途方に暮れている姿。
(……知らないわよ)
振り払った。あの人が目を逸らしたのが先だ。
「他には?」
「以上です」
「そう。ありがとう」
***
翌日の昼。
広場に見慣れない荷馬車が停まっていた。老婆の息子は来月と聞いていたが、別の家族だった。南の町から来たという若い夫婦。
「ここで働けるって聞いて」
修繕作業の噂が南にも広まったらしい。日当が出る、飯が安定している、領主がまともだ、と。
住民が少しずつ増えている。手紙で呼んだ家族。噂を聞いてきた若者。まだ数人だが、三ヶ月前はゼロだった。
広場で荷解きを見ていた。若い夫が荷物を運び、妻が子供を抱いている。子供が石畳の上をよちよち歩いて、転んで泣いた。夫が駆け寄って抱き上げる。
その向こうに、グレンが立っていた。
採取班の帰りだろう。広場の端で、住民に何か短く指示を出している。いつもの無表情。
若い夫と並ぶと、グレンの方が背が高い。黒髪が風で少し乱れていて、灰色の瞳が午後の光を反射している。鎧を外した訓練着姿で、腕を組んでいる。
(……あの人、普通にいい顔してるわよね)
今さら気づいた。出会った時は「愛想のかけらもない」としか思わなかった。無表情で無口で、自己紹介で一日の発言量を使い切るような男。
でも、こうして見ると整っている。骨格がしっかりしていて、目元が涼しい。表情がない分、造りの良さがそのまま出ている。
じっと見ていた。
グレンが視線に気づいた。こっちを向く。
「……何か?」
「何でもない」
少し早口になった。帳簿に目を落とす。
数字が頭に入ってこない。
(……なんなのよ、今の)
ペンを握り直す。集中する。今月の修繕費。来月の出荷予定。ロッソ商会への——
グレンの横顔がちらつく。
(帳簿。帳簿に集中しなさい)
***
夕方。執務室にグレンが報告に来た。
「異常ありません」
いつもの一言。何も変わらない。
「グレン、食べる?」
セバスの焼き菓子を一つ差し出した。皿の上に残っていた最後の一つ。
グレンが少し固まった。焼き菓子と私の顔を交互に見ている。
受け取った。指先が一瞬触れた。
無言で食べる。表情は変わらない。いつも通りの無表情で、いつも通り咀嚼して、いつも通り飲み込んだ。
「……美味いです」
短い。でもグレンが食べ物の感想を言ったのは初めてだった。
「セバスが作ったの。今度もっと作ってもらうわ」
「……そうですか」
それだけ。会話は終わり。
グレンが部屋を出ていく。静かな足音。扉が閉まる。
執務室に一人。
窓の外に、灯りが点き始めた領地が見える。夕日が屋根を赤く染めている。広場にはさっきの若い家族がまだいて、子供が住民に囲まれて笑っていた。
穏やかだ。
セバスの焼き菓子と、老婆の手紙と、戻ってきた若い家族と、グレンの「美味いです」。
帳簿のどこにも載らないものばかり。
でも、悪くない。
この静けさが続けばいいと思った。
続かないことを、まだ知らなかった。
三日目の朝、執務室に戻ると、セバスが盆を持って現れた。
「お約束のものです」
皿の上に、小さな焼き菓子が並んでいる。こんがりと焼き色がついて、甘い香りがする。辺境で手に入る材料だけで作ったらしい。蜂蜜と、干した果実と、粗挽きの麦粉。
一つ食べた。
「……なにこれ」
素朴だ。王都の菓子屋に並ぶような華やかさはない。でも、噛むほどに麦の風味が広がって、蜂蜜の甘さがじんわり追いかけてくる。干し果実の酸味がちょうどいい。
粥の時も思ったけど、この人の味覚はおかしい。いい意味で。
「セバス、いつからお菓子を?」
「若い頃からです。本当は料理人になりたかったのですが」
「なれなかったの?」
「執事の家でしたので。父に言い出せませんでした」
淡々と語る。恨みはなさそうだ。選べなかった道を、趣味として守り続けた。二十三年、この領地で。
「前の領主様方にお出ししたことは?」
「ございません。そのような——お茶の席を設けるような方は、おられませんでした」
(二十三年、一人で作って、一人で食べてたのか)
それ以上は聞かなかった。掘りすぎると感傷になる。
「これ、定期的に作って。仕事の合間に甘いものがあると捗るの」
「……経費、でしょうか」
「経費よ。福利厚生」
セバスが笑った。初めて見る顔だった。
ふと、鑑定した。
【セバス】
現在価値:600
潜在価値:950
600。前は510だった。着任時の450から考えると、ずいぶん上がった。
帳簿を任せた時に上がって、今回また上がっている。何の価値かは相変わらず分からないけど。
(まあ、私にとって価値があるのは確かだし)
深く考えなかった。セバスの焼き菓子をもう一つ取って、帳簿に戻った。
***
午前中、帳簿を片づけていると、表から声が聞こえた。
窓から覗くと、老婆が館に向かって歩いてくる。片手に杖、もう片手に野菜の入った籠。いつもの光景だ。
「お嬢、いるかい」
玄関先で受け取る。今日は蕪と、青菜の束。
「ありがとう。いつも悪いわね」
「いいんだよ。余ってるんだから」
余ってはいないと思う。でもこの老婆に遠慮を見せると怒る。
「そうだ、一つ報告」
老婆が杖を突いて、こっちを見た。
「息子夫婦が戻ってくるよ」
「……え?」
「手紙を出したんだ。道が直った、飯が安定した、仕事も出てきたってね。そしたら向こうから、戻りたいって」
「呼んだの?」
「呼んだっていうか、知らせただけだよ。戻るかどうかはあっちが決めた」
老婆が少し目を細めた。
「孫が来年から歩くんだ。まともな道がある場所で歩かせてやりたくてね」
私は何も言えなかった。帳簿のどこにも載っていない数字。「孫をまともな道で歩かせたい」は、金貨何枚にも換算できない。
「来月には着く。よろしく頼むよ、お嬢」
「……ええ、もちろん」
老婆が背を向けかけて、立ち止まった。
「そうそう。うちだけじゃないよ。隣のヨルグの娘も、南で働いてる甥っ子に手紙を出したって言ってた」
「他にも?」
「道が直って飯が安定すりゃ、人は戻ってくるもんだ。当たり前のことさ」
老婆は杖を突いて去っていった。
当たり前のこと。
老婆にとっては当たり前かもしれない。でも三ヶ月前、この領地の現在価値は12だった。人口は減る一方で、誰も戻ってくる見込みなんてなかった。
(人が、増えるのか。この土地に)
帳簿の上では想定していた。人口が増えれば労働力が増え、産業が回り、税収が生まれる。数字の上では分かっていた。
でも実際に「息子が戻ってくる」「甥っ子に手紙を出した」と聞くと、数字とは全然違う。胸の奥が熱くなる。
嬉しい。
純粋に、嬉しかった。帳簿が合った時とは違う種類の嬉しさ。計算で出てくる答えじゃない。
***
夕方、セバスが報告を持ってきた。普段の収支報告に加えて、商人から聞いた噂。
「ヴァレンシア公爵家が、東方商会との取引を打ち切られたそうです」
「打ち切られた? 公爵家の方から?」
「いえ、商会の方から。支払いの遅延が続いたため、と」
帳簿の提出期限も二度過ぎているらしい。王都から監査が入るという話もある。
(やっぱりね)
私がいなくなって四ヶ月。帳簿を回せる人間がいない。取引先は離れる。期限は守れない。予想通りだ。
一瞬、父の顔がよぎった。執務室で帳簿の山を前に途方に暮れている姿。
(……知らないわよ)
振り払った。あの人が目を逸らしたのが先だ。
「他には?」
「以上です」
「そう。ありがとう」
***
翌日の昼。
広場に見慣れない荷馬車が停まっていた。老婆の息子は来月と聞いていたが、別の家族だった。南の町から来たという若い夫婦。
「ここで働けるって聞いて」
修繕作業の噂が南にも広まったらしい。日当が出る、飯が安定している、領主がまともだ、と。
住民が少しずつ増えている。手紙で呼んだ家族。噂を聞いてきた若者。まだ数人だが、三ヶ月前はゼロだった。
広場で荷解きを見ていた。若い夫が荷物を運び、妻が子供を抱いている。子供が石畳の上をよちよち歩いて、転んで泣いた。夫が駆け寄って抱き上げる。
その向こうに、グレンが立っていた。
採取班の帰りだろう。広場の端で、住民に何か短く指示を出している。いつもの無表情。
若い夫と並ぶと、グレンの方が背が高い。黒髪が風で少し乱れていて、灰色の瞳が午後の光を反射している。鎧を外した訓練着姿で、腕を組んでいる。
(……あの人、普通にいい顔してるわよね)
今さら気づいた。出会った時は「愛想のかけらもない」としか思わなかった。無表情で無口で、自己紹介で一日の発言量を使い切るような男。
でも、こうして見ると整っている。骨格がしっかりしていて、目元が涼しい。表情がない分、造りの良さがそのまま出ている。
じっと見ていた。
グレンが視線に気づいた。こっちを向く。
「……何か?」
「何でもない」
少し早口になった。帳簿に目を落とす。
数字が頭に入ってこない。
(……なんなのよ、今の)
ペンを握り直す。集中する。今月の修繕費。来月の出荷予定。ロッソ商会への——
グレンの横顔がちらつく。
(帳簿。帳簿に集中しなさい)
***
夕方。執務室にグレンが報告に来た。
「異常ありません」
いつもの一言。何も変わらない。
「グレン、食べる?」
セバスの焼き菓子を一つ差し出した。皿の上に残っていた最後の一つ。
グレンが少し固まった。焼き菓子と私の顔を交互に見ている。
受け取った。指先が一瞬触れた。
無言で食べる。表情は変わらない。いつも通りの無表情で、いつも通り咀嚼して、いつも通り飲み込んだ。
「……美味いです」
短い。でもグレンが食べ物の感想を言ったのは初めてだった。
「セバスが作ったの。今度もっと作ってもらうわ」
「……そうですか」
それだけ。会話は終わり。
グレンが部屋を出ていく。静かな足音。扉が閉まる。
執務室に一人。
窓の外に、灯りが点き始めた領地が見える。夕日が屋根を赤く染めている。広場にはさっきの若い家族がまだいて、子供が住民に囲まれて笑っていた。
穏やかだ。
セバスの焼き菓子と、老婆の手紙と、戻ってきた若い家族と、グレンの「美味いです」。
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この静けさが続けばいいと思った。
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