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第2章:王都謀略編
31話:仕込み
港町からの帰り道、馬車の中で帳簿を広げていた。
書き写した数字。ロッソ商会の販売記録。エルスト商会の倉庫と一致する住所。宿で並べ直して見えたパターン。窓口はバラバラだが、裏にいるのは一つ。
それと王都で止められた直販。検査もなしの品質NG。商業局の管轄を超えた圧力。
壁だらけだ。
エルスト商会は正当な商取引を盾にしている。帳簿を見せろとは言えない。流通許可停止は書類が整っていて、正面からひっくり返す手段がない。カイルは信じてくれているが、組織の人間として動ける範囲に限界がある。
(どこから崩す?)
馬車が揺れる。数字を見つめる。答えが出ない。
エルスト商会を直接叩く手段がない。流通停止を撤回させる手段もない。王都の高値軟膏を止める権限もない。
持っている手札は何だ。帳簿と、鑑定と、トビアスの軟膏。
(……手札が少なすぎる)
帳簿を閉じた。窓の外を見た。畑が流れていく。
流通停止。品質NG。
品質NG。
(品質NGと言ったのは、向こうだ)
閉じた帳簿をもう一度開いた。
私の軟膏に品質問題があると、向こうが認定した。検査もせずに。でもそれは公的な判断として残っている。
同じ品質の軟膏が王都で売られている。トビアスが「うちの」と確定させた、同じものだ。
なら、それにも品質問題があるはずだ。向こうの基準で言えば。
(品質に問題がある商品が消費者の手に渡っている。これは放置できない——と、私が言える)
向こうが振り下ろした刃を、そのまま向こうに向ける。品質NGと言ったのはあなたたちだ。なら同じ商品を見逃すのはおかしいでしょう、と。
ただし、穴がある。
このロジックが通るのは、王都の高値軟膏がアーレン領産だと証明できた場合だけだ。トビアスが「配合の癖でうちのだと分かる」と言った。職人の目では確か。でもそれは証拠にならない。主観だ。第三者が客観的に確認できる方法がなければ、「似ているだけ」で片付けられる。
(証明する手段がいる。誰が見ても分かる、客観的な方法が)
「グレン、少し急いでもらえる?」
「はい」
***
アーレン領に戻った。荷を下ろす前にトビアスを呼んだ。
作業場で向かい合う。港町で分かったこと、王都の状況、品質NGの逆手戦略。順を追って説明した。
トビアスは黙って聞いていた。途中で一度だけ目が動いた。自分の軟膏がエルスト商会経由で買い集められている、という部分で。
「それで、相談なの」
「はい」
「次のロットに判別用の仕込みをしたい。出回った先で、うちの製品だと客観的に証明できるようにしたい。条件は三つ。使う人に害がないこと。品質が落ちないこと。相手に気づかれないこと」
トビアスが腕を組んだ。すぐには答えなかった。作業台の壺を見ている。棚に並んだ出荷待ちの在庫を見ている。自分が作ったものを、一つずつ目で追っている。
「……薬効に影響が出ない方法でやらせてください」
「もちろん」
「少し時間をください。明日までに方法を出します」
***
翌日。トビアスが紙を持って執務室に来た。三つの方法が書いてある。字が丁寧だった。昨夜ずっと考えていたのだろう。
「一つ目。精製の段階で微量のハーブ抽出液を加える方法です」
紙を指しながら説明していく。
「特定の試薬を垂らすと色が変わります。この試薬に反応するハーブ抽出液は、薬効にも匂いにも色にも影響しません。変色反応は目視で誰でも確認できます」
「相手に事前に気づかれる可能性は」
「ありません。試薬を使わない限り、普通の軟膏と見分けがつきません」
「デメリットは」
「精製工程が一手間増えます。月産の速度が少し落ちます」
「二つ目は?」
「特定の薬草の粉末に反応して匂いが立つ成分を、微量だけ混ぜる方法です」
「匂い?」
「はい。その粉末を部屋の中に撒くと、軟膏がどこにあっても匂いが出ます。棚の奥でも、容器の中でも。部屋ごと検査できます」
「持ってないと言い張っても、撒けば分かると」
「そうなります。ただ、反応後に匂いが残ります。使った軟膏は商品としては売り物にならなくなります」
「証拠を取ったら商品が潰れる」
「はい。それと、匂いは記録に残しにくい。一つ目のような目に見える変色に比べると、証拠としての強度は劣ります」
「三つ目は?」
「容器の封蝋に特定の樹脂を混ぜる方法です。軟膏本体には一切手を加えません。品質への影響はゼロです」
「デメリットは」
「容器を移し替えられたら追跡できません」
「転売するなら容器は変える可能性がある。三つ目は外すわ」
紙に線を引いた。残りは二つ。
一つ目は確実性が高い。試薬で変色する。目に見える。再現できる。証拠として一番強い。
二つ目は用途が違う。隠されても見つけ出せる。場所を特定できる。ただし証拠力は弱い。
「それぞれの仕込みにかかる時間は?」
「一つ目が一日。工程調整と濃度の確認です。二つ目は二日。反応する薬草の粉末を別途用意する必要があります。三つ目は——外しましたね」
「ん」
帳簿を開いた。出荷計画、在庫、月産能力。数字を見ながら考えた。
(一つ目を仕込んだロットが市場に出るまで約二十日。その間に王都で準備を整える。カイルに連絡を取って、検査の立ち会いを——いや、順序が違うか。まず仕込みロットが確実にエルスト商会に流れることを確認して——)
「トビアス」
「はい」
「仕込みの準備にかかって。品質は落とさないでね」
「当然です」
それだけ言って、トビアスは作業場に戻った。
***
仕込みが始まった。
トビアスが次のロットの精製に取り掛かる。いつもの工程に一手間。壺ごとに同じ濃度で、同じタイミングで。品質は落とさない。
仕込み済みのロットがロッソ商会経由で出荷された。
あとは待つだけだ。
***
帳簿を繰る。日が経つごとに数字が増えていく。
ロッソ商会からの入金記録。出荷数と売上の推移。在庫の回転。仕込みロットがどこに流れたか、数字を追えば動きは見える。エルスト商会の倉庫住所と一致する名義からの購入が、いつも通り入っている。
保管庫の建設費が帳簿に載った。ルッツの修正案通り、東側に着工。資材費、人件費、工期。数字が一つずつ積み上がっていく。柱が立ち、壁が入り、屋根が載る。帳簿の数字が建物になっていく。
ヴァルト商会からは月次の書簡。流通停止のまま。ただし「契約は維持する。停止解除次第、即日再開の体制あり」の一文。
出荷から二十日が過ぎた。
仕込みロットがいつもの経路で買い集められ、王都に運ばれ、棚に並ぶ頃合いだ。
「グレン」
「はい」
「王都に行くわ」
「支度します」
聞き返しもしなかった。
書き写した数字。ロッソ商会の販売記録。エルスト商会の倉庫と一致する住所。宿で並べ直して見えたパターン。窓口はバラバラだが、裏にいるのは一つ。
それと王都で止められた直販。検査もなしの品質NG。商業局の管轄を超えた圧力。
壁だらけだ。
エルスト商会は正当な商取引を盾にしている。帳簿を見せろとは言えない。流通許可停止は書類が整っていて、正面からひっくり返す手段がない。カイルは信じてくれているが、組織の人間として動ける範囲に限界がある。
(どこから崩す?)
馬車が揺れる。数字を見つめる。答えが出ない。
エルスト商会を直接叩く手段がない。流通停止を撤回させる手段もない。王都の高値軟膏を止める権限もない。
持っている手札は何だ。帳簿と、鑑定と、トビアスの軟膏。
(……手札が少なすぎる)
帳簿を閉じた。窓の外を見た。畑が流れていく。
流通停止。品質NG。
品質NG。
(品質NGと言ったのは、向こうだ)
閉じた帳簿をもう一度開いた。
私の軟膏に品質問題があると、向こうが認定した。検査もせずに。でもそれは公的な判断として残っている。
同じ品質の軟膏が王都で売られている。トビアスが「うちの」と確定させた、同じものだ。
なら、それにも品質問題があるはずだ。向こうの基準で言えば。
(品質に問題がある商品が消費者の手に渡っている。これは放置できない——と、私が言える)
向こうが振り下ろした刃を、そのまま向こうに向ける。品質NGと言ったのはあなたたちだ。なら同じ商品を見逃すのはおかしいでしょう、と。
ただし、穴がある。
このロジックが通るのは、王都の高値軟膏がアーレン領産だと証明できた場合だけだ。トビアスが「配合の癖でうちのだと分かる」と言った。職人の目では確か。でもそれは証拠にならない。主観だ。第三者が客観的に確認できる方法がなければ、「似ているだけ」で片付けられる。
(証明する手段がいる。誰が見ても分かる、客観的な方法が)
「グレン、少し急いでもらえる?」
「はい」
***
アーレン領に戻った。荷を下ろす前にトビアスを呼んだ。
作業場で向かい合う。港町で分かったこと、王都の状況、品質NGの逆手戦略。順を追って説明した。
トビアスは黙って聞いていた。途中で一度だけ目が動いた。自分の軟膏がエルスト商会経由で買い集められている、という部分で。
「それで、相談なの」
「はい」
「次のロットに判別用の仕込みをしたい。出回った先で、うちの製品だと客観的に証明できるようにしたい。条件は三つ。使う人に害がないこと。品質が落ちないこと。相手に気づかれないこと」
トビアスが腕を組んだ。すぐには答えなかった。作業台の壺を見ている。棚に並んだ出荷待ちの在庫を見ている。自分が作ったものを、一つずつ目で追っている。
「……薬効に影響が出ない方法でやらせてください」
「もちろん」
「少し時間をください。明日までに方法を出します」
***
翌日。トビアスが紙を持って執務室に来た。三つの方法が書いてある。字が丁寧だった。昨夜ずっと考えていたのだろう。
「一つ目。精製の段階で微量のハーブ抽出液を加える方法です」
紙を指しながら説明していく。
「特定の試薬を垂らすと色が変わります。この試薬に反応するハーブ抽出液は、薬効にも匂いにも色にも影響しません。変色反応は目視で誰でも確認できます」
「相手に事前に気づかれる可能性は」
「ありません。試薬を使わない限り、普通の軟膏と見分けがつきません」
「デメリットは」
「精製工程が一手間増えます。月産の速度が少し落ちます」
「二つ目は?」
「特定の薬草の粉末に反応して匂いが立つ成分を、微量だけ混ぜる方法です」
「匂い?」
「はい。その粉末を部屋の中に撒くと、軟膏がどこにあっても匂いが出ます。棚の奥でも、容器の中でも。部屋ごと検査できます」
「持ってないと言い張っても、撒けば分かると」
「そうなります。ただ、反応後に匂いが残ります。使った軟膏は商品としては売り物にならなくなります」
「証拠を取ったら商品が潰れる」
「はい。それと、匂いは記録に残しにくい。一つ目のような目に見える変色に比べると、証拠としての強度は劣ります」
「三つ目は?」
「容器の封蝋に特定の樹脂を混ぜる方法です。軟膏本体には一切手を加えません。品質への影響はゼロです」
「デメリットは」
「容器を移し替えられたら追跡できません」
「転売するなら容器は変える可能性がある。三つ目は外すわ」
紙に線を引いた。残りは二つ。
一つ目は確実性が高い。試薬で変色する。目に見える。再現できる。証拠として一番強い。
二つ目は用途が違う。隠されても見つけ出せる。場所を特定できる。ただし証拠力は弱い。
「それぞれの仕込みにかかる時間は?」
「一つ目が一日。工程調整と濃度の確認です。二つ目は二日。反応する薬草の粉末を別途用意する必要があります。三つ目は——外しましたね」
「ん」
帳簿を開いた。出荷計画、在庫、月産能力。数字を見ながら考えた。
(一つ目を仕込んだロットが市場に出るまで約二十日。その間に王都で準備を整える。カイルに連絡を取って、検査の立ち会いを——いや、順序が違うか。まず仕込みロットが確実にエルスト商会に流れることを確認して——)
「トビアス」
「はい」
「仕込みの準備にかかって。品質は落とさないでね」
「当然です」
それだけ言って、トビアスは作業場に戻った。
***
仕込みが始まった。
トビアスが次のロットの精製に取り掛かる。いつもの工程に一手間。壺ごとに同じ濃度で、同じタイミングで。品質は落とさない。
仕込み済みのロットがロッソ商会経由で出荷された。
あとは待つだけだ。
***
帳簿を繰る。日が経つごとに数字が増えていく。
ロッソ商会からの入金記録。出荷数と売上の推移。在庫の回転。仕込みロットがどこに流れたか、数字を追えば動きは見える。エルスト商会の倉庫住所と一致する名義からの購入が、いつも通り入っている。
保管庫の建設費が帳簿に載った。ルッツの修正案通り、東側に着工。資材費、人件費、工期。数字が一つずつ積み上がっていく。柱が立ち、壁が入り、屋根が載る。帳簿の数字が建物になっていく。
ヴァルト商会からは月次の書簡。流通停止のまま。ただし「契約は維持する。停止解除次第、即日再開の体制あり」の一文。
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