【完結】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~

Lihito

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第2章:王都謀略編

36話:安心して

アーレン領に帰ってきた。

馬車を降りた瞬間、空気が違うと思った。王都の密度とは違う、広くて冷たい北の風。何日ぶりだろう。十日は超えている。

「おかえりなさいませ、アイリス様」

セバスが玄関に立っていた。いつも通り。この人は帰りの日をどうやって読んでいるのだろう。手紙を出したわけでもないのに。

「ただいま。留守中の帳簿は」

「お机の上に」

執務室に入った。帳簿を開いた。収支、住民対応、物資の受発注。どれも抜けがない。軟膏の出荷記録もある。品質停止の期間中も、在庫管理と原料の仕入れは止めずに回してくれていた。

「トビアスと相談して、停止が解けた直後に出荷を再開できるよう準備しておきました」

「……完璧ね。いつも通り」

「恐れ入ります」

セバスが紅茶を置いた。温度がちょうどいい。

***

午後、領地を回った。グレンが隣を歩いている。

道が伸びていた。南の倉庫は壁まで出来上がっている。住居の修繕も進んでいる。ルッツたちは留守中も止まらなかったらしい。

「……いい領地になりましたね」

グレンが言った。

足が止まった。

この人が、自分から何かを言う。それだけで珍しい。まして「いい領地」と評価めいたことを口にするなんて。

「前は悪い場所だったの?」

「いえ。……ただ、以前とは別のものになったと思います。別の場所と比べるなら」

「別の場所?」

グレンが黙った。歩きながら、前を見ている。

「王都です。自分がいた頃の」

(珍しい。この人が昔の話をするなんて)

黙って歩いた。聞き手に回る。グレンが話したいなら、聞く。話したくないなら、そのまま歩くだけ。

「……近衛にいた頃の話です」

グレンが言った。声のトーンは変わらない。いつもの低い声。

「悪い場所ではありませんでした。同僚は皆、それぞれ正義があって、良い人間が多かった」

「うん」

「ただ、上官が——屑だった」

敬語から外れた。グレンの口からその言葉が出てきたことに、少し驚いた。

「王国民の税金を横領していました。公金の輸送に立ち会うことがあって、金額が合わないことに気づきました。上に報告しました」

「それで?」

「前線への公金輸送を任されました。封印金庫で受け取って、届け先で開けたら、中身が足りなかった」

「抜いたのはお前だと言われました。封印金庫は開封時に初めて中身が確認される。途中で抜くことは物理的に可能だが、途中で確認する手段がない。渡された時点で足りなかったのか、自分が抜いたのか、証明のしようがない」

「……それで左遷」

「はい。証拠不十分で処分は軽かったのですが、近衛にはいられなくなりました。辺境の護衛任務に回されて——ここに来ました」

足を動かし続けていた。領地の南側を歩いている。倉庫の壁が午後の光を受けている。ルッツたちの声が遠くから聞こえる。

「何が起きているか分からなかった、というのが正直なところです。横領を報告した自分が、なぜ公金を盗んだことにされているのか」

グレンがこちらを見ないまま言った。

「今は、少し分かります。報告したから、消されたのだと。邪魔だったのだと」

「……そうね」

それだけ返した。深追いはしない。

グレンが黙った。しばらく足音だけが続いた。

「少し話しすぎました」

「そんなことないわ」

立ち止まった。グレンも止まった。

「安心して」

グレンの目がわずかに動いた。

「あなたがここにいる理由は、私が知ってる」

一拍、置いた。言葉を選んだわけじゃない。ちゃんと届くように、それだけ。

「正しいことをした人を、正しくないと言った人たちがいた。——それだけのことよ」

グレンがこちらを見た。

「だから安心して。ここでは、そういうことは起きないわ」

笑った。そうしようと思ったわけじゃないけど、口が勝手に動いていた。

グレンが息を止めたのが分かった。

灰色の瞳が、こちらを捕えたまま動かない。いつもの護衛の目じゃなく、初めて見る目だった。何が映っているのか分からない。——胸の奥が、ざわついた。

風が吹いて髪が揺れた。それでもグレンの目は動かなかった。

耳の先が、赤くなっていた。

「……守るのは自分の仕事です」

声がかすかに上擦っていた。

「護衛ですから」

(この人、また同じこと言ってる)

笑いそうになったけど、堪えた。追い詰めると歩く速度が倍になるので。

「そうね。護衛ね」

歩き出した。グレンが半拍遅れてついてくる。耳が赤いまま。

***

翌日。ルッツを呼んだ。

執務室に図面用の大きな紙を広げた。

「ルッツ、頼みがあるの」

「何ですか?」

「軟膏事業が安定してきた。出荷先も増える。そうなると、この領地全体をどう整備していくか、先を見て計画を立てないといけない」

「はい」

「倉庫一棟の話じゃなくて、領地全体の話。道、建物、住居、保管施設、荷馬車の通り道。全部含めて、計画を作ってほしい」

ルッツの目が変わった。

「……全体の、ですか」

「そう。あなたに任せたい。三日で出して」

「やります」

***

三日後、ルッツが図面を持ってきた。

大きな紙に、領地の全体図が描かれている。建物の配置、道の計画、倉庫の位置。手を抜いていないのは一目で分かる。線は正確で、寸法も入っている。

ただ。

(……動線がおかしい)

保管庫と作業場が離れすぎている。住居が荷馬車道に面していて、搬入時に住民の動線と交差する。倉庫は大きいが、将来増築する時に隣の建物が邪魔になる配置。

以前、倉庫一棟を任せた時と同じだった。あの時は「建てやすさで場所を選んじゃいました」と言った。今回は領地全体。規模が大きい分、粗がはっきり見える。

「ルッツ」

「はい」

「この保管庫、なぜここに置いたの?」

「地盤が一番安定しているのがここなので」

「作業場との距離は?」

「……すみません、そこは——」

「この住居の並び。荷馬車道との関係は」

ルッツの顔が曇った。図面を見直している。

「……被ってます。搬入の時に住民が避けないと」

「将来、倉庫を拡張する時は」

「——隣の建物、邪魔になりますね」

ルッツが頭を下げた。

「すみません。建物の一つ一つは考えたんですけど、全体の流れが見えてなかった」

分かっている。この子の腕は確かだ。建てる技術は完璧。寸法も材料選びも施工も間違いない。ただ、「何をどこにどう配置するか」——全体の設計を俯瞰する力だけが、追いついていない。

「やり直す?」

「はい。もう一回考えます」

「ルッツ」

「はい」

「腕は一流よ。それは分かってる。ただ——」

言いかけて、やめた。この子に足りないのは努力じゃない。ここに「もう一回考えて」をいくら繰り返しても、同じ種類の粗が出てくる。

ルッツが退室した後、鑑定した。

【ルッツ・ハイデン】
現在価値:1,700
潜在価値:1,700

(到達してる)

前に見た時は1,650だった。あれからさらに伸びて、潜在価値に届いている。この子はもう、持っているものを全部出し切っている。

腕は一流。潜在を全部発揮している。これがルッツの全力。

(惜しいのよ……。1,700のうち100だけでも企画力に回せたら、この子は完璧なのに。……なんてね)

ぼやきだった。独り言にもならない。数字は数字。鑑定で見えるだけで、動かせるものじゃない。

——数字が揺れた。

(え?)

目を瞑って、もう一度開いた。鑑定し直す。

【ルッツ・ハイデン】
現在価値:1,700
潜在価値:1,700
 企画力:100

今まで見えなかった項目が、見えている。

「……何、これ」

内訳。鑑定で対象の内訳が見えたことは一度もない。数字は総額で見えるだけだった。それが今、「企画力:100」という項目が浮かんでいる。

自分がやったのか。さっきの独り言——「100だけ企画力に回せたら」。あれで動いた?

ルッツを呼び戻した。

「ルッツ、さっきの図面、もう一回見せて」

「え、もう修正できてないですけど」

「いいから。さっきの話、もう一回聞かせて。保管庫の配置」

ルッツが図面を広げた。同じ紙。同じ図面。

「えっと、保管庫はここに置いたんですけど——」

指が止まった。自分の図面を見ている。

「……いや、ここはおかしいですね。作業場から遠いし、荷馬車の搬入を考えたら東側の方がいい。それに倉庫の隣に余白を取っておかないと、後で困る」

さっきと同じ人間が、同じ図面を見て、違うことを言っている。

「この住居の並びも、搬入路と被ってます。住居を北寄りにずらして、道の南側を搬入専用にした方が——」

「……ルッツ」

「はい?」

「さっきと、言ってること違うの分かってる?」

ルッツが首を傾げた。

「え……。いや、さっきは建物ごとに考えてたんですけど、今見たら全体の流れが見えるというか」

本人は変化に気づいていない。自然に、当たり前のように、全体を俯瞰した発言が出てきている。

「……いいわ。その方向で計画を立て直して」

「分かりました!」

ルッツが図面を持って出ていった。

一人になった。

(私がやった……?)

手を見た。何も変わらない。鑑定は視るだけの能力だったはずだ。動かせるなんて聞いていない。

もう一度鑑定する。

【ルッツ・ハイデン】
現在価値:1,700
潜在価値:1,700
 企画力:100

数字は残っている。消えていない。つまり一時的なものではない。

(検証が必要ね。もう一度試して、再現できるか——)

ノックの音がした。

「入って」

セバスだった。手に書簡を持っている。封蝋に見覚えのない紋章が押してある。

「王室からの書簡です。急使が届けてまいりました」

受け取った。封を切る。

公金輸送命令書。

名目は「辺境防衛補助金」。緊急扱い。王室から金貨がアーレン領に送られてくる。封印金庫による輸送。受領書への署名を求める内容。

(急にこんなものが? 辺境防衛補助金なんて聞いたこともないけど)

「グレンを呼んで」

「かしこまりました」

セバスが退室した。

命令書をもう一度読んだ。封印金庫。緊急扱い。

——さっきグレンが語った話が、頭の中で重なった。

封印金庫で受け取って、開けたら足りなかった。抜いたのはお前だと言われて、終わり。

(同じだ。同じ単語が並んでる)

グレンの足音が廊下から近づいてくる。

命令書を机に置いた。移転能力の検証は、後だ。
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