【完結】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~

Lihito

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第2章:王都謀略編

47話:温かいだけ

眠れなかった。

正確には、眠れたのかもしれない。目を閉じて、開けたら朝だった。でもその間に何があったのか覚えていない。夢も見なかった。ただ、目を開けた瞬間に全部戻ってきた。

9,999。

私はこの人が、好きだ。

布団の中で天井を見た。木目が走っている。いつもの天井。いつもの部屋。何も変わっていない。変わったのは私だけ。

(……どうしよう)

どうしようもない。知ってしまったものは消せない。昨日の数字は消えない。昨日の心臓の音も、帳簿で顔を隠したことも、声が裏返ったことも。全部、あったこと。

起き上がった。顔を洗った。髪を整えた。鏡を見た。いつもの顔。少し目の下が暗い。眠れなかったせいだ。

(大丈夫。いつも通りにすればいい。帳簿を開いて、仕事をして、普通に——)

執務室のドアを開けた。

グレンが壁際にいた。

心臓が跳ねた。

「おはようございます。——異常ありません」

低い声。いつもの報告。いつもの朝。なのに声が耳の奥まで届いて、そこに留まる。

「……おはよう」

自分の声が小さかった。聞こえたかどうか分からない。机に向かった。早足になっていた。

椅子に座る。帳簿を引き寄せる。開く。数字が並んでいる。出荷記録の続き。昨日の分。

昨日。昨日の午後。あの夫婦が来て、執務室に戻って、帳簿が読めなくなって——

(やめて。仕事。仕事しなさい)

数字を追った。出荷量。224。次の行。仕入れ額。

背中に気配がある。壁際の気配。この部屋にいつもある気配。今まで当たり前だったもの。

同じ部屋にいるだけで、こんなにうるさいの。心臓が。

***

午前中、何をしていたのかよく覚えていない。

帳簿は開いていた。ペンも持っていた。インクの跡があるから、何かは書いたのだろう。でも何を書いたか、三回確認しないと分からなかった。

ルッツが報告に来た。第二加工場の基礎が予定通り進んでいる。排水路の追加工事も順調。

「お姉さん、聞いてます?」

「聞いてるわ」

「じゃあ今の数字、いくつでした?」

「……もう一回言って」

ルッツが首を傾げた。もう一度言ってくれた。今度はちゃんと聞いた。ちゃんと聞こうとした。

「分かったわ。そのまま進めて」

「はーい」

ルッツが出ていった。

(……私、今日おかしい)

分かっている。分かっているのに直せない。頭の中に膜が一枚かかっていて、外の音も数字もその膜を通ってくる。膜の内側には昨日の残像しかない。

9,999。あの数字が上がっていく感覚。自分の鼓動と同じ速度で。

(だから、やめて)

壁際を見ないようにしている。見たら終わる。何が終わるのか分からないけど、終わる気がする。

***

昼前に、セバスが入ってきた。

「アイリス様、縁談の件でございますが」

手に書類を持っている。先方への返書案だろう。前に条件交渉の書面を出して、その返事が来ていたはずだ。

「先方からの回答が届いております。条件面は概ね合意。顔合わせの日程について打診がありました」

書類を受け取った。目で追う。文字が並んでいる。条件。日程。場所。数字。

数字が読めない。

いや、読める。読めるのに、頭に入ってこない。昨日と同じだ。同じ症状。帳簿が読めなくなる病気にかかったみたいに。

「……セバス」

「はい」

「断るわ」

セバスのペンが止まった。

顔を上げた。セバスがこちらを見ている。驚いていない。驚いていないのに、確認するような目をしている。

「……先方にはどのようにお伝えしましょう」

静かな声だった。事務的で、丁寧で、それだけの問いかけ。額面通りに取れば、断り状の文面をどうするかという話。

「理由は——」

言いかけて、止まった。

理由。断る理由。条件が合わないから? 合っている。家格に問題があるから? ない。相手が嫌だから? 会ったこともない。

帳簿の人間なら、数字で説明できるはずだ。交易路の利害が合わない。物流拠点化の方向性と噛み合わない。何でもいい。数字を並べればいい。いつもそうしてきた。

——出てこない。

何一つ、出てこない。数字が。理由が。理論が。

壁際に気配がある。

(……見ちゃだめ。今は見ちゃだめ)

「……今は」

声が小さかった。自分でも聞こえるか怪しいくらい。

「今は、ここを離れたくないの」

言ってしまった。

セバスが黙っている。長い沈黙ではない。ほんの数秒。でもその数秒の中に、セバスの表情が微かに動くのが見えた。驚きじゃない。安堵でもない。名前のつけられない何か。二十三年この領地を守ってきた人が、何かを受け取った顔。

「かしこまりました」

それだけだった。理由は聞かなかった。「ここを離れたくない」が理由として成立するかどうかも聞かなかった。ただ、かしこまりました。

セバスが書類をまとめた。断り状はセバスが書くのだろう。体裁はこの人に任せればいい。二十三年分の実務が、曖昧な理由を適切な文面に変えてくれる。

セバスが一礼して、ドアに向かった。

部屋が静かになった。

静かすぎた。自分の呼吸が聞こえる。ペンを置いた音が聞こえる。窓の外でルッツの声が遠くに聞こえる。

壁際の気配だけが、変わらずそこにある。

さっきの会話を、全部聞いていたはずだ。「断るわ」も。「ここを離れたくない」も。

見れない。振り向けない。顔が熱い。耳も熱い。帳簿で隠したいのに、帳簿が手元にない。さっきセバスに返してしまった。

机の上には何もない。ペンとインク瓶と、空の湯飲みだけ。隠れる場所がない。

沈黙が続いた。長い沈黙。部屋の空気が動かない。

「——アイリス様」

息が止まった。

グレンの声。壁際から。低くて、静かで、いつもの声。

「……お茶を淹れましょうか」

目の奥が熱くなった。

お茶。この人が淹れるお茶。セバスに習って、蒸らしの時間を覚えて、四つ分の湯飲みを盆に載せて持ってきた。

縁談の話をしたあの日から、止まっていた。紅茶を淹れなくなった。書類を取らなくなった。壁際に戻って、「異常ありません」だけになった。

それが——今、戻ろうとしている。

「……お願い」

声が震えなかったか、自分では分からない。

足音がした。壁際から、ドアへ。グレンが部屋を出ていく音。静かな足音。

一人になった。

机に突っ伏した。額を腕に押しつけた。心臓がうるさい。顔が熱い。目の奥が熱い。

(何なの。お茶を淹れるって言っただけじゃない。それだけのことで——)

それだけのことじゃないから、こうなっている。

***

足音が戻ってきた。

慌てて体を起こした。髪を直す余裕はなかった。乱れてないことを祈るしかない。

ドアが開いた。盆を持ったグレンが入ってきた。湯飲みが二つ。湯気が立っている。

グレンが机に盆を置いた。湯飲みを一つ、こちらに寄せた。

「どうぞ」

手が近い。

湯飲みを受け取った。指先が触れそうで触れない距離。グレンの手が引かれる。その手を目で追いかけて、慌てて湯飲みに視線を落とした。

湯気が立っている。琥珀色の液面に、天井の明かりが映っている。

一口、飲んだ。

——分からない。

温度が分からない。味が分からない。濃いのか薄いのか、渋いのか甘いのか。いつもなら分かる。セバスの紅茶とグレンの紅茶の違いも、蒸らしが長いか短いかも。

何も分からない。心臓がうるさすぎて、舌が何も拾わない。

グレンがもう一つの湯飲みを取った。壁際に——戻らなかった。机の端に立っている。少し前まで立っていた場所。殻に入る前の距離。

二人とも、黙っていた。

窓から午後の光が差している。湯飲みの湯気が光の中を昇っていく。

グレンが一口飲んだ。

私も一口飲んだ。

味は、やっぱり分からなかった。分からないのに、手のひらが温かい。湯飲みの丸みが、掌にちょうどいい。

それだけが分かる。温かいということだけ。

(……いいか、もう)

味なんか分からなくていい。温かいから。この人が淹れて、この人が持ってきて、この人が同じものを飲んでいる。それだけで、手のひらが温かい。

窓の外でルッツの声がする。トビアスが誰かと話している。荷馬車の車輪の音。領地は動いている。

私は湯飲みを両手で包んで、温かいだけの紅茶を、ゆっくり飲んだ。
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