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16 人として死す(フリッツ視点)
しおりを挟む「あらためて、すまなかったね」
「いえっ、そのような」
ハンナさまが頭を下げるので、俺は彼女以上に平伏しなければならなかった。
「アンタが頭を下げる必要はないんだよ。悪いのは完全にこっちだ。だけど…そろそろ前向きな話をしようじゃないか」
「はあ」
そういえば、ハンナさまは何度も『お願い』があると言った。亜人に向かって、命令ではなくお願いとは、いかにも異常な言い回しだ。むろん、目の前の少女がまとっているオーラ以上に異常なものではないが。
俺は一度、狩りの途中で山の主に出会ったことがある。グレート・ワイルド・ボアだ。あの獣と対峙して、俺が生きて帰れたのは幸運に過ぎない。5メルを超える巨躯、大木を思わせる佇まい。澄み切った青空のような眼。おそらく百年以上は生きたであろう、老猪だった。
あれと対峙したとき、俺の心に恐怖はなかった。それよりも、なにか神聖なものに出会ったような、祈りにも似た感情が湧き上がったものだ。
ハンナさまの気配は、あのときの老猪にひどく似ている。それでいて神聖さは感じない。ただただ、底知れない大器に遭遇しているような。ゆえにかすかな畏怖を感じる。
「お願いというのは、グレッツナー家のために働いてもらいたいということさ」
ハンナさまの一言半句はずっしりと重い。重く感じる。これが貴族ということなのか、それともこの少女が特別なのか。
「それは、具体的には…」
「諜報活動さね」
ちょうほう…聞いたこともない言葉だった。俺が理解しかねているのを悟ったらしく、ハンナさまは、少し考え込む仕草を見せたあと━━
「たとえば帝都の宝物殿に忍び込んで、国宝を盗んでこいと言われたら、引き受けてくれるかい」
━━衝撃的なセリフを吐き出した。
「…そのようなことをすれば、死罪では済みませぬ。里の獣人が皆殺しにされます」
「まあ、そういう任務さ。盗むのは国宝じゃなく、情報だけどね」
ジョウホウという言葉がわからないが、たぶん国宝のように価値のあるものなのだろう。だとしたら、結局は同じことだ。里の滅亡がかかってくる。正直なところ、この『お願い』は我らの手に余る。だが貴族からの命令を断れば━━。
「これはあくまでお願いだ。断られても恨まないよ。だけどひとまず、こちらの出す条件を聞いてみちゃどうだい」
「条件、ですか」
戸惑いが声に出た。条件。つまりこれはどこまでも交渉なのだとハンナさまは言っている。それがどれほど異例なことか。しかしハンナさまはあくまで平静だ。
「諜報活動に従事するものには、ひとり年額50万ゴールドの賃金を支払う」
「賃金ですと!」
「ああ、50万ゴールドといったら、平民の平均所得と同じくらいかねえ。こう言っても伝わらないかい?」
わからない。ヘイキンショトクという言葉もわからないし、金を持ったことがない獣人にとっては50万ゴールドの価値もわからない。だが、なによりも獣人族に金銭が支払われるということ自体が前代未聞の事件だ。
「50万ゴールドあれば、5人家族が一年間、ゆうゆうと暮らせる」
「しかし、我ら亜人は市場への出入りが禁じられております」
金をもらっても使いどころがない。
「もちろん市場出入り禁止の法律は廃止する」
「んなっ…」
言葉がうまく出てこなかった。俺の頭の中に、めくるめくバラ色の生活が一気に思い浮かんだ。芋が食える。もしかしたらパンも。ひょっとしたら綿の衣服も着られるんじゃないか。それに、それに…酒。酒だ。酒が呑める。
すべて夢の中の出来事だった。人間なみの生活。人らしい生活。すべての亜人が欲して得られなかった暮らし。思い浮かべては消えていく泡沫のような夢。それがいま、手の届くところにある。ハンナさまの『お願い』を聞き届ければ、俺たちは人間になれる。
「実利のあるものはそれくらいさ。領地もちの貴族といったって、なんでもできるわけじゃない。あとは、そうだね…」
少し考え込んだあと、ハンナさまはさらなる衝撃を投げかけてきた。
「里長に姓を与えよう」
「姓!それでは…」
まさしく人間族なみの扱いではないか。姓をもつ亜人の話など聞いたことがない。
「それから、これも里長だけだが、騎士階級が与えられるよう、ご領主さまに上申する。最下級の三等騎士の位なら、確約してもいい」
「うっ」
もはや俺の口からはうめき声しか出ない。騎士階級━━貴族の権限で任命可能な称号のひとつ。5等級からなり、最下等であっても平民以上の存在とされている。
この俺が、獣人の俺が、大半の人間族よりも上の立場になる。そうなれば、俺の権威で里の獣人を庇護してやれる。平民の人間族どもからの不当な迫害に、抗議の声をあげることができる…。
「アタシがアンタたちに与えてやれるものはこれで全部だ。もう一度言うけれど、アタシのお願いを断ったとしても、恨みはしないよ。里長であるアンタが正しいと思う選択をすればいい」
あくまで俺に選ばせてくれるというのか。この方は━━。
あふれそうになる涙を、必死でこらえる必要があった。貴族令嬢が、獣人族の俺に、対等の立場で交渉してくださるのだ。俺を人間扱いしてくださるのだ。
ハンナさまのためならば、俺は死んでもかまわない━━。
「その儀は…」
お受けいたします、その言葉が喉の先まで出かかった。俺ひとりのことだったら、即答することができたかもしれない。だが、失敗すれば里が滅ぶ。俺は里長だ。1148人の獣人の命を預かっている。だから、沈黙することしかできない。
そのときだった。
「長、お受けしろっ」
背後からの声に振り返ると、あばら家の入り口に里人たちがつめかけていた。どうやらこいつらは、今の今までハンナさまとの会話を盗み聞きしていたらしい。ハンナさまが普通の貴族だったら、それだけで打首ものだ。
最長老のヤコブが声をはりあげる。
「フリッツ、どうして引き受けると言わねえ!俺ぁ、長いこと生きてきて、こんなに感激したことはねえ。こんな申し出をいただいて、断ったりしたら、それこそ俺たちゃ人間じゃなくなっちまう。心意気に応えねえで、なにが人間だ」
ボロボロと涙をこぼすヤコブの姿に、自分の心が重なった。しかし、それでも。
「失敗すれば里が滅ぼされることになりかねんのだ!」
すると今度は、この春に成人したばかりのカミルが反駁した。
「里は滅ばねえ。宝物殿に忍び込んで捕まったら、俺ぁその場で自分の喉をかっ切る!誰が命おしさでグレッツナー家を売るっていうんだ」
すると誰もが、そうだそうだと賛同する。
「長!俺たちゃ、なにも酒やパンが欲しくて言ってるんじゃねえ。こいつは魂の問題なんだ。いいか、お嬢様は俺たちに、人間として死ぬか、ケダモノとして生きるか、選べと言ってくださってるんだ。ケダモノとして生きてきた俺たちに、こんなチャンスをくだすったのは、あとにも先にもお嬢様だけだ。それがわからんアンタじゃなかろうに」
「フリッツ、あんたがお嬢様のお願いを断ったりしたら、俺ぁ今すぐに首をかっ切って、お嬢様にお詫びする」
「そうだ!俺ぁお嬢様のためなら、今死んでもかまわねえ」
こいつらの気持ちは、よくわかるつもりだ。俺たちは今日、はじめて人間らしい扱いを受けた。しかもその相手が伯爵家のご令嬢なのだ。これまでの泥水をすするような日々を思えば、人生の絶頂期である、いま死んでもかまわない。
生活のためじゃない。欲望や野心のためでもない。ただただ素朴な、この感情に名前をつけるとするならば、それは少しばかり大げさになるが、忠誠心というのではないか。
里人の気持ちはひとつだ。
ならばなんのためらいがあろうか。
俺はハンナさまのほうに振り返り、深く頭を下げた。へつらいではなく、心の底から敬意を込めて。
「ハンナさま、我ら獣人の衆、チョウホウの任を喜んでお受けいたします」
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