30 / 46
29 大貴族の落日3(アルフォンス視点)
しおりを挟む
幼い日のことを、いまでも思い出すことがある。屋敷のホールに集まった大勢の大人たち。貴族にしか許されない派手な染付の衣装に身をつつみ、贅沢にも絹織物で着飾っているものまである。それぞれに談笑していた大人たちは、しかし私を引き連れた父が現れるや、一斉に沈黙し、うやうやしく礼をした。
父はゆったりとした動作でホールを進み、壇上にあがって私を抱いた。
「諸君、これがラングハイム家の次期当主となる、アルフォンスだ」
父の声に大人たちは拍手で応えた。彼らの表情にこめられた、敬意、畏怖、媚態、阿り、あるいはへつらい。私が見上げるとそこには、満足げな父の笑みがある。父は私にしか聞こえないだろう声音で、そっとささやいた。
「アルフォンス、これがみんな、いずれお前のものになる。お前はラングハイム家の━━儂の子どもなのだから」
子煩悩な父がいつも私に玩具をくれるときの、優しい声だった。温かいはずのその響きに、ぞっと寒気がした。
「お前は儂の子だ。儂の子なのだ…」
父の目は、私を見ていなかった。視線だけは私に向いていたが、どこか遠くをさまよっている目だった。
それから数年後のことだ。偶然、侍女たちのうわさ話を耳にしたのは。
私は父の子ではない━━侍女はたしかにそう言った。そんなはずはないのだと。何十人もの妻や愛妾をもちながら、誰ひとり父の子を身ごもったものはいない。私の母をのぞいて。そんな偶然があるはずはないと。
もちろんそれは、無責任なうわさ話でしかなかった。証拠は何もない。母はとうに亡く、真偽を確かめるすべもない。しかしヘラヘラと笑って言った侍女の言葉は私の胸を貫いた。
━━だってアルフォンスさまは、ちっとも公爵閣下に似ていらっしゃらないわ。閣下と違って、お顔立ちが整いすぎていらっしゃるんだもの。
私が受けた衝撃は大きく、しかし短かった。自分が父の子でないという事実(らしきもの)に接して、もちろん傷つきはしたものの、その悲しみはすぐに別の感情に埋められてしまったのだ。
これでは父があまりに可哀そうだ。
当時すでに50を過ぎていた父が、10歳の私に哀れまれるというのも妙な話だが、それが私の素直な気持ちだったのだから仕方がない。
父は血を受け継いだ子どもがどうしても欲しくて、その想いを母に利用されたのだ。母は別の男との間に子を作り、それが父の種になる子だと偽った。ラングハイム家の当主の母になるために。だが、こんな残酷なことはない。
よりいっそう悲壮なことは、父が私の出自にうっすらと気づいていることだ。だから父は必要以上に私を可愛がり、ことあるごとに「お前は儂の子だ」と私に吹き込み続けた。
そうすることで、父は自分自身を納得させようとしていたのだろう。父は私が自分の血を受け継いだ子どもだと、信じているのではなく、信じたいのだ。
いったい父は、どんな気持ちで私を愛してきたのだろう。少しも自分に似ていない子どもを。自分を騙した女の息子を。それでも愛さずにはいられなかったのだ━━これが哀れまずにいられるだろうか。
そしてその感情を引きずったまま、私は13歳になった。15歳になれば『学園』の政経科に入学して、政治を学ぶのがラングハイム家の嫡男としての義務だが、そのまえに、すでに私は貴族としての心構えを父から学び始めていた。
父の後について、領地経営を見、人脈の引き継ぎを行うのがそれだ。とくに伯母が嫁いだカウニッツ侯爵家や、ラングハイム派閥の両翼と呼ばれるアメルハウザー公爵家との交流は頻繁だった。当代のカウニッツ侯、アメルハウザー公とは何度も顔を合わせ、会食の機会も多かった。
全人類の命運を握る、帝国の軍務大臣、大蔵大臣、宰相の三者がそろった場所に、13歳の子どもが当たり前の顔をして同席しているのだ。異常な光景といっていい。だがこれこそが貴族政治であり、派閥政治なのだ。ラングハイム家の次期当主である私には、彼らと同席する資格が充分にある。
顔見知りの大人たちの、くだらない世間話の合間に国家的事業が決まっていくという体験は、私にとって刺激的だった。大人の階段を百段飛ばしに駆けのぼっている気分だ。下積みもなしで、いきなり国家の中枢をのぞき見した私は、危うく自分が特別な存在なのだと勘違いしそうになった。
父に言わせれば、私は真実、特別な存在ということになるのだろう。だが私は知っている。自分がラングハイムの血統を受け継いでいないことを。だからこそ私は、ギリギリのところで冷静さを保つことができたのかもしれない。
そんな日々が続いたある日のことだ。私は父に呼ばれて、初めて帝城に昇った。これも異例のことだろう。宮廷になんの役職もない、爵位もまだ譲られていない子どもが、皇帝からの応召もなしに城に入ったのだ。普通なら門前払いになるところだが、ラングハイム家に逆らえるものなど、そう多くはない。私は官僚に案内されて、父のもとにたどり着いた。
「おお、待っておったぞアルフォンス!」
入室するなり、父が笑みを浮かべて私を迎えた。その広い部屋は軍務大臣の執務室だった。当然、部屋の主であるカウニッツ侯もその場にいる。軽く会釈して、私は父に向き直った。
「父上、帝城に呼ばれるとは、いったい何事ですか」
「うむ、今日はお前に、権力の使い方というものを実地で教えようと思うのだ」
「実地?」
「…この部屋には今から、国軍の司令長官が来ることになっておる」
「司令━━するとリーゼンフェルト侯が」
「そうだ。やつめ、なにやらカウニッツ侯に抗議すると息巻いているそうな。愚かなことだ」
リーゼンフェルト侯爵家といえば、近ごろ父と対立しがちな東方諸侯の武断派だ。これまでに10人以上の司令長官を輩出している武官の名門でもある。
「…儂はこの3年間、東方諸侯の勢力を排除することに血道をあげてきた。リーゼンフェルト侯爵家はその最後の巨魁だ。やつを潰せば宮廷から東方諸侯の影響は一掃できる。そうなればやつらは、政府の決定に抗うすべがなくなる。あとは煮るなり焼くなり、儂の思うがままだ」
父の言うことに私はうなずいた。
東方はかつて建国の際、最後までヴァイデンライヒ帝家に抵抗した、協調に欠く地域だ。全人類が手を取り合い、魔族に対抗せねばならなかったときに、東方諸侯が我をはって足並みを乱したことは、利敵行為といってよい。それが今になって中央政府に派閥をつくるなど、厚かましいにもほどがある。私は周囲の大人たちにそう教えられてきたし、少なくともこの時点では、私も東方諸侯に不信感をもっていた。
それが吹き飛んだのは、リーゼンフェルト侯の発言によってだ。
「なにゆえこの時期に国軍の駐留地を変えなければならなかったのか、その根拠をうかがいたい!」
最初から興奮ぎみだったリーゼンフェルト侯は、問答を重ねるたびに激していった。
「魔王国の活動が活発になったなどという報告は、諜報部から受けておりません。そもそも駐留地の選定は武官よりの進言をもとになされるのが慣例でしょう。戦時ならいざしらず、平時の続くいま、軍務大臣はなにゆえ武官の見識を軽んじ、秩序を乱されるのか!」
「その秩序とやらが、既得権益の温床となり、軍部の権力が肥大することを懸念しているのだ」
「その結果がアスペルマイヤー領への移動ですか!それはまた大したご見識ですな。北部にあって対魔王国の防壁の一部である第4師団を、内地に動かすということは、前線の防御ラインに致命的な弱点を生じせしめることになりもうす。この利敵行為としか考えられない現実を、軍務大臣はいかがお考えか!」
ほとんど恫喝にひとしいリーゼンフェルト侯の声音に、カウニッツ侯はたじたじとなる。私としては、縁戚であるカウニッツ侯に味方したいのが人情だったが、リーゼンフェルト侯の発言には一本筋が通っていた。
平時とはいえ前線から軍の一部を動かすとなると、無用な混乱を招くだけではないか。まして軍事上の要衝ともいえないアスペルマイヤー領に、国軍を駐留させるなど、素人である私にも不自然に思われたのだった。
とはいえ、軍務大臣と国軍司令長官の討論に割って入るほど、私は増長していなかった。この場で意見を述べられる資格がある者は、いまひとりだけ。帝国宰相である父だ。
その父が白熱するふたりを手で制し、重々しく口を開いたとき、私はなんとなく安心感を覚えたものだ。
「もうよい、リーゼンフェルト侯、自分と意見が違うからといって、上司にあたるはずの軍務大臣の決定を、利敵行為呼ばわりするのはいかがなものかな。これではいったい、どちらが秩序を軽んじているのやら」
「…失礼いたしました」
素直に侘びたリーゼンフェルト侯だが、その目に宿る光はいささかの衰えもない。正義は我にありと疑わないものの目だった。案の定、反駁するために彼は口を開いた。
「しかしです━━」
「もうよいと申しておる!」
リーゼンフェルト侯を父が掣肘する。
「反抗心はいまだ失われず、か。これだから東部の田舎者は…。貴様ら東部貴族が秩序などと口にするとは、片腹痛いわ。かつて建国に際して、高祖陛下にたてついた不忠者どもが!」
「…いったいいつまでなのです?」
リーゼンフェルト侯の声が震えた。
「いったいいつまで我らは、そうして外様あつかいを受けねばならぬのですか。建国の際ですと?700年もまえの話ではありませぬか!」
その発言に、いまさらながらはっとした。そうだ━━帝国の世界統一は700年も前のできごとだった。そんなあたりまえの事実にさえ、これまで私は思い至らなかったのだ。
「私は人類と、帝国と、皇帝陛下のおんために、誠意を持って進言しているのです。どうか駐留地の変更については、ご再考ください。お聞き入れくださるならば、私は職を辞してもかまいません!」
おどろくほどに清廉な覚悟だ━━私はリーゼンフェルト侯の発言に感動すらしていた。その熱意は父をも動かしたのだろうか。
「…良いだろう、おぬしが司令長官職を辞めるというなら、駐留地変更について、一考してやる」
「本当ですか!」
「帝国宰相たるもの、二言はない」
こうして一件は落着した。リーゼンフェルト侯が出ていったあと、父は葉巻に火をつけて、盛大に煙を吐き出した。そして━━唐突に哄笑したのである。
「ハーハッハッハ!」
「クックック」
カウニッツ侯も笑っていた。父は喜色を満面に浮かべて言う。
「やつめ、やつめ自分から司令長官を降りたぞ。信じられん愚か者だ!」
「リーゼンフェルト家の政治下手は有名な話ですが、あれほどとは思いませなんだな」
「こちらから切り出す手間がはぶけたわ。これで邪魔者は消え、駐留地変更も成った。一石二鳥とはこのことよ」
駐留地変更が成った…?私は耳を疑った。思わず父に問いかける。
「父上、駐留地変更は考え直すお約束では」
「アルフォンス、お前までなにを寝言をほざいておるのだ。邪魔者が消えたというのに、どうして我らが計画を変えねばならぬ?」
「し、しかし、帝国宰相に二言はないと…」
「だから儂は言ったではないか。一考してやると。考えた末に、あらためて駐留地を変更する必要があると判断したのだ」
それではあまりに━━言いかけた言葉を、私は飲み込んだ。そうだ。父にはなにか深い考えがあって、駐留地を変更するとおっしゃられているに違いないのだ。だからその真意を問わずにはいられなかった。
「…どうして候補地がアスペルマイヤー領だったのですか?」
「アスペルマイヤー伯が我が意に逆らったからだ」
続く言葉はなかった。それだけなのだ。本当にそれだけで、父は駐留軍をアスペルマイヤー伯に押し付けようとしているのだ。
失望が私の胸中に広がった。
あるいは━━私たちが本当の親子だったら、このとき私は父に意見したかもしれなかった。血縁という、絶対の裏づけがあれば。父のやり方に反発する余地があったのかもしれない。
だが私たちは本当の親子ではなかった。私はそのことに気づいていたし、父も知っていたに違いない。
ゆえにこそ、私には反抗期などという甘えは存在しなかった。父を憐れむと同時に、私は父を恐れていた。
いつか父に捨てられるのではないか━━その考えは、おそらく生涯を通して、私の中から消えることはないだろう。
父はゆったりとした動作でホールを進み、壇上にあがって私を抱いた。
「諸君、これがラングハイム家の次期当主となる、アルフォンスだ」
父の声に大人たちは拍手で応えた。彼らの表情にこめられた、敬意、畏怖、媚態、阿り、あるいはへつらい。私が見上げるとそこには、満足げな父の笑みがある。父は私にしか聞こえないだろう声音で、そっとささやいた。
「アルフォンス、これがみんな、いずれお前のものになる。お前はラングハイム家の━━儂の子どもなのだから」
子煩悩な父がいつも私に玩具をくれるときの、優しい声だった。温かいはずのその響きに、ぞっと寒気がした。
「お前は儂の子だ。儂の子なのだ…」
父の目は、私を見ていなかった。視線だけは私に向いていたが、どこか遠くをさまよっている目だった。
それから数年後のことだ。偶然、侍女たちのうわさ話を耳にしたのは。
私は父の子ではない━━侍女はたしかにそう言った。そんなはずはないのだと。何十人もの妻や愛妾をもちながら、誰ひとり父の子を身ごもったものはいない。私の母をのぞいて。そんな偶然があるはずはないと。
もちろんそれは、無責任なうわさ話でしかなかった。証拠は何もない。母はとうに亡く、真偽を確かめるすべもない。しかしヘラヘラと笑って言った侍女の言葉は私の胸を貫いた。
━━だってアルフォンスさまは、ちっとも公爵閣下に似ていらっしゃらないわ。閣下と違って、お顔立ちが整いすぎていらっしゃるんだもの。
私が受けた衝撃は大きく、しかし短かった。自分が父の子でないという事実(らしきもの)に接して、もちろん傷つきはしたものの、その悲しみはすぐに別の感情に埋められてしまったのだ。
これでは父があまりに可哀そうだ。
当時すでに50を過ぎていた父が、10歳の私に哀れまれるというのも妙な話だが、それが私の素直な気持ちだったのだから仕方がない。
父は血を受け継いだ子どもがどうしても欲しくて、その想いを母に利用されたのだ。母は別の男との間に子を作り、それが父の種になる子だと偽った。ラングハイム家の当主の母になるために。だが、こんな残酷なことはない。
よりいっそう悲壮なことは、父が私の出自にうっすらと気づいていることだ。だから父は必要以上に私を可愛がり、ことあるごとに「お前は儂の子だ」と私に吹き込み続けた。
そうすることで、父は自分自身を納得させようとしていたのだろう。父は私が自分の血を受け継いだ子どもだと、信じているのではなく、信じたいのだ。
いったい父は、どんな気持ちで私を愛してきたのだろう。少しも自分に似ていない子どもを。自分を騙した女の息子を。それでも愛さずにはいられなかったのだ━━これが哀れまずにいられるだろうか。
そしてその感情を引きずったまま、私は13歳になった。15歳になれば『学園』の政経科に入学して、政治を学ぶのがラングハイム家の嫡男としての義務だが、そのまえに、すでに私は貴族としての心構えを父から学び始めていた。
父の後について、領地経営を見、人脈の引き継ぎを行うのがそれだ。とくに伯母が嫁いだカウニッツ侯爵家や、ラングハイム派閥の両翼と呼ばれるアメルハウザー公爵家との交流は頻繁だった。当代のカウニッツ侯、アメルハウザー公とは何度も顔を合わせ、会食の機会も多かった。
全人類の命運を握る、帝国の軍務大臣、大蔵大臣、宰相の三者がそろった場所に、13歳の子どもが当たり前の顔をして同席しているのだ。異常な光景といっていい。だがこれこそが貴族政治であり、派閥政治なのだ。ラングハイム家の次期当主である私には、彼らと同席する資格が充分にある。
顔見知りの大人たちの、くだらない世間話の合間に国家的事業が決まっていくという体験は、私にとって刺激的だった。大人の階段を百段飛ばしに駆けのぼっている気分だ。下積みもなしで、いきなり国家の中枢をのぞき見した私は、危うく自分が特別な存在なのだと勘違いしそうになった。
父に言わせれば、私は真実、特別な存在ということになるのだろう。だが私は知っている。自分がラングハイムの血統を受け継いでいないことを。だからこそ私は、ギリギリのところで冷静さを保つことができたのかもしれない。
そんな日々が続いたある日のことだ。私は父に呼ばれて、初めて帝城に昇った。これも異例のことだろう。宮廷になんの役職もない、爵位もまだ譲られていない子どもが、皇帝からの応召もなしに城に入ったのだ。普通なら門前払いになるところだが、ラングハイム家に逆らえるものなど、そう多くはない。私は官僚に案内されて、父のもとにたどり着いた。
「おお、待っておったぞアルフォンス!」
入室するなり、父が笑みを浮かべて私を迎えた。その広い部屋は軍務大臣の執務室だった。当然、部屋の主であるカウニッツ侯もその場にいる。軽く会釈して、私は父に向き直った。
「父上、帝城に呼ばれるとは、いったい何事ですか」
「うむ、今日はお前に、権力の使い方というものを実地で教えようと思うのだ」
「実地?」
「…この部屋には今から、国軍の司令長官が来ることになっておる」
「司令━━するとリーゼンフェルト侯が」
「そうだ。やつめ、なにやらカウニッツ侯に抗議すると息巻いているそうな。愚かなことだ」
リーゼンフェルト侯爵家といえば、近ごろ父と対立しがちな東方諸侯の武断派だ。これまでに10人以上の司令長官を輩出している武官の名門でもある。
「…儂はこの3年間、東方諸侯の勢力を排除することに血道をあげてきた。リーゼンフェルト侯爵家はその最後の巨魁だ。やつを潰せば宮廷から東方諸侯の影響は一掃できる。そうなればやつらは、政府の決定に抗うすべがなくなる。あとは煮るなり焼くなり、儂の思うがままだ」
父の言うことに私はうなずいた。
東方はかつて建国の際、最後までヴァイデンライヒ帝家に抵抗した、協調に欠く地域だ。全人類が手を取り合い、魔族に対抗せねばならなかったときに、東方諸侯が我をはって足並みを乱したことは、利敵行為といってよい。それが今になって中央政府に派閥をつくるなど、厚かましいにもほどがある。私は周囲の大人たちにそう教えられてきたし、少なくともこの時点では、私も東方諸侯に不信感をもっていた。
それが吹き飛んだのは、リーゼンフェルト侯の発言によってだ。
「なにゆえこの時期に国軍の駐留地を変えなければならなかったのか、その根拠をうかがいたい!」
最初から興奮ぎみだったリーゼンフェルト侯は、問答を重ねるたびに激していった。
「魔王国の活動が活発になったなどという報告は、諜報部から受けておりません。そもそも駐留地の選定は武官よりの進言をもとになされるのが慣例でしょう。戦時ならいざしらず、平時の続くいま、軍務大臣はなにゆえ武官の見識を軽んじ、秩序を乱されるのか!」
「その秩序とやらが、既得権益の温床となり、軍部の権力が肥大することを懸念しているのだ」
「その結果がアスペルマイヤー領への移動ですか!それはまた大したご見識ですな。北部にあって対魔王国の防壁の一部である第4師団を、内地に動かすということは、前線の防御ラインに致命的な弱点を生じせしめることになりもうす。この利敵行為としか考えられない現実を、軍務大臣はいかがお考えか!」
ほとんど恫喝にひとしいリーゼンフェルト侯の声音に、カウニッツ侯はたじたじとなる。私としては、縁戚であるカウニッツ侯に味方したいのが人情だったが、リーゼンフェルト侯の発言には一本筋が通っていた。
平時とはいえ前線から軍の一部を動かすとなると、無用な混乱を招くだけではないか。まして軍事上の要衝ともいえないアスペルマイヤー領に、国軍を駐留させるなど、素人である私にも不自然に思われたのだった。
とはいえ、軍務大臣と国軍司令長官の討論に割って入るほど、私は増長していなかった。この場で意見を述べられる資格がある者は、いまひとりだけ。帝国宰相である父だ。
その父が白熱するふたりを手で制し、重々しく口を開いたとき、私はなんとなく安心感を覚えたものだ。
「もうよい、リーゼンフェルト侯、自分と意見が違うからといって、上司にあたるはずの軍務大臣の決定を、利敵行為呼ばわりするのはいかがなものかな。これではいったい、どちらが秩序を軽んじているのやら」
「…失礼いたしました」
素直に侘びたリーゼンフェルト侯だが、その目に宿る光はいささかの衰えもない。正義は我にありと疑わないものの目だった。案の定、反駁するために彼は口を開いた。
「しかしです━━」
「もうよいと申しておる!」
リーゼンフェルト侯を父が掣肘する。
「反抗心はいまだ失われず、か。これだから東部の田舎者は…。貴様ら東部貴族が秩序などと口にするとは、片腹痛いわ。かつて建国に際して、高祖陛下にたてついた不忠者どもが!」
「…いったいいつまでなのです?」
リーゼンフェルト侯の声が震えた。
「いったいいつまで我らは、そうして外様あつかいを受けねばならぬのですか。建国の際ですと?700年もまえの話ではありませぬか!」
その発言に、いまさらながらはっとした。そうだ━━帝国の世界統一は700年も前のできごとだった。そんなあたりまえの事実にさえ、これまで私は思い至らなかったのだ。
「私は人類と、帝国と、皇帝陛下のおんために、誠意を持って進言しているのです。どうか駐留地の変更については、ご再考ください。お聞き入れくださるならば、私は職を辞してもかまいません!」
おどろくほどに清廉な覚悟だ━━私はリーゼンフェルト侯の発言に感動すらしていた。その熱意は父をも動かしたのだろうか。
「…良いだろう、おぬしが司令長官職を辞めるというなら、駐留地変更について、一考してやる」
「本当ですか!」
「帝国宰相たるもの、二言はない」
こうして一件は落着した。リーゼンフェルト侯が出ていったあと、父は葉巻に火をつけて、盛大に煙を吐き出した。そして━━唐突に哄笑したのである。
「ハーハッハッハ!」
「クックック」
カウニッツ侯も笑っていた。父は喜色を満面に浮かべて言う。
「やつめ、やつめ自分から司令長官を降りたぞ。信じられん愚か者だ!」
「リーゼンフェルト家の政治下手は有名な話ですが、あれほどとは思いませなんだな」
「こちらから切り出す手間がはぶけたわ。これで邪魔者は消え、駐留地変更も成った。一石二鳥とはこのことよ」
駐留地変更が成った…?私は耳を疑った。思わず父に問いかける。
「父上、駐留地変更は考え直すお約束では」
「アルフォンス、お前までなにを寝言をほざいておるのだ。邪魔者が消えたというのに、どうして我らが計画を変えねばならぬ?」
「し、しかし、帝国宰相に二言はないと…」
「だから儂は言ったではないか。一考してやると。考えた末に、あらためて駐留地を変更する必要があると判断したのだ」
それではあまりに━━言いかけた言葉を、私は飲み込んだ。そうだ。父にはなにか深い考えがあって、駐留地を変更するとおっしゃられているに違いないのだ。だからその真意を問わずにはいられなかった。
「…どうして候補地がアスペルマイヤー領だったのですか?」
「アスペルマイヤー伯が我が意に逆らったからだ」
続く言葉はなかった。それだけなのだ。本当にそれだけで、父は駐留軍をアスペルマイヤー伯に押し付けようとしているのだ。
失望が私の胸中に広がった。
あるいは━━私たちが本当の親子だったら、このとき私は父に意見したかもしれなかった。血縁という、絶対の裏づけがあれば。父のやり方に反発する余地があったのかもしれない。
だが私たちは本当の親子ではなかった。私はそのことに気づいていたし、父も知っていたに違いない。
ゆえにこそ、私には反抗期などという甘えは存在しなかった。父を憐れむと同時に、私は父を恐れていた。
いつか父に捨てられるのではないか━━その考えは、おそらく生涯を通して、私の中から消えることはないだろう。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
借金まみれで高級娼館で働くことになった子爵令嬢、密かに好きだった幼馴染に買われる
しおの
恋愛
乙女ゲームの世界に転生した主人公。しかしゲームにはほぼ登場しないモブだった。
いつの間にか父がこさえた借金を返すため、高級娼館で働くことに……
しかしそこに現れたのは幼馴染で……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる